古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「九州年号」と「倭国年号」(古田史学会報を見て)

2017年08月12日 | 古代史
 送られてきた『古田史学会報』(141号)を見てみると「古田史学の会」執行部の考え方としては、今まで「九州年号」といっていたものを「倭国年号」と呼び直そうという趣旨のようですが、それは「実態」と整合していると考えられますので自分的には首肯できるものです。しかし林伸禧氏(古田史学東海)はそれに「異を」唱えているようであり、その論には少なからず「違和感」があります。
 「九州年号」と「倭国年号」について自分の思うところを以下に述べます。

 日本は元「倭国」と呼ばれまた自称していましたが、その実態は九州に王権の中心を持つ王朝であったものであり、それを「九州王朝」と名付けたのは古田氏でした。
 そのように列島を代表しまた実質的に列島全体を統治していたと見られるその「九州王朝」が、中国の歴代の王権のように年号を使用していたとして不思議ではなく、それは全国各地の縁起録や伝承資料の中に現れる「年号群」に対してそれを「逸年号」つまり使用されていたにも関わらず「正史」に記録されなかった年号と見たのも古田氏でした。そのためそれらは「九州王朝」の年号つまり「九州年号」であると命名されたものですがその呼称には先蹤がありそれは「襲国偽僭考」を著した幕末の「鶴峯戊申」です。彼はその中で年号を列挙していますが、それを「『九州年号』と題した古写本より引用したものである」旨の記述をしていたため、古田氏もそれを自ら提唱した「九州王朝」論に叶うものとしてそのまま受け入れたものです。(もちろん「偽僭」したという論法を受け入れたものではありません)
 このような「大宝」以前に実際に使用された年号群があり、それは「九州」という地域に関係していたという視点は、近畿王権一元論からは決して導き出されるものではなく、これが「九州王朝論」と不可分のものであるのはいうまでもありません。そしてその「九州」に王権の中心を持っていた時期には「倭国」という呼称を自他共に認めていたとするならそれら年号群は「倭国年号」と呼称されて当然のこととなります。

 近畿王権一元論者は近畿王権が倭国時代も自らがその権力中心にいたとするわけですが、にも関わらず「年号」は「大宝」以降とするのですから、「倭国」時代には年号を持っていなかった(使用していなかった)ということとなりますが、そのような想定が非常に困難であるのは当然です。
彼らは「律令制」の成立と「年号」の使用開始が関係していると見ているようですが、それが失当といえるのは『書紀』の「暦」に関する事実からもいえます。
 『書紀』の年月日の記述において「元嘉暦」と「儀鳳暦」が併用されているのが指摘されていますが、「元嘉暦」による記述が「五世紀末」以降に限られているのはその「元嘉暦」の中国における成立時期と近接していることから考えても、「倭国」王権が実際に採用したことを推定させるものです。そして「暦」と「年号」が「不可分」であることを指摘するのは無駄ではないでしょう。この二つは同時に使用されていたと見るのが相当と考えます。
 これについては二年ほど前にプログに記事をアップしていますが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/297706c33ca5e3bbaf2d99d95ba6359d)この内容を簡単に記しますと、以下の通りです。
 日付表記法は「干支」によるか「年号」によるかですが、いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握する事が不可欠であり、「暦」と「年号」が不可分であるのは当然であり、「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始が「同時」であったとみるのは合理的といえます。
これに類する例を挙げると、『三国史記』に「真徳女王」時代のこととして、「唐」から「独自年号」の使用を咎められたことが書かれています。

「二年冬使邯帙許朝唐。太宗勅御史問 新羅臣事大朝何以別稱年號。帙許言 曾是天朝未頒正朔 是故先祖法興王以來私有紀年。若大朝有命小國又何敢焉」

 つまり「新羅使者」の返答によれば、「唐」から「暦」の頒布を受けていないから「独自年号」を使用しているとしています。ここでは「暦」と「年号」とがセットになっていることが判ります。
「九州年号」資料として知られる『二中歴』については私見では「干支一巡=六十年」遡上すると見ており、「年号」の使用開始時期は「五世紀後半」と措定していますが、それは「暦」の採用と「年号」の使用開始が同時という仮定に矛盾しないと考えます。
 このような「年号」使用というものは、その「王権」の権威の高揚や「統治」の固定化などにより強く作用するためのツールであったとみられます。特に「半島内」の覇権を「高句麗」と争っていた「倭国」にとって「年号」の点で後れを取るのは「あってはならないこと」であったものであり、さらに国内的にも「東国」への進出と同時期に「年号」の使用開始が行なわれていると見られることとなりますから、それもまた「東国」に対する統治の強化等に有効に作用したであろう事が推察できるものです。(南朝から将軍号などを授与されたのも同じ意義があると思われます)このようなことから考えると「年号」の使用開始と「元嘉暦」の伝来とは直接的な関係があるとみるべきです。

 以上の考察からは以下のことがいえると考えます。
 「逸年号群」の推定される使用時期(存在時期)と「元嘉暦」の存在時期が合致していて、その時代の国としての呼称が「倭国」であるならそれら「逸年号群」は「倭国」が使用していた年号群であると見るのが相当であり、「倭国年号」と称すべきものであることとなります。しかるに「近畿王権一元論者」はこの「逸年号群」全体を否定しているのですから「倭国」は「近畿王権」とは関係のない存在であることとならざるを得ないこととなるでしょう。
 つまり、「倭国年号」という呼称が「近畿王権一元論者」の主張を認めたものなどではないのは論理として明らかです。よって林氏の論には全く従えません。

 逆に言うと「九州年号」という呼称自体がややもすると(イメージ的に)「九州地域」に局地的に行われていたマイナーなものという誤った認識につながりかねず、古田氏がこの呼称を使用された時期においては「九州王朝」そのものについての「啓発的」意味があったとは思われますが、いずれ淘汰されるものであったともいえるでしょう。
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