古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「干支」と命名法

2020年04月10日 | 古代史
 「大宝二年戸籍」には子供の名前に生まれた年の干支を取り入れている場合が見受けられます。たとえば、寅年生まれだと「刀良」や「刀良売」、卯年生まれだから「宇提」「宇提売」「宇麻呂」などと名づけるのがそうです。このような命名法は「庚寅年」以前には見られません。(つまり干支と人名に対応が見出せない)ここれについては一般には理由は不明とされていますが、「庚寅」年に「戸籍」(いわゆる「庚寅戸籍」)が造られたことと深く関係していることは明確であり、その時点で「班田制」が施行されたらしいことと関係しているように思われます。
 「班田」の支給は「戸籍」の作成と関連しており、戸籍が「六年に一度」造られるとすれば「班田」は「六歳以上」について支給されることとなります。生年を名前につけておけば「干支」(といっても「十二支」の方ですが)が使用されていることから「十二種類」しかなく、生まれてから六年経過したことがわかりやすいという特徴があり、班田支給年齢に達したかが戸籍を見なくても識別できるということから命名法として普及したものと推察します。
 ところがこの対応関係が「丙申年」以降一年「ずれる」現象が確認されています。(※1)つまり、実際の生年の干支の「翌年」の干支を人名に用いることが頻出するのです。
 確かに「丙申年」まではその年の干支を人名にしているのが多くなっています。たとえばその前年は「未年」ですが、「羊」や「羊売」などと命名されているのがそうです。しかしこの翌年の「丁酉」になると突然、「酉年」であるのに「翌年」の「干支」である「戌」にちなんだ「犬麻呂」と言う名称が現れ、「酉(鳥)」に関する名称は見えません。以降も同様に生年の「翌年」の干支が名称に使用されているのがわかります。その翌年は戌年ですが「猪手売」、更にその翌年である「己亥」は亥年であるのに「根麻呂」、翌年は子年にも関わらず「牛麻呂」や「牛売」、さらにその次は丑年で「刀良」、「刀良売」、その翌年は「壬寅」で「宇麻呂」、「宇提売」などとなっています。その年次の干支を使用した例は「一件」も確認されていないのです。この「ずれ」はこの「壬寅」年で終了しその翌年から正常に戻ります。このことは「大宝二年戸籍」時に修正されたとみられます。
 これについて岸俊男氏は「籍帳」を製作した実年時(大宝三年以降であろうと推測されています)と提出されたとされる年次(これが「大宝二年」)の相違に帰して考察していますが、そうとは思えないのは当然です。その場合その年次付近だけになぜ現れるかを説明しなければなりません。
 「持統王権」による「庚寅」の改革時点で「造籍」も行われたものであり、その時点で「唐」の武則天が行った「周正」つまり「十一月」を歳首とする「改暦」を「持統王権」が取り入れたという「仮説」が有力であり(「洞田一典氏」が提唱した説(※2))、「庚寅年」の「十一月」を「歳首」つまり「正月」とする暦の変更が行われたと見られます。それを示すのが「永昌元年」という「日付」が書かれた「那須国造碑」の存在です。
 この「永昌元年」という日付は「武則天」が「周正」を導入した年次であり、それは「永昌元年」と改元した直後のことでした。(ここに「唐」の年号が存在している理由についてはすでに検討しましたが「持統王権」が当時「唐」に対し追従する姿勢を持っていたことは確かと思われます)
 その場合この年は「十二月」がなかったと「誤解」された可能性があります。その年の「十一月」に「実施したはず」の「大嘗祭」も「十一月」が「なくなってしまった形」となり、その次年度のこととして記録されてしまうこととなったと思われるわけです。
 結局「年次」が一年ずれた「暦」が作成されてしまったものであり、それが役所や諸国に配布・備え付けられたこととなります。ただし「暦」は「十一月」になって作成され配布されますから、「造籍」の際にそれ以前に生まれた子供たちを一括で追記することとなりますが、その彼等の命名は生年にすでに終わっているわけであり、その時点の「暦」は「ずれ」のない「周正」以前の暦により命名されたと見られますから、「造籍」の際には「命名」と「干支」との間に「ずれ」はなかったものですが、次の「造籍」(が行われたと考えられている)である「六年後」の「丙申」の年までに生まれた人は「ずれた暦」で命名されていたと見られるわけです。(当然「暦」そのものは「庚寅」から「大宝二年」まで使われたと見られる)そしてその「生年」と「ずれた」名前が「戸籍」に記載されたということとなるわけです。

 この当時一般民衆は家族などが生まれたり死去したりした際に「役所」に届け出を行う必要がありました。そしてその時点で「戸籍」(籍帳)に書き込まれることとなったわけですが、当然生まれた日や死去した日は重要であり、それは「役所」に備え付けられていた「具注暦」で知ることとなったわけです。この「暦」には年月日が書かれていると共に年や日について「干支」との対応が参照可能となっていたものです。そのためもしその「暦」が「ずれ」ていたとすると子供の名前も本来の干支とは異なる名前となってしまいます。
 このとき「筑紫」地域の戸籍において「生年干支」とは異なる名前がつけられていたのはこの「基準」となるべき「暦」に「ズレ」があったからと見るよりなく、「頒布」されていた「具注暦」に何らかのトラブルが生じていた可能性が高く、その中身として最も考えられるのが上に見た「周正」への変更であり、「一月」と「正月」が同年に発生した結果、「干支」の数え方を誤った可能性が高いと推量します。
 この「ずれ」は「周正」の影響と見ることができるのはその「ずれ」が「大宝二年」の造籍時点(というより直前)で修正されたらしいことからも言えます。なぜなら「周正」は「武周」において「七〇一年」まで継続したものであり、その翌年「夏正」に復帰しましたから(新羅も同様)、仮に「倭国」においてもこの時点で「復帰」つまり「一月」が「歳首」という「夏正」に変更したとすると「戸籍」の示す状況と一致しているからです。
 ただし「庚寅」から使用されていた「ズレ」た暦が「大宝二年」に新日本王権により「棄却」されたとすると、その流れには「干支がずれた」暦を造った「持統王権」に対する「否定」と「侮蔑」があったと見て不自然ではないでしょう。それはすでにみた「人身売買」の否定などの施策と一連のものと見られるものです。

 以上いくつかのポイントから考えた結果、「新日本王権」は「持統王権」を否定する施策を複数行っていたと見られることから、「持統王権」とは「別の王権」であると自らを規定していた可能性が高く、「持統王権」の都として造られた「藤原宮」(京)についても「新日本王権」としては、彼等とは別の王権の「宮都」で有ると認定していたと見るべきであり、巷間言われているような「新日本王権」の「旧都」としての「藤原宮」というものが誤解である可能性が高いと推量します。「鎮壇具」として埋められていた「富本銭」についても「新日本王権」の製造にかかるものではなく「倭国王権」の政策として鋳造されたと見るべきと思料します。
 以前も触れたように「倭国王権」から「日本国王権」へと王権交代があった後一度「倭国王権」に戻った後「日本王権」の復活という形で「新日本王権」が誕生したと見られるわけであり、それは「宮都」の変遷という意味でも「藤原宮」が「倭国王権」の「宮都」であって「新日本王権」とはいわば「関係がない」と見るべきことを示します。


(※1)岸俊男「十二支と古代人名 -籍帳記載年令考-」(『日本古代籍帳の研究』塙書房一九七九年)
(※2)洞田一典「持統・文武の大嘗を疑う-「持統周正仮説」による検証」(『新・古代学第五集 古田武彦とともに』新泉社二〇〇一年)