古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「西」の意義について

2018年06月10日 | 古代史

 「鎮西」の語義についてですが、これは本来「西」を「鎮」するということであり、「西」「西国」というだけで「九州」を指す例の応用であると思われます。『書紀』の「西国」の例を見ると「天武」の時代のものが最古とみられます。(以下の例)

「(天武)五年(六七六年)夏四月戊戌朔辛亥条」「勅。諸王。諸臣被給封戸之税者。除以西國。相易給以東國。又外國人欲進仕者。臣連。伴造之子。及國造子聽之。唯雖以下庶人。其才能長亦聽之。」

 ここ出てくる「西国」は「九州」を指すというのが定説のようです。(「白村江の戦い」などで九州諸国が疲弊したための救済措置と理解されているもののようです)
 このように「西」あるいは「西国」というのは「九州」を指し、それを「鎮」(「支配」)するという意味で「鎮西」という語が発生したと思われますが、いずれにしても「九州」を支配していたものが「九州内」にいた事を示すものであり、それが「大宰府」や「大宰」に意義が転じたものです。
 この「西」に関しては興味深い記事が『日本帝皇年代記』中に見受けられます。

「丁酉(僧要)三 二月大星流 声如雷 東流 西朝無知者沙門僧旻曰此星曰天狗 東方恐有乱乎 果蝦夷叛」

 ここでは「西朝」という表現が使用されており、これは明らかに「近畿天皇家」ではないといえるでしょう。「西」とは上に見たように「九州」を指す用語ですから、これは「九州王朝」を端的に指す表現といえるのではないでしょうか。
 この「西朝」という用語は『続日本紀』の『元正紀』にも出てくるものの、これは「平城京」に二つ存在していた「大極殿」に関わる表現と考えられますので、意味合いが異なると言えます。ただし、「洞田氏」や「古賀氏」が言及された「宝亀元年」の「歌垣」記事(以下のもの)に出てくる「にしのみやこ」という表現については、改めて注意が向けられるべきものと思われます。(※)

「宝亀元年(七七〇)三月辛卯【廿八】条」「葛井。船。津。文。武生。蔵六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並著青摺細布衣。垂紅長紐。男女相並。分行徐進。歌曰。乎止売良爾。乎止古多智蘇比。布美奈良須。爾詩乃美夜古波。与呂豆与乃美夜。其歌垣歌曰。布知毛世毛。伎与久佐夜気志。波可多我波。知止世乎麻知弖。須売流可波可母。毎歌曲折。挙袂為節。其余四首。並是古詩。不復煩載。…」『続日本紀』

 ここで問題となった「歌垣」で詠われたという「古詩」は「一音一語」という「初期」の形式の万葉仮名で書かれており、「古詩」という名にふさわしいとも言えます。(『万葉集』にもほとんど見られないもの。また「不復煩載」とはこのような「一字一音」表記が「煩わしい」という意味ではないでしょうか。書かれてあったものを書き写したと見られ、その作業が煩瑣であるという事と理解できます。)
 通常このような表記法は「柿本人麻呂」以前のものであると考えられ、その場合「七世紀」代まで遡上するという可能性もあると思われます。そうすると上の「西朝」とそれほど時代が異ならないという可能性も出てくるでしょう。(たとえば『書紀』『古事記』においては全ての歌謡は一字一音で表されており、また借訓がみられないとされます)
 但し「難波宮」遺跡から出土した「はるくさ木簡」では「は」の表記として「波」ではなく「皮」が使用されており、さらにこの歌垣の古詩では「はるくさ木簡」の「刀」に対して「止」、同じく「斯」に対して「志」というように使用字が異なりますが、「と」の表記に「止」を使用しているのは「訓」であり「音」ではありません。(借訓字)一般には「音」で表記している方が古いとされており、「はるくさ木簡」の方が先行していると言えます。
 この「はるくさ木簡」に関していうと「難波宮整地層」のさらに下の層からの出土であったことから(第七層)、「七世紀半ば」をさらに遡上するという可能性があると思われますが、それよりこの「古詩」が新しいとしても「七世紀半ば」程度までの遡上は想定すべきと思われます。

 また、ここで「にしのみやこ」を褒めそやしているということから、この古詞は「近畿王権」が「倭国九州王朝」という統一王権の支配下にあった頃に「賛歌」として作成されていたものという可能性も出てくると思われます。そうであれば時期として「七世紀半ば」と言うことと考え合わせると、「白雉改元」付近を想定すべきものかも知れません。つまり、「にしのみやこ」とは「副都」である「難波宮」から見た「首都」である「筑紫京」を指すと考える事ができると思われるのです。
 また、この「古詩」自体が「にしのみやこ」に対する「賛歌」であるから「よろずよのみや」という表現についても「願望」ではなく、いわば「眼前」の事実を表した表現であると考えられ、古から続く「筑紫」の歴史を端的に表現したものとと推察されます。

