古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊都国」の位置と「末廬国」の「津」

2015年06月22日 | 古代史

 ところで、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」という文章からは「一大率」が「津」においてその権能を発揮していたことを示しますが、それは当然魏使の上陸地点である「末廬国」におけるものと見るべきでしょう。すると「末廬国」に「一大率」(あるいはその関係者)が所在していたということが考えられることとなります。そのことと『倭人伝』において「末廬国」だけが「官」について言及されていないことは関係していると思われるものです。その理由としては他の諸国のように「邪馬壹国」から官僚が派遣されていたわけではないことが窺え、この国が「一大率」の支配下にあり、「一大率」により「直轄」が行われていたということが考えられるところです。
 「正木氏はこの「官記載」の欠如について「通過」しただけであったからという理解をしているようですが、それはいかにも不自然でしょう。「魏志」という重要人物の訪問を「政庁」に寄らないで単に通過に留めるというのもまた考えにくいものです。しかもそこには「戸数」が表記されており、そのように戸数表記があるということはその国の官から戸籍に関する情報の提示を受けたことを示すものと思われ、それは「魏使」が政庁に赴いた蓋然性が高いことを示すと推量します。
 つまり「末廬国」には通常の官僚はおらずすべて「一大率」という軍事関係者で占められていたという可能性が高いと思われ、そうであれば「官名」が書かれずとも不自然ではありません。彼らにより「戸籍」の作成やその管理などが行われていたものとみられ、表記された「戸数」は「一大率」の関係者から提示を受けたものであると見られるわけです。

 既に述べたように「一大率」が最も防衛すべきものは「首都」であり「邪馬壹国」ですが、それが所在する場所に最も至近の港は「末廬国」にはありません。「首都」である「邪馬壹国」は「博多湾」の内奥にあったと見られますから、「一大率」の本拠も当然「末廬国」にはないこととなります。そう考えると「末廬国」には正式な外交使節の対応を行うべき「外交官」的人物が配されていたものの、いわば「出先」としての機能でしかなかったこととなるでしょう。つまり「一大率」は「博多湾」において首都防衛のための軍事力配備を主として行うとともに、「末廬国」の「津」で外交使節の受け入れと送り出しという業務を従たるものとして行っていたものと考えられるわけです。
 この「皆臨津搜露」の「津」が「末廬国」の「津」であると考えるのは当然ですが、上に見たように「郡使」の常に「駐」(とどまる)ところとされる「一大率」の本拠地が「博多湾」に面しているとして、そこが「首都」防衛に適した拠点であるとすると、後の大津城などがそうであったように、現代の平和台付近を想定すべきとすると、『倭人伝』の「末盧國…東南陸行五百里、到伊都國」という記事を「逆算」して、平和台付近から「五百里」(これを約40㎞程度と見る)「西」の方角へ移動すると(唐津街道を使用したとして)「唐津城」の手前までで40㎞をやや越えるぐらいになり、それ以上遠くへは届かないと思われます。そう考えると、唐津半島先端の「呼子」付近とはいえないこととなる思われるわけです。
 また「呼子」付近を「末廬国」と想定するのは『倭人伝』内で「一大国」から千里とされた里程からみると少し近すぎるという点も疑問とするところです。その意味でも「唐津」付近の方が整合すると思われます。

 この「唐津」には「松浦左用姫」の伝承で名高い「鏡山」があり、この「鏡山」はその伝承が示すように「唐津湾」を遠くまで一望できる要所ですから、ここに「一大率」の出先が陣を張っていたという可能性が考えられます。その「松浦左用姫」の伝承は「五世紀」のものとされますが、その中で「大伴狭手彦」がこの「唐津」から半島へと向かったとされているのも、この地が以前から「一大率」の出先としての軍事的拠点でありまた外国へ使者を送る際の基地であった過去を反映しているという可能性もあるでしょう。

