以前『万葉集』に出てくる「軍王」が「雄略紀」に出てくる「昆支君」と同じであるという「思いつき」を書きましたが、このことは「雄略」の時代に「万葉歌」が歌われていた(つまり「万葉仮名」が使用されていた)こととなります。しかし、そもそも『万葉集』の冒頭は「雄略天皇」の歌ですから、その意味で不自然ではないでしょう。さらに、この解釈は「万葉仮名」の成立時期との関連で興味深いといえます。
別稿ですでに「九州年号」(倭国年号)の「明要」年間に「万葉仮名」が公定されたと見たわけですが、この「明要」を初めとする「年号群」の内いくつかは「六十年遡上」すべきものと推察したものであり、この仮説による真の「明要年間」は五世紀後半(四八〇年代)と見たものですが、これらのことは「軍王」を「雄略朝期」つまり「五世紀後半」から「六世紀前半」と見て矛盾がないことを意味するものであり、やはり「軍王」と「昆支君」は同一人物とみる余地があるということと考えます。
この「万葉仮名」が生み出されるようになる動機としては、当然一般民衆における情報・意志の伝達に対する要求の高まりであったと思われると同時にその基底として「漢文」に対する理解の上昇があったものと推量されます。「万葉仮名」は「漢字」で構成されており、「万葉仮名」の使いこなしのためには、漢字の「読み」とその持つ「意味」とが浸透することが必要です。
漢字そのものはそれ以前からの中国や半島との交渉において多く流入していたものであり、「漢文」について読み書きが出来る層は一定数あったものと推量されますが、「倭の五王」時代の南朝との交渉や、その勢威を借りた形での国内征服行動などにおいて「漢字」「漢文」に対する理解や、理解に対する欲求も広がっていったものと思われます。
このような中で「仏教」が「百済」から流入したわけであり、仏教に対する信仰が広まるにつれ、更に「漢字」に接する機会が増えた結果、「結縄刻木」という旧態依然の情報伝達法がそのような時代の趨勢と齟齬するようになっていったのは当然と思われます。このため大衆にも漢字を使用した意思の表示、伝達が可能となるような表記法が求められていたわけであり、「万葉仮名」は歴史的必然の結果としてこの時代に生まれたと見られるわけです。
このようにして、日本語を表記する手段が模索されたわけですが、漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することを考えついたものと思われ、そして「倭国王」の「勅」により、「発音表」と「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われるわけです。
「年次移動」の結果「四八一年」という年に「明要元年」は移動すると見たわけですが、この年次付近で「漢和辞典」(漢字の読みと意味が書かれているもの)が完成し、もう「結縄刻木」などする必要がなくなったものであり、そのことを記念して「明要」と改元したものと考えるわけですが、この「発音表」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われるわけです。(「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。)
そのことを端的に示すのが現行『万葉集』であり、その冒頭の「雄略天皇」の詩であり、また「軍王」つまり「昆支君」の歌であったと思われるわけです。『万葉集』の歌の中に「雄略」の時代を遡上するものがないのは、「万葉仮名」の使用開始時期との関連からみると当然であり、それ以前には公定されたものとしては「なかった」ことを示すものと見られます。
以前も述べましたが、『万葉集』など「万葉仮名」を使用した史料を見るとかなり難しい字が使用されていて、このような「万葉仮名」を一個人で完成させるのは非常に困難と考えられ、「倭国王」(「武」)が朝廷のインテリを集結させて作成させたものと思われます。
この時出来た「漢和辞典」には後の「五十音表」のような「発音表」(万葉仮名によるもの)と共に、主要な漢字・漢語(特に仏教経典中に出てくる漢字・単語など)の読みと意味が書いてあるような形ではなかったかと思われ、これが完成し、人々にも示されたことにより、一般民衆でも自分の意志を示すのに「漢字」(万葉仮名)を使用することが可能となり、各種の文献が作成されていくこととなったものと思われます。(学校のようなものができた可能性もあります)
この「万葉仮名」により、人々は「通信」(手紙など)をするようになり、その結果「結縄刻木」はもうする必要がなくなったのです。そして、文字成立以前から「口伝」して伝えられていた「歌謡」あるいは「神話」「伝承」の類を「仮名」(万葉仮名)を使って書き記すことが始められ、さらに「創始」されるものなども現れるなど、発展していったものと思われます。(日本神話の多くがこのとき書き留められたと思われるのは、そこに示された服装などが中国南北朝期のものであることからもいえると思われます)