 上に見た「丁酉」条の記事中の「僧旻」は『書紀』では「高表仁」の来倭に伴って「唐」から帰国したとされている人物ですが、その「高表仁」は「六四〇年」に派遣された「倭国」からの「遣唐使」に対応して派遣された「唐」からの「使者」であると考えた訳ですから、彼が赴いた先は「倭国」であるのは当然であり、彼と同行した「僧旻」についても「倭国」に到着したものと考えざるをえないものです。つまり、その「倭国王朝」に対して『帝皇年代記』では「西朝」という呼称がされていることとなるわけですから、「倭国王朝」は即座に「九州王朝」であったということを示すものといえるでしょう。


(※)古田史学会報二十六号一九九八年六月


(この項の作成日 2013/09/09、最終更新 2015/05/14)


『日本帝皇年代記』の「鎮西」という用語について

2018年06月10日 | 古代史

「二〇〇四年」と「二〇〇五年」に相次いで発表された「『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介」(「山口隼正」長崎大学教育学部社会科学論叢)という研究報告があります。
 この「年代記」の内容を閲覧・確認したところ、「壬申の乱」の記述などに大きな疑問点を確認しました。それについて述べてみたいと思います。 

 この『日本帝皇年代記』は「新旧」各種の資料を校合していると思われます。たとえば、「年代記」の中の「白鳳十年」(庚午)の項に「鎮西建立観音寺」とあって、「観世音寺」の「創建年」が「六七〇年」であると言う事が述べられていますが、(これは「古賀氏」などにより明らかにされつつあった「観世音寺」の創建時期について、更に「補強」されたこととなると思われます。)ここでは「観音寺」というように「本来」の「観世音寺」という名称ではなく、「唐」の「太宗」の諱「李世民」の「世」が避けられています。それに対して、同じ「年代記」中の「和銅二年」の条には「詔筑紫大宰府観世音寺…」とあり、ここでは「世」が避けられていません。これは当然、避けられていない方が「古い史料」(「唐」と正式に国交がない時代)から採ったもので、避けられている方が「新しい史料」(「唐」と国交が開かれて以降)から採ったものと判断されます。(「記事の時系列」とは逆になるわけです)
 
 ところで、この「記事中」の「鎮西建立観音寺」に使用されている「鎮西」という用語については、明らかに「後出的」ですが、その置かれている「位置」が「主語」に当たる部分であると思われ、「鎮西」が「観音寺」を建立したと読めます。
 そもそもこの『日本帝皇年代記』の中では「寺院」の創建についてはその「主体」が書かれています。それを考えると、この「鎮西」というのは「創建」の「主体」であると推察され、「大宰府」を意味する用語であると思われます。これは「九州倭国王権」が「観音寺」を創建したという伝承が形を変えて現れたものではないかと思われるものです。
 
 (以下『日本帝皇年代記』の「寺院」の創建記事の例)

「丁未(勝照)三 太子十五歳七月誅守屋(物部)、然後建四天王寺…」(これは「太子」)
「癸亥(願轉)三 十一月 太子建立蜂崗寺、今廣隆寺也」(これも「太子」)
「丙寅(光元)二 七月 太子着袈裟坐獅子坐、講勝鬘経講已(己?)天両花大三尺也、帝大喜則其地建伽藍、今橘寺是也…」(これは「帝」)
「丁卯(光元)三 太子遣妹子於隋朝衡山、召先身之道具等、建法隆寺」(これは「太子」)
「丁丑(定居)七 太子入定、見来世皇運奏時、建立大安寺…」(これは微妙ですが「遺言」したのは「太子」です)
「丁巳(白雉)六 七月始盂蘭盆會、十月内臣鎌子(中臣)建山階寺修維摩會、々々々自此時始也」(これは「鎌子」)
「戊辰(白鳳)八 行基并誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(これは「福寺」と「百済寺」双方とも「行基」によるか)
「庚午(白鳳)十 鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」(これが問題の部分で当方の解釈では「鎮西」が「観音寺」と「禅林寺」を建立したと解釈します)
「庚辰(白鳳)二十 唐高宗永隆元年 一行阿闍利誕生、建立薬師寺、元正天皇誕生」(これは微妙ですが「無主語」の場合は「帝」と考えられる)
「己酉(和銅)二 光仁天皇誕生、詔築(筑)紫大宰府建観世音寺、十月不比等修維摩會、屈浄達法師」(ここには「詔」という語が使用されていますから「帝」と思われ、これは『続日本紀』の「元明の詔」につながると思われます)

(以下「観世音寺」建設進捗を促す「元明」の「詔」)

「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 さらに以下に『日本帝皇年代記』の記事を続けます。

「庚戌(和銅)三 不比等興福寺建立、丈六釈迦像大織冠誅入鹿時所誓刻像也、…」(これは「不比等」)
「庚申(養老)四 九月日向・大隅二国叛、祈ウ(宇)佐而後平魁、々平之後量放生會於諸州八幡、於(放)生會始於此、徳道上人建立長谷寺」(これは「徳道上人」)
「癸亥(養老)七 於興福寺建施薬・悲田二院」(これも「無主語」ですから「帝」つまり「元正女帝」と思われますが「皇太子」としての「聖武」かも知れません)
「戊辰(神亀)五 禅無畏三蔵来朝、大知(和)国久米建塔、但未詳、…」(これは「禅無畏」と思われるが「未詳」とするだけあって、「久米寺」そのものについての記事がそれ以前にないなど不審があります)
「甲戌(天平聖暦)六 正月光明皇后於興福寺建西金堂安丈六釈迦像」(これは「光明皇后」)
「丁丑(天平聖暦)九 建八坂塔、…」(無主語であり「帝」(聖武帝)か)
「己亥(天平宝字)三 普光寺慈雲誕生、姓長氏、平安城人也、八月鑑真和尚建立招提寺」(これは「鑑真和尚」)