 そもそも「正木氏」も云うように「行程」の里数はその国の「政庁」的中枢の施設までのものであるはずですが、水行の場合は「港」までを指すものと思われ、そう考えると「末廬国」のように「水行」から「陸行」に変る地点においては、到着した「港」と「政庁」とが同一地点にあったと考える必要はなく、また実態としてもそれらが離れているとして考えて不自然ではなく、「政庁」まで若干の距離があったと見ることもできるでしょう。その意味で入港は「現唐津城付近」と思われるものの、「一大率」の出先機関が「鏡山」という軍事的要衝を押さえていたのは当然であることから、そこは「政庁」的役割をしていた可能性が考えられ、「魏使」はこの「鏡山」付近に至ったという可能性が考えられます。
 これについてはすでに「末廬国」の官名が『倭人伝』内に書かれていない理由として「一大率」が「末廬国」を直轄していたということをその理由として考えられることを述べたわけですが、そうであるならば「一大率」の出先と「末廬国」の中枢が一致していると考えるのは当然でもあり、「鏡山」に「末廬国」の中枢としての「政庁」的建物がありそこに魏使が引率されたと見て不自然ではないと思われます。

 このことに関連して、中村通敏氏は氏の著書(『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』海鳥社二〇一四年)で、「末廬国」~「伊都国」間として「西唐津」から「今宿」までのJR筑肥線の距離を粁程表から約40㎞と見出し、「伊都国」の中心を「怡土平野」の東端とされましたが、これは「上陸」地点と「伊都国」への出発地点を同じ場所ということを既定の前提としているようであり、上に見たようにその出発地点としては「鏡山」付近を措定するとした場合、JR筑肥線の粁程表をみるのであれば「虹ノ松原駅」からの距離を見るべきと思われ、「伊都国」の政庁位置としてはより東側へ移動することとなります。つまり、JR筑肥線の「虹ノ松原」からは「姪浜」までで39㎞となり、さらにそれに接続する福岡市営空港線の「姪浜」-「大濠公園」間が5.4㎞と算出されますから、合計で44.4㎞となります。これは「五百里」という距離表示が「正木氏」のいうように「日数」あるいは「刻数」からの換算であることを考えると、実距離としては大きな誤差ではないと判断できるでしょう。いずれにしても「博多湾」に面した地点まで「伊都国政庁」の想定地点は伸びることとなると思われます。(「末廬国」の「津」から「政庁」所在地としての「鏡山」までの距離は「倭人伝」には記載されていないものと見られ、それを除いて距離を見る必要があると思われるわけです。)


「一大率」と博多湾防衛(改)

2015年06月22日 | 古代史

以前同じタイトルで記事を書いていますが、その補強的文をもう一度書かせていただきます。

 「倭人伝」の記述によれば「郡使」あるいは「皇帝」からの「勅使」は「いつも」「對馬国」を経て「一大国(壱岐)」~「末廬国」へと行くコースを使っていたと理解されます。

「始度一海、千餘里至對馬國。…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。…又渡一海、千餘里至末盧國。…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 これによれば「一大国」を経て「郡使の往来」に「常所駐」とされる「伊都国」へという行程には途中「末廬国」を経由するというコースがとられていますが、これは「常用」されていたものと考えられ、いいかえればこのような往来には「博多湾」は使用されていなかったと推定されることとなるでしょう。
 つまり「郡使」などが「對馬国」へ来ると「一大国」を経由して「末廬国」へと意識的に「誘導」されたものと思われますが、それはその時点以降の移動が「軍事関係者」により「誘導」されたものであり、彼らが乗り込んできて強制的に「一大国」~「末廬国」へと進路をとらされたか、あるいはその目的で船を先導した(別の船で)という可能性が考えられますが、この「軍事関係者」というのが「一大率」である(その関係者)というのはまちがいないと思われます。つまり「對馬国」には「一大率」から派遣された担当官がおり、彼によって「一大国」経由で「末廬国」へと誘導されたという可能性が高いと思われるわけです。
 『倭人伝』には「狗邪韓国」までは「官」の有無を始め詳細情報が記されていないわけですが、「對馬国」以降はそれが書かれるようになります。そのことから「倭王権」の統治範囲は「對馬国」までであったと見られ、この間に「境界線」が存在していたものです。
 つまり「對馬国」はいわば「国境」にあるわけですから、そこに国境警備隊よろしく軍事力が展開していたとみるのは当然です。それはまた「女王国以北」の「諸国」について「一大率」が「検察」しているとする表現からも窺えます。当然「對馬国」に「一大率」の前線基地とでもいうべき「軍事基地」があったと見られ、そこに「斥候」「防人」の類の兵力があったと見るべきでしょう。

