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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭王から倭国王へ

2016年07月25日 | 古代史

 『後漢書』や『三國志』の「倭」と「倭国」について考察しているわけですが、『漢書』を見てもそこには「倭国」という表記は使用されていません。あくまでも「倭人」であり「倭」であるわけです。しかし『後漢書』の考え方はそれとは異なり「倭国」というものがあり、「倭国王」がいたという観点で書かれています。
 これは『後漢書』が書かれた「五世紀」における認識の反映であると思われますが、それが「一世紀」や「二世紀」にも該当するものとは考えられないことは『倭人伝』や『漢書』から窺えるわけです。それは「金印」の表記が「倭国王」や「倭王」ではなく「倭奴国王」であることに現れています。(「卑弥呼」の金印も「親魏"倭王"」であって"倭国王"ではありませんでした)
 ただし「金印」は一地方王に授与されるものではありませんから、この「委奴国王」がその統治範囲の中に複数の「国」を含む広い領域を統治する事となったことを示していることは確かですが、そうであるなら後の「卑弥呼」が授けられたようになぜ「倭王」ではないのかというこことが問題となるでしょう。
 上に見たように「後漢」当時は「倭国」という概念が(少なくとも「後漢」側には)なく、「倭」は列島全体に対しての呼称であり、そこに居住する人達についての「倭人」という概念しかなかったものと思われます。その概念は「後漢」から「魏晋」へと継承されたものと思われますが、当然「帥升」や「委奴国」の時代も同様であり、かれらはあくまでも「倭」という地方においてある程度の範囲を統治する事に成功した「王」であったものであっても、「倭王」と言い切るほど強力で広大な権威があったとは思われていなかったことを示すと思われます。その後「卑弥呼」に至って「倭」の内部において統治領域とその体制が近代化(当時のという意味で)されたことに対応して「倭王」という呼称が採用されることとなったものと推量しますが、この段階でも「倭国王」ではないことに注意すべきです。「倭国」という概念はさらにその後に形成されたものであり、「東国」を含む列島の主要な部分に対してかなり強い権力を示すこととなって以降「倭国」という一種の「大国家」概念が造られたものではないでしょうか。
 この「倭国王」という称号が現実のものとなったのは「倭の五王」の時代になってからのことです。
「倭の五王」のうち最初に「倭国王」と称号を授与されたのは「讃」の死後「王位」に付いた彼の弟とされる「珍」の時です。それ以前の「讃」では「卑弥呼」と同じく「倭王」という称号しかもらっていないようです。

「晉安帝時,有『倭王』賛。…」「梁書五十四、諸夷、倭」
「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍『倭國王』。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」『宋書』
「文帝元嘉十五年(四三八年)夏四月…己巳,以『倭國王』珍為安東將軍。…是歳,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。」『宋書』

 これ以降も『倭国王』という称号を授与されていますし、配下の者について「将軍」」や「軍郡」に除されるという例が多数確認できます。この「倭の五王」の時代は「武」の上表文にみられるように「列島」の内外へ統治範囲を拡大しつつあった頃であり、「倭地」のほとんど全部に対して「倭王」の版図とする勢いであったことと思われます。彼等に対してならば「倭国王」という呼称は適切なものであったと思われるわけです。(実際には元々「自称」であり、「南朝」はそれを追認したものですが)
 『後漢書』はこれら「倭の五王」が遣使をしていた「南朝」の一つであった「宋」(劉宋)の「范曄」によってまとめられた書であり、その中に「范曄」の生きていた「五世紀」の観念が持ち込まれているという可能性が高いものといえるでしょう。つれは『三國志』の「邪馬壹国」を『後漢書』において「邪馬臺国」に変えたようなことが行われたとみられるわけであり、「帥升」が「倭国王」とされているのはこのような「五世紀」の考え方を「後漢」の時代に敷衍した結果であると推察されるわけです。

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