 まだありますが、基本的には上のパターンで尽きていると思われ、「主語」がないケースが「薬師寺」以降多くなりますが、そのような場合は創建主体は「帝」(王権)と解釈すべきと思われるのに対して、「建」あるいは「寺院名」の前に何か書いてある場合は、複数の例から帰納してそこに「創建者」が書いてあると考えるべきであり、「観音寺」(と「禅林寺」)の場合は「鎮西」とありますから、「大宰」ないしは「大宰府」がその主体であったと判断するべきと思われます。

 そもそもこれは「帝皇」の「年代記」ですから、基本的に「帝皇」に関する事を書くというコンセプトであることは確かであり、そう考えると「帝皇」の事跡であった場合は特に断ることがないということとなります。(無主語となるわけです)ただし、「帝皇」の行動や事跡「以外」のことについては、その「主体」が誰なのかを明記する必要がある(あった)ということとなるでしょう。(このようなことは「好太王碑文」とも共通するものではないかと思われます。)

 この『日本帝皇年代記』の記述は、各代の「帝皇」の名と即位あるいは死去年次等の記事を冒頭にまとめて書き、以下に彼の治世の年次事に編年体で記事を書くというスタイルです。つまりこの「年代記」中では主語のない事跡・行動は全てその「代」の冒頭に書かれた「帝皇」のなせる業と見るべきであることが推定できます。
 以下にそのような例を挙げてみます。

「甲申(仁王)二 四月百済国沙門觀勒任僧正、朝廷初置僧正検校僧尼」

(この代の冒頭記事)
「推古天皇 欽明中女、敏達皇后、卅七歳受禅、治三十六年、仁王六年/三月七日崩、七十三歳、諱額田部、小墾田宮住」

 ここでは「觀勒」が「僧正」に任じられていますが、それが誰によるものか書かれていません。しかし、それはその直後に「朝廷」とあることから、「帝皇」に関する事と判明しますが、それは「冒頭」記事から「推古」であることとなります。(事実かどうかではなく、そのような記述体系をとっているということです)

「乙酉(仁王)三 高麗国惠灌来朝、是三論之學者也、夏惠灌任僧正/冬福亮任僧正」

 ここも同様に「惠灌」と「福亮」を「僧正」に任じていますが、これも「王権」が関わっていることは明白であり、これも「推古」を指すと思われます。

「壬子白雉 依長門国上白雉也/元興寺仁王會并最勝講始之」

 ここでは「白雉」が「上」(奉られた)とされていますが当然「王権」(帝皇)に対してです。また「元興寺」で「仁王會」と「最勝講」が共に始めて行なわれたとされていますが、ここにも「主体」が書かれておらず、これは「帝皇」に関する事と考えられますが、私見(拙論『「元興寺」と「法隆寺」(一)(二)』)では「元興寺」そのものを「勅願寺」と考えていますからその意味では整合しています。
 「年代記」によればこの齋會の主体は「孝徳」であることとなります。(ちなみにこの『日本帝皇年代記』の中では「元興寺」だけが唯一創建記事が見あたりません。「いつの間にか」存在しています。)

「丁巳(白雉)六 七月始設盂蘭盆會、十月内臣鎌子(中臣)建山階寺修/維摩會、々々々自此時始也」

 例えばこの記事では「盂蘭盆会」では「主語」がありませんが「維摩会」の方は「内臣鎌子」の事跡として書かれています。つまり「盂蘭盆会」の主体と「維摩会」の主体が異なることが提示されている訳です。「主語」のない「盂蘭盆会」が「帝皇」の事跡であるということになるでしょう。これは「斉明」の事跡と考えられていたこととなります。『書紀』でも「斉明」が「盂蘭盆会」を行なったという記事があります。

「(斉明)三年(六五七年)秋七月丁亥朔辛丑条」「作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭瓮會。暮饗覩貨邏人。或本云。堕羅人。」

他にも「斉明五年」にもほぼ同様の記事があります。

(斉明)五年(六五九年)秋七月朔丙子朔庚寅条」「詔群臣。於京内諸寺勸講盂蘭盆經。使報七世父母。」

 このように「無主語」の例は他にもありますが、これらからは「無主語」の場合「帝皇」の事跡を指すという原則があると推測できることとなります。
 それに関連して、重要なものが以下の記事です。

「己酉(和銅)二 光仁天皇誕生、詔築(筑)紫大宰府建觀世音寺/十月不比等修維摩會、屈浄達法師」

 この記事によれば「詔」により「大宰府」に「観世音寺」を建てさせています。これは「一見」「鎮西建立観音寺」と似たような表現と思われそうですが、「帝皇」(「元明」)が建てた訳ではなく、「大宰府」に対して「建てるように」という「詔」を出したというわけであり、「大宰府」を使役しているのが注目されます。
 それに対し「薬師寺」創建記事では「無主語」となっています。