 また入港するに当たって「博多湾」を避け「末廬国」へと誘導した理由としても、「古田氏」が言うようにそこ(博多湾)が「重要地点」に至近であったからと思われ、この「湾」からほど遠くない場所に王都である「邪馬壹国」があったらしいことが推定されるでしょう。
 これは逆に言うと「敵」が「海」から侵入してくるとすると、「博多湾」が第一の経路であり、標的となることを意味します。であれば、これに対する防衛システムも博多湾を中心に展開していなければならないこととなるのは明白であり、「一大率」は(北方の防衛の拠点とされているわけですから)、「博多湾」に面してその拠点を持っていたと考えるのが相当と思われることとなります。
 というより「伊都国」が海に面した場所に拠点を持っていたからこそ、その「伊都国」の内部に「一大率」が配置されていたと見られ、「一大率」の主要な勢力が「水軍」であったことが重要な理由であったと思われます。
 つまり「博多湾」の防衛を考えると、そこには「首都」あるいは「首都圏」防衛のために水軍の基地があったとみられ、「軍船」が常時停泊していたものと思われます。さらにそこには「一大率」の拠点としての「城」がなければならないのは当然と思われ、そのような場所に外国使者などが直接入港することを避けるのは当然ですが(軍事情報を隠蔽する意味もあると思われますが)、そう考えると、博多湾に面した場所に「伊都国」の領域があったということとならざるを得ません。

  『書紀』の「壬申の乱」の描写によれば、「近江朝」からの出兵指示に対して「筑紫大宰」であった「栗隈王」はこれを拒否していますが、その言葉の中では「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」とされており、ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、「城」そのものも険しく(急峻な城壁を意味するか)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際に存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。またそれは「七世紀」に限った話ではなかったはずであり、それ以前からこの「博多湾」に望む位置が軍事的に重要なものであったことが推察されます。
 後の「鴻臚館」のあった場所(これは後に「博多警固所」となり、また「福岡城」となります。)には「大津城」という「城」があったことが推定されており、また「主船司」も至近にあったらしいことが推察されています。(※1)
 このようなものは当時(平安時代)の「新羅」などの侵入に対する「博多」防衛のためのシステムですが、その趣旨は「一大率」という存在と酷似するものではないでしょうか。つまり、「伊都国」に「治する」とされている「一大率」もこの「鴻臚館跡」付近にその拠点を持っていたという可能性が考えられ、それはこの場所が元々「伊都国」の領域の中にあったのではないかと考えられることを示すものです。
 また「伊都国」には郡使などの往来に際して「郡使往來常所駐」、つまり常に駐まるところとありますから、「伊都国」には「外国使者」の宿泊施設や「迎賓館」のようなものもあったと思われます。これはまさに後の「鴻臚館」につながるものであり、その「鴻臚館」が「軍事拠点」としての「大津城」などと同じ場所にあったことが推定されているわけですから、「卑弥呼」の時代においても「一大率」の拠点と至近の場所にあったと考えるのは不自然ではないこととなるでしょう。(外国使者に対する警備上の観点からも至近に存在した可能性が高いと思料します)

 これは少なくとも「末廬国」から「一大率」の拠点としての「施設」までの案内は「一大率」配下の人員が行ったことを推定させるものであり、さらに云えば「卑弥呼」への面会から帰国までを全面的にサポートしたのも「一大率」配下の人員であったことを示唆するものです。それもかなり高位の人間が直接出向いたという可能性が考えられ、「魏」から「銀印」を下賜され「『率』善校尉」という軍事的な称号を授けられた「次使都市牛利」がその任に当たった可能性が強いでしょう。
 この「『率』善校尉という軍事的称号についても「一大『率』」と関連して考えるべきという論もあるぐらいですが(※2)、「魏」の制度の「校尉」とは「軍団の長官」に与えられる称号であり、与えられた「銀印青綬」も「軍団の長官」という官職に対するものとして整合しているものです。
 また後の「隋使」や「唐使」を迎える際にも最上位の官僚が出迎えてはいないことから、このときも「大夫」とされる「難升米」が出向いたものではなかったと思われ、「次使」とされる「都市牛利」は「大夫」ではなかったらしいことが推察されますから、彼が「郊迎の礼」をとったという可能性が高いと思われます。(このことから「都市牛利」が「一大率」の出先機関の長として存在していたと推定されるものですが、後の「松浦水軍」の関係者として現在もこの周辺に「都市」姓が遺存していることは瞠目すべきことです。この「一大率」の主たる勢力が「水軍」であるのは論を待ちませんから、それが「松浦水軍」へと連続しているという可能性は高いものと推測されます。そうであれば「都市」姓そのものも「一大率」から続いているということもまた考えられるところとなるでしょう。(※3))