「庚辰(白鳳)二十 唐高宗永隆元年 一行阿闍利誕生/建立薬師寺、元正天皇誕生」 

 このように「薬師寺」の場合は「無主語」であり「帝皇」(この場合「天武」)が「主体」として直接権力を行使していると見られますが、この「観世音寺」の例では「大宰府」を介してという形となっています。しかし、「鎮西建立観音寺」にはそのような「使役」と思われる「語」がありません。そうすると「帝皇」が「鎮西」をして作らしめたという解釈はできないこととなります。
 結局、「鎮西」が自分の意志として「観音寺」を建立したということを示すとしか考えられないこととなるでしょう。

 この「己酉条」記事は『続日本紀』の以下の記事と連動していると考えられます。

「(七〇九年)二年二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 この中では「筑紫觀世音寺」が「天智」の「誓願」であるとされ、年月が経ったにも関わらず完成していないとされます。そのため、工事を急がせるように指示しているわけです。
 しかし『書紀』にはそこに書かれたような「誓願」等の記事がありません。そもそも「観世音寺」という寺名は『続日本紀』で始めて現れるものです。このことは創建に「元明」の王権(新日本国王権)が関わっていないということを示唆するものであると思われますが、それはこの『日本帝皇年代記』の記述としての「鎮西建立観音寺」という表記と整合していると考えられるものです。
 「鎮西」という用語や「観音寺」という用語等はかなり後代のものということは確かですが、そこに示された「事実関係」あるいは「思想」というものはもっと本来の時代に即したものであったと考えることができるのではないでしょうか。

 ここで書かれている各「帝皇」については「近畿王権」の「天皇記」そのものと思われますが、「年号」はいわゆる「九州年号」であり、「近畿王権」とは関係を持っていません。それはその「改元」のタイミングに何の根拠もないことから判ります。これは明らかに「近畿王権」とは全く別途に「制定」され、「改元」されています。そのような年号が「近畿王権」の『日本帝皇年代記』に「基準年」として使用されているのは、それが「近畿王権」の領域内や「近畿王権内」においても使用され、それに基づいて各種の記録が為されていたということの反映であると思われます。
 その意味では「近畿王権」を含む複数の「王権」をも統合的に支配する上部組織とでもいうべき「統一王権」の存在を前提にしなければ、ここでこれらの「年号」が使用されている意味について説明がつきません。
 上に見たように「庚午」(六七〇年)という年次の記録では「使役」されることなく、自主的に「観音寺」を創建した「鎮西」が、「己酉(和銅)二年」という段階では「元明」の王権から(これは「近畿王権」と考えられる)「大宰府」として「使役」されるというように変化しています。しかも途中で「観音寺」の建設が停止されていたようにも受け取れる記事であり、これらから判断して、「六七〇年」以降に「鎮西」に何か変化が起こり、「近畿王権」の「王」である「元明」から、使役されるような関係に変化したことが窺えることとなるでしょう。
 このことから、これらの年号は「元明」以前の「統一王権」の産物であり、それは「自主的」に「観音寺」を創建することができた(近畿王権の支配下になかった)「鎮西」という存在に直結しているということができるでしょう。つまりこれらの年号群について「九州年号」という名称が妥当であることがこのことからも証明できると思われると同時に「六七〇年付近」に国家主権の移動を含むある種の「事変」が発生していた事を示すものでしょう。


(この項の作成日 2012/11/11、最終更新 2015/05/13)


「美濃囲い」という名称について

2018年06月10日 | 古代史

 私は以前将棋が好きでよく人とも指していましたし、パソコンの中にも将棋ソフトがはいっていて今でも時折やりますが(もちろんパソコンには歯が立ちませんが)、特に振り飛車が好きでよく向かい飛車や中飛車などを指していました。(現在も同様です)そのような際はたいてい「美濃囲い」を採用していたわけですが、この「美濃囲い」の由来が不明であるということをかなり後になって知り、不審に思いました。

 そもそも将棋の戦法、囲いなどには、数多くの種類があり、その謂われ、起源なども中には明らかになっているものもありますが、多くのものが「不明」という扱いです。中でも人気戦法である「振り飛車戦法」には欠かせない「美濃囲い」については、まったく不明なのです。
 たとえば同じくポピュラーな囲い(戦法)である「矢倉(櫓)」については、その縦に金銀が並んだ形からの命名と考えられ、まだしもわかりやすいと思われますが、「美濃囲い」について言えば、その並び方から「みの」(蓑)の形は少々想像しづらく、命名について別の基準なり、起源が存在するのではないか、という想像が広がるところです。特に「美濃」という地名を当てているのが非常に気にかかるところであり、この地名と関係する事実なりエピソードなりがあるのではないか、と考えるのが自然ではないでしょうか。

 このあたりを明らかにするためには、「美濃囲い」という「名称」がいつごろから使用されたのか、(「囲い」が、ではない)その最初の記録というものが、いつのもので誰のものなのか等からその命名者と命名の由来を推定するべきなのですが、ご本尊とも言うべき「日本将棋連盟」では、そのようなことに関する調査、資料の収集などは一切行っておらず、まったく情報不足の状態です。(以前関西将棋連盟に附属していた将棋図書館に問い合わせましたが、わからないという返事を戴いています)
 ただ、巷間いわれているのは金銀三枚で囲うので「三つの囲い」と言ったものが転じて「みの囲い」となり、後に「美濃」という漢字を当てた、と言うものがあります。また、同様な説に「金銀三枚」を「布」に見立てて「三布囲い」といったものが「美濃囲い」になった、というものもあります。(以前大山名人が言っていたと記憶しています)このあたりは地名としての「美濃」との関連については「ない」という考え方であるようですが、本当にそうか、というのが当方の感想です。

 通常の感覚では地名をかぶせるにはそれなりの意味があるものと考えるのが普通です。というのは、この他には地名をかぶせた囲い、戦法がない(あっても由来がはっきりわかっている「鷺宮定石」など)のであって、唯一「美濃囲い」だけが地名をかぶせられている、ということの意味を重く考えるべきでしょう。同様な考え方をしている人は既におり、「信長の美濃攻め」と関連付けて考えたり、「美濃の街づくり」と関係している可能性を探ったり、将棋を指す人の中に「美濃」出身者がいたのがその起源である、などといろいろな説があるようです。どれもまだ充分な物証には欠けますが、いずれも従来の説よりは興味を呼ぶものです。

  私は『日本書紀』を読んでいて「大海人の皇子」の「吉野」からの脱出の際の行程を見ていて、まるで美濃囲いに入る「王将」のようだなと思いました。
  「壬申の乱」の詳細を『書紀』から拾うと、まず、「大海人皇子」は「吉野」へ下野します。その後「天智天皇」死去後「天智天皇」の息子である「大友皇子」の挙動に攻撃の姿勢を感じ、それに対抗する形で挙兵し、「壬申の乱」が勃発するというわけですが、この時の「大海人皇子」の行動に注目です。
  彼は戦いが始まる前に、隠棲先である「吉野」から移動を始め、「奈良県宇陀」、「三重県名張」、「三重県桑名」を通過した後「鈴鹿峠」を越えて「美濃の国不破」(関ヶ原町)へ入り、ここで初めて戦闘開始、となります。
 この間全く、戦闘行為は行われず、ただ黙々と「安全地帯」である「美濃」へ移動を行います。(しかも素早く)「美濃」へ入った後はそこから一歩も出ずに、実際の戦いは自分の息子である「高市皇子」に指揮させています。と、ここまで書けば将棋好きの人にはもうお分かりでしょう。この「大海人の皇子」の行動は「振り飛車戦」における「王将」の「動き」(行動)と同じといっていいのではないでしょうか。
  「美濃囲い」の手順もいくつかあるようですが、多いのは「玉」が「一目散」に横へ移動して、定位置(先手なら8二、後手ならば2八の地点)へ向かうパターンではないでしょうか。(「藤井流」などは別として)そう考えると、「大海人」の移動の様子は「王将」の動きと良く似ていると思われるわけです。(よく「美濃」に入るという言い方をしますがそれは「美濃」を「地名」として扱っている徴証ともいえます)
 これが正しいとすると、「美濃囲い」の命名者は「古代史」というより「古代の戦い」に詳しい人物と見なければなりません。想定できるのは、たとえば「御城将棋」(「御前試合」)などのとき、将軍などと同席して将棋を見物するようなことがあった可能性のある「重臣」の中に古代等過去の戦闘に詳しい「兵法家」がいたという可能性です。あるいは歴史上将棋の進歩と発展には欠かせない存在であった「僧侶」などが命名者である可能性があるのではないか、というものです。

  「兵法家」や「僧侶」はいわゆるインテリであり、特に古代の事象に詳しいと考えられます。また、「兵法家」ならば中国や日本の戦いの「戦法」などに詳しい、と考えるのが普通ですから、「美濃囲い」という将棋の「戦法」を目の当たりにしたときに、「壬申の乱」に思いが行く、というのは十分ありうることと考えられます。つまり古代の戦法に詳しい「兵法家」などであれば、「将棋」において「王将」が一目散に移動していくのを見て、「壬申の乱」の時の「大海人」の動きのようだと感じることは十分ありうるものかと推察するわけです。
 ただし、庶民(当時も今も)はそのようなものには縁の薄い人が多いでしょうから、その後は命名の由来については段々と「不詳」となって行ったものと考えられます。
 「戦いが始まる前に囲いに一目散に入り、その後はそこから動かず、実際の戦闘は主役を飛角に譲る」。将棋における「美濃囲い」の命名はこのような故事を踏まえたものではないのか、と考えていますがいかがでしょうか。

 将棋は当初駒の数も多く、ギャンブル的要素もあったものと思われますが、「駒の再利用」と齣数の削減などが平安時代に行われて以降勝負要素が強くなり、戦法も複雑化していったものと思われます。その意味で「鎌倉」以降戦法の研究が進んだものと思われますが、「美濃囲い」が確かな記録として平手戦法で採用されたのは江戸時代の中頃のようです。(明和年間)
 この時点付近で命名されたという可能性が高いものと思われますが、その場合命名者が戦法を使用開始した当の本人であるという可能性もあるでしょうし、上に見たようにその戦いを観戦していた人物が命名したという可能性もあると思われるわけです。