 このように「一大率」の拠点として「對馬國」と「博多湾岸」そして「唐津湾」が考えられるわけですが、それを示すのが「兵器」の出土分布でしょう。
 この「卑弥呼」の時代は既に「鉄器」の時代に入っていると思われるわけですが、主たる「兵器」がまだ「銅製品」であったことも間違いないものと思われ、その「銅製兵器」(矛、剣、戈)についてその主な出土範囲を見てみると(もちろん「福岡県」が突出して最多領域であるわけであり、即座に当時の「王権」の所在地を明確に示しているわけですが)、「對馬國」に当たる「対馬」と「博多湾岸」に相当する「筑前中域」に偏っていることが明かになっています(※4)。これについては「対馬」を「兵器祭祀」の場と考えたり、「卑弥呼」の「」の場所と関連づけて考える論(古田氏による)がありますが、「兵器」の存在はそこに「軍事勢力」があったことを意味するものと理解するべきであり、そう考えれば「一大率」との関連を考えるほうが正しいものと思われます。つまり国境防衛の拠点である「対馬」と首都防衛の拠点としての「博多湾岸」に「軍事力」が展開していたことを示すと考えると出土状況と整合するのではないでしょうか。この「兵器遺物」の出土状況は、それが「一大率」の拠点の場所を意味する、あるいはその存在につながるものと考えるのは自然なことと思われるわけです。
 また「唐津」にこのような「兵器遺物」が少数しか見られないのはそこが「軍事拠点」というより「外交拠点」であったからと見ればすでにおこなった推定と矛盾しないものと思われます。

(※1)佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園研究紀要』第二十六号一九九四年)
(※2)三木太郎「一大率とソツヒコ」(『北海道駒澤大學研究紀要』一九七四年三月)
(※3)内倉武久「理化学年代と九州の遺跡」(『古田史学会報』第六十三号 二〇〇四年八月)
(※4)樋口隆康編『古代史発掘五 大陸文化と青銅器』講談社一九七四年 


「戸」と「家」の違い(三)

2015年06月03日 | 古代史

 ところで、近年、「古田氏」により「一大率」に対する理解について、「一大国」の「軍」を示すものという見解が示されています。
 その当否を考える上で重要であると考えられるのは、「一大国」が「家」表記であることです。「倭人伝」の中では「不彌国」と共に「家」表記がされており、この意味を考える必要があると思われます。
 
 「倭国王権」による民衆の支配と把握については、各国ごとにやや強度が異なるものであったという可能性はありますが、少なくともこの「邪馬壹国」への「主線行程」とも云える国々についてはそのような差はなかったのではないかと思われます。なぜならこれらには「官」が派遣されているからです。「派遣」された「官」の第一の仕事は「戸籍」の作成ではなかったかと思われますから、「戸籍」がなかったというようなことは想定しにくいこととなります。
 つまり、「家」で表記されている国である「一大国」と「不彌国」についても「戸籍」は存在していたと考えられ、「倭人伝」で表記の差が現れているのは、単に「戸籍」に関する情報が「魏使」に提示されたかされなかったかの違いであると考えられます。
 つまり、「一大国」及び「不彌国」については「魏使」に対して「戸籍」に関する資料、情報を提示しなかったと言うことが推定されることとなるでしょう。そして、その理由については詳細は不明ですが、推測すると「戸籍」というものが多分に「軍事的情報」を含んでいるからではないでしょうか。

 「三国志」における「家」の出現例を見ていくと、「軍事」と関係しているという可能性が窺えます。

「太和元年…十二月,封后父毛嘉為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。…魏略曰:達以延康元年率部曲四千餘家歸魏。」「三國志/明帝 曹叡 紀第三/太和元年」

 「三国志」中では「家」は通常の「家」(いえ)という場合の使用例が圧倒的ですが、「数量」の単位として現れる場合は(ここでは「四千餘家」という表現がされている)特定の場合に限られるようです。
 上の例では「部曲」として書かれていますが、この「部曲」は「部隊」を構成する単位を示す用語であり、ここでは直接的に「兵隊」を意味するものとして「家」が使用されています。
 また「以下」の例では「流入した」者達が「家」で表され、彼等は「部曲」(兵隊)となっており、そのため「軍事力」ばかりがあって「生産力」がないという意味のことがいわれています。