「難波小郡」と「近江朝廷」

2018年06月10日 | 古代史

 「壬申の乱」収束時に「大伴吹負」が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収していますが、それがわざわざ「大阪」を越えた「難波小郡」で行われたことに大きな意味があるちと思われるのです。

「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七二年)の条

 ここで彼ら「西国」の国司達が「難波小郡」におり、その彼らが「官鑰騨鈴傳印」を持っていたということは、彼らが何らかの理由で「難波以西」の地から派遣されてきていたものか、あるいは「難波小郡」から西国へ派遣されていたものが帰国した時点のことであったという可能性もあります。ただ多くの「国司達」が「難波小郡」にいたらしいことを考えると、帰国したというより「派遣」されてここに集まっていたと考えるべきではないでしょうか。
 また彼らがこの「壬申の乱」に直接関わっていたということではなさそうなことが読み取れます。ただし「大伴吹負」に素直に「鍵」「鈴」等を渡しているらしいことを考えると、当初から「大海人」の勢力の側としての存在であった(旧王権側の者達)と考える方が正しいのかもしれません。

 確かにもともと「難波」には「小郡」というものがあったことが『書紀』(以下の記事)に書かれています。これは言ってみれば「出張所」のような役目を持つ「王権」に直結する「出先機関」であったと思われますが(これはこの当時「近江京」に全ての政府中枢機関があったわけではなく、「近江朝廷」の権能が限定的であったことを示すものといえます)、またそこに「律令」で規定される「官道」使用に関する統制機構の存在やそこで発揮される権能の所在が看取でき、「難波」の西方の諸国の「税」に関するものや「屯倉」に保管されている物品の所有が誰に帰するものかという事情などについて興味あるものです。つまり、この記事からは「難波以西」の諸国は「租」や「調」など国家に納入すべきものの集約場所として「難波小郡」が有ったことが推定出来るわけです。それは上に見るように「王権」の出先期間として存在していたという「小郡」の本来の機能を充分感じさせるものです。そして彼等が上京する際に必要だったものが「税倉」(屯倉)の「鍵」(鑰)であり、「官道」使用に必要な「騨鈴」であったというわけです。
 しかし、当然のこととしてすでに「宮」となっていたはずの「小郡」がこの時点でまだあったというのは「矛盾」としかいえず、甚だ疑わしいといえるでしょう。「難波小郡」は上に見るように「六四七年」以前にしか存在しないのですから、この「壬申の乱」記事そのものが(少なくともその一部は)時代としてマッチしません。 

 またこの時は「天智」が亡くなり、「山陵」の造営中でしたから、彼らがこの「難波」にいた理由として最も考えられるのは「天智」の葬儀への出席と「新倭国王」への祝意を表する「表敬訪問」を兼ねたものではなかったでしょうか。「鍵」等を所有していたのはこれを新王権に献上することで忠誠と服従を誓う儀式様なものがあったことが推定出来ます。しかし、以下に示すように「六四七年」以降「小郡」ではなくなってしまったわけです。

 「六四七年」(常色元 大化三)年 「春正月戊子朔…是歳。『壞小郡而營宮。』天皇處『小郡宮』而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」

 そのような経緯の後突然「倭京」「古京」という呼称と共に「難波小郡」という表記が登場するわけです。「難波小郡」が「宮」となったことは、そこで「官人」達の行動基準として「禮制」が定められていたという記事からも明らかです。それを見ても明らかなように「宮」という存在は「王権」の常時的居所としての存在であり、それまでの「小郡」という「下級官人」達の拠点として、限定された機能しかなかった存在とは隔絶したものとなっていたと推察されるわけです。

 ところで「壬申の乱」記事を見ると「壱岐史韓国」という人物が「近江方」の将軍がいますが、彼は「大坂」から来たとされ、また「多治比道」から現れたとされます。

「是日。坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍知財等來。以悉焚秋税倉皆散亡。仍宿城中。會明臨見西方。自大津丹比兩道軍衆多至。顯見旗■。有人曰。近江將壹伎史韓國之師也。財等自高安城降。以渡衞我河與韓國戰于河西。財等衆少不能距。…是日。將軍吹負爲近江所敗。以特率一二騎走之。逮于墨坂遇逢菟軍至。更還屯金綱井。而招聚散卒。於是。『聞近江軍至自大坂道而將軍引軍如西。』到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側。…先是。軍金綱井之時。高市郡大領高市縣主許梅。黴忽口閇而不能言也。三日之後。方著神以言。吾者高市社所居。名事代主神。又牟狹社所居。名生靈神者也。乃顯之曰。於神日本磐余彦天皇之陵奉馬及種々兵器。便亦言。吾者立皇御孫命之前後以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。且言。自西道軍衆將至之。宜愼也。言訖則醒矣。故是以便遣梅而祭拜御陵。因以奉馬及兵器。又捧幣而禮祭高市。身狹二社之神。然後。壹伎史韓國自大坂來。故時人曰。二社神所教之辭適是也。又村屋神著祝曰。今自吾社中道軍衆將至。故宜塞社中道。故未經幾日。廬井鯨軍自中道至。時人曰。即神所教之辭是也。軍政既訖。將軍等擧是三神教言而奏之。即勅登進三神之品以祠焉。」

 この記事からみると「近江軍」は「高安城」にいたとされ、さらに「大津」「多治比」両道を通ってきたとされ、また「大坂」からきたともされています。これらのことから「近江軍」は「難波」の地を制圧していたことは間違いないでしょう。それが「韓国」の軍であったと思われるのですが、「飛鳥」を抑えるためにそこを離れて、出動を余儀なくさせられたものと思われるわけです。
 このことは「難波」が要害の地であり、ここを抑えることで「西日本」全体に対して「睨み」を聞かすことができることを示すものです。そもそもは「筑紫」など「西日本」から東国に対する軍事的行動の必要があった場合の前進基地として機能していたものと思われるわけですが、「近江朝廷」はそれを「逆手」にとり、ここを「東国」から「西日本」への軍事行動の拠点としようとしていたものと推量されるわけです。そのため「近江」に「京」を定めると同時に「難波」を押さえていたことが窺え、それは「難波」に「西国」の国司が集結していたらしいことからも、この「難波」の地が「畿内」とその西方に対する統治の機能を受け持っていたことを推定させるものです。


(この項の作成日 2017/04/20、最終更新 2018/06/10 ブログ転載の際に追加)


「古京」と「倭京」(二)

2018年06月10日 | 古代史

 この「倭京」に対して、同じ「壬申の乱」の記事中に「古京」というものも出てきます。

「壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京』是本營處也。宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。」

 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平安京」と対比して使用されているものであり、「古京」とは「遷都」する前の「京」を意味する用語であることが判ります。
 さらに「古京」に関しては以下のように記事中に表されています。

「癸巳。將軍吹負與近江將大野君果安戰于乃樂山。爲果安所敗。軍卒悉走。將軍吹負僅得脱身。於是。果安追至八口■而視京。毎街竪楯。疑有伏兵。乃稍引還之。」

 つまり「乃樂山」で戦った後、追いかけて「八口」までくると「京」が見え、そこで「堅く守っている」状況が判ったので引き返したと云うことのようです。
 通常「乃樂山」とは「柿本人麻呂」の歌(「…いかさまに思し召せか、青によし奈良山を越え…」)でも判るように、「大和」と北方の域外の領域の「境界線」の役目を果たしていたものであり、「奈良県北部」の「山地」(丘陵)を指すと考えられています。
 そうであるとすると、「大野果安」は「近江側」から南下してきたものであり、それを「大伴吹負」は「境界」領域で迎え撃ったこととなります。
 そもそも「大伴吹負」は「倭京」を制圧していた訳であり(倭京将軍と呼称されている)、また「大野果安」も「倭京」を同様に支配下に置くために前進してきたと考えられます。両陣営とも「倭京」が重要拠点であり、これを自陣営のものにすることが至上命題であったことが判ります。「近江朝廷」側が「使者」を派遣したのも趣旨は同じであり、また「大伴吹負」が「倭京」に「奇計」を用いて制圧したのもこの「倭京」という場所が戦略上欠かすことのできない拠点であったことを示すと言えるでしょう。
 このようにここでは「倭京」をめぐる戦いが行なわれていたはずですが、しかし「大野果安」の軍は「古京」の手前「八口」(これは「八街」と同義と思われます)で引き返しており、その結果「古京」には入れなかったとされています。
 その後「壱岐史韓国」の部隊が同様に「近江」から南下して攻め入り「當麻衢(ちまた)」で戦闘になったことが書かれています。この「衢」というのは「神話」の中で「猿田彦」が待っていたという「天八達之衢」というものと同じであり、「衢」は「交差点」を示す言葉ですから、「八口」と同じ場所を意味するものと思われます。そしてそれは「古京」の入口であったものと思料されます。
 
「…到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側。時有勇士來目者。拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。爰將軍令軍中曰。其發兵之元意非殺百姓。是爲元凶。故莫妄殺。於是。韓國離軍獨逃也。將軍遥見之。令來目以俾射。然不中而遂走得免。…」

 また「古京」について「本營處」と称されていることにも注目です。「本営」とは「本陣」と同じく通常「総大将」や「総司令官」の「軍営」を意味するとされますから、通常では「大伴吹負」の拠点という意味で使用されていると考えられているわけですが、それであればさらに「倭京」と「古京」が同一となってしまうこととなります。しかしそれは一見「矛盾」といえるものです。

「…壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京是本營處也。』宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。…」

 これらの記述はあたかも「倭京」と「古京」が同一であるように理解できそうですが、そうとすれば「遷都」以前の「京」に「留守司」が置かれたこととなってしまいます。

 すでにみたように「留守司」は「京師」から行幸などで「王」や「皇帝」「天皇」などが不在となる場合に置かれる臨時の官職であり、多くが「軍事」に関係する人物が充てられたものですが、そうであれば「倭京」は「現在の京」を指すこととなるわけであり、すでにそれ以前に「近江京」への遷都が行われていたわけですから、本来であれば「近江京」にこそ「留守司」がおかれて然るべき事となるわけですが、実際には「遷都」以前の「古京」に「留守司」がいるという不自然さが発生してしまうわけです。
 「近江京」が「倭京」ではないのは「壬申の乱」記事の「近江京」から「倭京」までという書き方をみてもわかります。