「衞覬字伯儒,河東安邑人也。少夙成,以才學稱。太祖辟為司空掾屬,除茂陵令、尚書郎。太祖征袁紹,而劉表為紹援,關中諸將又中立。益州牧劉璋與表有隙,覬以治書侍御史使益州,令璋下兵以綴表軍。至長安,道路不通,覬不得進,遂留鎮關中。時四方大有還民,關中諸將多引為部曲,覬書與荀曰:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者十萬餘家,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷,以為部曲。郡縣貧弱,不能與爭,兵家遂彊。」「三國志/魏書 卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一/衞覬」

 他にも多数の例がありますが、それらはいずれも「家」と「軍隊」の間に強い関係を窺わせるものです。
 そもそも「魏」の「曹操」は、「屯田」を配置しそこからの収穫物を全て自家のものとしていました。これは「地方統治」の方法として「兵士」に開墾させ、糧食を確保させると共に一旦急あれば「武器」を取って戦うという体制を築いたものです。そのために配置された軍人は「兵戸」という専用の「戸制」に登録されていたものであり、それらに属する者達は「家」で数えられていたものです。 
 また以下の例は「冢守」(墓守)について「家」で表示している例です。

「…仁少時不脩行檢,及長為將,嚴整奉法令,常置科於左右,案以從事。?陵侯彰北征烏丸,文帝在東宮,為書戒彰曰:「為將奉法,不當如征南邪!」及即王位,拜仁車騎將軍,都督荊、揚、益州諸軍事,進封陳侯,邑二千,并前三千五百?。追賜仁父熾諡曰陳穆侯,置十家。後召還屯宛。孫權遣將陳邵據襄陽,詔仁討之。仁與徐晃攻破邵,遂入襄陽,使將軍高遷等徙漢南附化民於漢北,文帝遣使即拜仁大將軍。又詔仁移屯臨潁,遷大司馬,復督諸軍據烏江,還屯合肥。?初四年薨,諡曰忠侯。…」「三國志/魏書卷九 諸夏侯曹傳第九/曹仁」

 ここでは「曹仁」について「封戸」を「三千五百戸」に増やすとされているのに対して、彼の父の「墓」(冢)の「守冢」について「十家」とされています。このように「守戸」や「」というような人達については「通常」の「戸制」に登録はされませんでした。(後の「隋唐」でも同様であり、それを踏襲したと思われる「大宝令」などにもそれは継承されています)

 これらの例から考えて、「魏」の「通常の戸籍」ではない戸籍に登録されている場合「家」を使用するものと思われ、それは「夷蛮」の国において「戸制」が十分整備されていない場合や、「魏」とは異なる戸制の場合にも適用されると見られます。(「呉」や「蜀」がこの場合でしょうか)

 「軍団」は兵士の集団であり、その兵士は住民から徴発するわけですから、住民に対する「居住」の状況(年齢、性別などの諸情報)が把握されなければ「兵士」として徴発することができないのは明らかです。
 どこにどれだけ「兵士」になりうる人間がいるのかを把握できなければ「常備軍」も「臨時」の軍編成もできるものではありません。
 そう考えると、「一大国」と「不彌国」の両方が「家」表示であるのは、その両国の「戸籍」がほとんど「兵戸」であったからではないかということが考えられます。
 ただし、「兵戸」であることを「倭国側」の官(これは「一大率」か)が「魏使」に告げたかどうかは不明です。それは即座に「軍事情報」とも言えますから、秘密にしたということも考えられますし、「他国」からの「流民」などについては「家」で表記するというルールらしいものもあったようですから、それを「装った」という可能性もあります。
 それは上の「一大国」の記事においても、特記すべき事として軍関係の表示が全く無いことからも窺えるものです。
 もし「一大國」「家」が「兵戸」に基づくとしたら、「一大国」には「軍事」に関する何らかの表象があったはずと思われますから、必ず「魏使」はそれを明記したことでしょう。(軍事情報は最優先事項でしょうから)
 それが書かれていないと言うことは、「家」の正体を「倭国」側は明らかにしなかったという可能性が高いと思料します。つまり「倭国王権」は「戸籍」の開示をしなかったばかりか、国内(島内)の「軍事情報」を意図的に「隠した」のではないでしょうか。
 「魏使」を案内するにもそのような施設を見せないように迂回させたものと考えられます。(「倭人伝」の距離表示が「壱岐」と「対馬」については「半周読法」である理由もそこにあるのかも知れません。つまり、反対側の「半周」には軍事基地等があったという可能性もあると考えられます)
 そして、それは「不彌国」についても同様であったと推測できます。
 「不彌国」は「邪馬壹国」の至近にあったと考えられますから、「首都」を防衛するものかあるいは「王権」そのものを防衛する役割があったと見られ、やはり軍事的拠点であったと考えるべきでしょう。それは「首都」の近傍にしては少ない「家」の数からもいえると思われます。そのことは「不彌国」を構成する人達はほとんどが「兵士」であったことを推測させるものであり、通常の「国」の構成とは全く異なっていたと考えられることとなります。