「…或有人奏曰。『自近江京至于倭京。』處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。…」

 このように「近江京」は「倭京」ではないわけであり、それは「現在時点」の「京」でもなかったことも意味します。しかし遷都以前の京師に「留守司」が置かれたとすると「矛盾」といえるわけですが、前述したように「倭姫」が「天智」の後継としていわば「称制」していたとして、彼女が「古京」(飛鳥)に戻った上で「高坂王」達を「留守司」とし、その間どこか近くに「新宮」を作り「殯」の儀式を行っていたとしたら、「倭京」に「留守司」がいて不思議ではないこととなります。それが窺える徴証は確かに『書紀』にはみられないわけですが、「敏達」の死去の際、死去当時の「宮」ではなくそれ以前に「宮」であった「百済大井」の地の至近(廣瀬)に「殯」が営まれた前例もあり、それ以前の「宮」つまり「京」に深い関係がある場合は現在の「京」とは違う場所に「殯」を営むこともありうるものともいえるでしょう。その意味で「倭姫」が「古京」に帰還しそこで仮に「政務」をとるような状況があったという可能性は充分考えられるわけですが、そこを「倭京」つまり現在の「京」として扱ったとすると「倭京」と「古京」が一致するという事態もある得るものとなります。そして「倭姫」が至近の「殯宮」に隠ったとすると「留守司」を「倭京」(つまり「古京」)に置いたことも理解できる事となります。
 
 上の推定が正しいとすると、このとき「倭姫」は「近江京」から「古京」へ戻ったこととなりますが、その理由を考えてみると、「近江朝廷」という「革命王権」の限界を悟ったからではないかと思われ、旧王権の勢力と合流することで倭国王権の存続を図ったものと思われます。
 そもそも「天智」が(「大海人」の提言どおり)「大友」を執政とし「倭姫」に国事を行わせることを遺詔したとすると、彼自身「近江朝廷」の先行きに強い不安を持っていたと考えられるわけです。「近江朝廷」が「革命王権」であったとしても「天智」そのものは血筋もそれほど卑しくなかったと思われ、(前述)彼については一定の「権威」が備わっていたと思われるものの、生き残った唯一の男子である「大友」は「釆女」に産ませた子であり、皇后でも夫人でも妃でもないという立場の子である彼が王権を相続する事に対する周囲の同意を固めるのは大変困難であったでしょう。結局、「天智」同様に「権威」を身に付けた「大海人」に王権が委ねられることとなるのは当然の成り行きであり、「皇后」である「倭姫」は自ら「倭国王」の国事を代行する形で「称制」し、せいぜい「時間を稼ぐ」という方法しかなかったということかもしれません。その間に「大海人」を初めとする旧王権と折衝し「平和裏」に「倭国王」の地位を継承する予定であったと思われ、そのため「近江」に止まってしまうと旧王権の勢力と距離ができてしまい妥協に必要な折衝を行う余地が薄くなるのは必定であり、その意味もあり「殯」を「古京」たる「飛鳥」で行うこととし、旧王権との調整を図ろうとしたと思われます。
 しかし「大友」は自らの権力欲を先に立たせ、「倭姫」の「殯」に同行せず、「近江」に残り、権力の空白を衝いて武力で王権を奪取しようとしたものであり、そのため各地に「挙兵」するよう指示を出したと言うことではなかったでしょうか。このため戦いが起きることとなったと思われますが、「倭姫」は多分「大海人」の側についた事と思われます。『書紀』には全くその動静が出てきませんが、その正統性の保証人的立場として「大海人」の即位(これは実祭には「薩夜麻」への「つなぎ役」という立場から)の立ち会い役であったと推測するわけです。

 ただし「古京」から「近江京」へ「遷都」したという理解に問題があるという可能性もゼロではありません。その場合「近江朝廷」という存在そのものに対する疑問が浮かびます。このことは本当に「天智」は「倭国王権」の正統であったのかという点につながるものですが、すでに考察したように「天智」の開いた「近江朝廷」が「革命」王権であったとすれば、「倭京」は「天智」側からみて「古京」とは言えないこととなるでしょう。「近江京」は「遷都」ではなく「新都」であるということとなる可能性があるからです。そして「留守司」が「倭国王権」(旧王権)に直結する立場のものであるとすると「近江朝廷」からも「大海人」側からも「敬意」を以て対応されている事も了解できるものです。
 また「近江朝廷」が「倭国王権」からスピンアウトした「革命王権」であると同時に旧「倭国王権」もまだその組織等が骨格としては残っていたという事態が考えられ、「国内的」には「近江朝廷」の王権と「倭国王権」がまだ並立していたという事態も考えられることとなりそうです。

 
(この項の作成日 2013/06/20、最終更新 2017/03/19)