 これらのことを考えると、「一大国」には「軍事拠点」があったと推定されることとなり、「一大率」という名称はそれが「一大国」の軍事力の前線基地として機能していたことを示すものであったという「古田氏」の推定が正しいことを示すと思われます。
 (「壱岐」の「原の辻遺跡」からは「鉄・銅・骨」などの各種「鏃」や「短甲」「投弾」「烽火跡」など「軍事」に関係するものが多く出土しています。また「港湾施設」と思われる遺跡が出土し、そこには「堤防」と考えられる遺構に「敷きソダ工法」が使われ、「水城」などと同様の建設手法であることが確認されています。その意味でもこの「壱岐」という島が軍事に特化した地域であったらしいことが推測されています。)
 既に検討したように「一大率」は海外からの使者などについては「一大国」以降「末廬国」の「唐津」へ誘導しそこで「外交文書」その他貢献物などの確認等の行為を行った後「伊都国」にあった「宿舎」(迎賓館も含むか)へと案内していたものであり、「一大国」以降「一大率」の監督下に入ったものと見られることとなります。それらの事から「一大国」と「一大率」には重要な関係があるのは確実であり、「伊都国」に展開している首都防衛のための防衛線として「防人・斥候」的役割をする部隊が「一大国」にいたことを示すものであり、これが一大率の真の本拠地であったという可能性も考えられるところです。
 また同じ軍事情報でも「伊都国」に「一大率」が存在しているということが「秘密」とされていないのは、「伊都国」に「郡使」が「常駐」するという環境の結果であると考えられます。
 「伊都国」は「千余戸」という少ない戸数が記録されており、そのことからも「一般民家」の少ない「公的エリア」であったことが推定され、「軍団」についてもほぼ「露出」しているような状態であったのではないでしょうか。つまり「隠しようがなかった」というような事情によって「一大率」についての情報が記載されると言うこととなったものと思われます。
(「実際」に「戸」と「家」との間の違い(差)はどれほどであったかというと、それは「戸」が示されない場合に「家」で表示していると言うことの中に既に現れているといえるでしょう。つまり「家」で「戸」数は代替できる場合が多いと「魏使」が考えていた証左であると考えられ、「家」はほぼ「戸」と等しいと考えられていたのではないかと思われます。)


「戸」と「家」の違い(二)

2015年06月03日 | 古代史


 以上によれば、基本は「戸」と「家」とはその意味も実態も異なると考えられる訳です。その差は何なのでしょうか。「私見」によれば、重要と思われることは「戸」が「公式」なものであり、「戸籍」にもとづくものであるということです。
 つまり「魏」からの使者が「戸数」を知るには、「戸」についての資料あるいはそれを元にした口頭説明などを「各国」の「官」から受ける必要があったと考えられます。明らかに「戸」とは「国家」(官)の把握・管理している対象としてのものですから、部外者がそれを知るためには何らかの「記録」を見る、あるいは担当官吏から「説明」を受けるというような手続きを経なければなりません。そうしなければ決して知ることのできない性質のものと思われるわけです。黙って外から眺めているだけでは「戸数」は判明しないのです。それに対して、「家」は外観から知ることが出来る性質のものであるといえるでしょう。無理すれば数えれば分かるものとも言えます。
 これを「倭人伝」に当てはめて考えてみると、「一大国」と「不彌国」だけが「家」表記されているわけであり、それは「魏使」が通過した際この両国については「戸籍資料」を見る機会がなかった、あるいはその際に引率・対応したと思われる「一大率」(あるいは彼から派遣された人員)が、そのようなデータを「秘匿」した(教えてくれなかった)というような事情があったものではないでしょうか。
 彼ら「魏使」達はそのような場合は何らかの方法(やや高いところからざっと家の数を数えたとか)で「家」の数を把握したと言う事ではないでしょうか。そのため「許」(ばかり)という「概数表記」がされているのだと思われます。
 「戸数」に使用されている「余」というのも「概数表示」であるように思えますが、表現を曖昧にしているだけで「概数」表記であるとは言い切れません。実際には「正確」に把握されているものの、それを全て書くと「冗長」なので省略しているだけという場合もあり得るからです。「許」(ばかり)の方は明らかに「正確な数量」を把握していない、という事の表れですから、内容は明確に異なると思われます。
 (「投馬国」と「邪馬壹国」の戸数表記に「可」という表記がされており、これも「概数」を表すものですが、ここでは「戸」が表記に使用されており、そのことから担当官吏から報告を受けた戸数そのものが「概数」としてのものであったと見られます。それは両国とも人口が多く、「詳細」な報告は煩瑣であるということを担当官吏が考えたからではないかと思われ、結果として「概数」が魏使に対して提示されたということではないかと推察します。)

 つまり「魏使」に対し「戸籍」という「資料」を提出したところとそうでないところがあったものと見られ、またそれは「魏使」としては「強要」するものではなかったということも考えられます。
 この「倭人伝」の原資料は、「卑弥呼」に対する「冠位」の賜与と記念品の贈呈を「魏」の皇帝に代って行なうために来倭した「帯方太守」の記録が主たるものであったと思われ、彼らの任務として「国情」の視察等は副次的作業であった訳ですから、「資料」を提示された場合は見るし、そうでない場合は推測するというだけのことではなかったでしょうか。その国ごとの対応(応接)の差が「戸」と「家」の表記の差になっているという可能性が高いと思われます。
 このことは、「魏使」が「邪馬壹国」まで行っていないとか、「卑弥呼」には面会していないというような理解が成立しにくいことを示します。なぜならそこには「戸数」が表記されているからです。
 上に見たように「戸」が「公的情報」であり「官」から提示説明された資料に基づくとすれば、「邪馬壹国」など「万」を超える戸数の国についてもそれが「戸数」で表記されている限り「類推」などではなく、根拠のあるものであることとなり、実際に「邪馬壹国」に行き「官」に面会し、各種の情報を入手したと考えるべき事を示しますから、当然「倭国女王」たる「卑弥呼」にも面会し、直接「魏皇帝」からの下賜品を授与したと見るべきこととなるでしょう。
 このように「戸数」表示があるところは「魏使」が実際に赴いたところであるということは「倭人伝」中の以下の文章からも推定できます。

「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」

 ここでは「其餘旁國」つまり「斯馬國」以下の「二十一国」については、実際に行くことが出来なかったから「戸数」表示が出来ないというのですから、「邪馬壹国」など「戸数」表示がされているところは「魏」の使者が実際に赴き「戸数」に関する資料の開示を受けた事を示すものでしょう。

 このように各国に「複数」の「官」が派遣され、しかもそれら各国にはほとんど「王」がいないとされ、また「戸籍」が整備されている点などを見ても、この時点の「倭国王権」がかなり強力な「中央集権的」存在であることが理解できます。このような機構は他の『東夷伝』には全く書かれておらず、「倭人伝」にしか見られないものです。つまり、「中国」以外では「例外的」に「倭国」に「中央集権的」権力がこの時点で存在していたことを示すものであり、それを「魏」の王権でも重視していたものであり、「親魏倭王」という称号を与えたのはそのような「高度」な統治体制を構築したことに対する「賞賛」を示すものであり、少なからず「畏敬」の念も含んでいたこととなるでしょう。

 このように「戸数」が「戸籍」に基づくという前提から考えると、先に計算した「韓」において「家数」と「戸数」とがかなり食い違うという事情については、「総人口」(総家数)に対して「戸籍」に編入されている割合(「捕捉率」とでもいうべきでしょうか)が地域によってかなり異なっていたという事情があると思われます。特に「馬韓」においてそれが顕著であり、三分の一程度しか「戸籍」に編入されていなかったらしいことがその「戸数」と「家数」の計算から推定できるでしょう。それに対し「弁辰」は「捕捉率」が高かったようであり、ほぼ一〇〇%戸籍に編入されていたらしいことが推定できます。その差は両国(地域)の「統治」の実情と関係していると考えられるものです。
 「馬韓」の場合「韓伝」の中に「其俗少綱紀,國邑雖有主帥,邑落雜居,不能善相制御。」という記事があり、このことは「支配力」が末端まで及んでいなかったことを推定させるものですが、そのことと「家」と「戸」の数量の間に乖離があると言う事が深く関係していると思われます。それに比べ「弁辰」においては同じく「韓伝」中に「法俗特嚴峻」とされており、「法」や「制度」がしっかり守られていたとされていて、「隅々」まで「統治」が行き渡っていたことが推定できるものですが、このことと殆どの「家」が「戸」として把握されていたと言う事の間にも深い関係があると推定します。
 いずれにしろ「倭国」とは異なり、「諸国」に「官」が派遣されているという体制ではなかったようですから、「戸籍」が未整備であったとしても不思議ではないと思われます。


「戸」と「家」の違い(一)

2015年06月02日 | 古代史

 『倭人伝』における「戸」と「家」の違いについては、各種議論があります。「古田氏」は『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」とされています。そして「…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』(※)と理解されているようです。
 『倭人伝』の中では「對馬(海)國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
 これについては「古田氏」は 『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』というように述べています(※)。
 つまり「家」表記が存在しているのは多様な民衆構成であったことがその理由とされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのは軍事的には「危険」ではないかと思われます。なぜなら当時は「狗奴国」との争いが続いている状態があったとみられ、何時「刺客」が入り込んでくるか判らない状況であったと思われるわけです。「倭国王権」(邪馬壹国)の関係者がそのような事態が発生する可能性について考慮しなかったわけはないと見ると、「狗奴国」のように外国と争いが起きている際に「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所に「戸籍」で管理されない人達がいたとは考えられないこととなるでしょう。でなければ外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなると思われるわけであり、そう考えると「家」の表記には別の意味があると考えざるを得ないものです。

 ところで、同じく『魏志』の中では『韓伝』において「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されており、しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。
 この「韓伝」の数字についてはいろいろ議論されているようですが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。そこでそれが事実か実際に計算してみます。

「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」(『魏使東夷伝韓伝』)

 ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一から五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云うと思われ、ここでは概数として中間値をとって「五十五」と「十万五千」という数字を採用してみます。その場合単純平均で一国あたり「千九百戸」程度となります。しかし、実際には内訳として「大國萬餘家、小國數千家」とされています。これを同様に「一万五千」と「五~六千」として理解してみます。
 この数字の解釈として「平均値」として受け取る場合と「最大値」として理解する場合と二通りありますが、「平均値」と考え、さらにここで「大国」が「五国」程度と考えて、残りの四十五国は「小国」であったこととする様な想定をしてみます。これらを当てはめて総数を計算してみると、「三十二万家」ほどとなります。これが戸数として、「十萬餘」つまり「十万五千」程度に相当するというわけですから、「戸」と「家」の数的比として「1対3」程度となります。
 この「想定」を「大国」がもっと多かったとして「十国」程度とし、それ以外が「諸国」であるとして計算しても、合計で「三十六万家」弱程度しかならず、比の値としては「1対3.5」程度となるぐらいですから大きくは違わないと思われます。
 また「韓伝」の表現が「最大値」を示していると考えた場合は当然総家数は「三十三万」よりも少なくなりますから、「比」は「1対3」よりもかなり低下するでしょう。
 たとえば「大国」を五国としてそのうち二国は「万余」つまり「一万千」ほど、他の三国は「九千」程度と仮定し、「小国」は「四十五国」中五国程度を「最大値」の国として「五千五百」とし、それ以外をその半分程度の「二千五百」ほどと見込むと、総家数として「十七万六千五百」という値が出ます。つまり「総戸数」との「比」は「1対2」を下回るわけですが、これはかなり極端な想定ですから実際にはもう少し大きな値となるものと思われます。
 
 同様なことを同じ「韓伝」の「弁辰」について検討してみます。

「弁辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」(『魏使東夷伝韓伝』)

 ここで「馬韓」と同様「平均値」と「最大値」と両方でシミュレーションを行ってみます。
 たとえば「大国」を五国程度と考え、「家」の数を「四千五百」とし、「小国」を残り十九国として「六百五十家」とすると、総計で「三万五千家」ほどとなりますが、これでは総戸数より少なくなってしまいます。これは想定に問題があると思われ、今度は「大国」を十国程度に増やして考えてみます。その場合は総計「五万四千家」ほどとなります。これであれば「比」として「1対1.2」という数字になり、これはほぼ「家数」と同じといえるでしょう。
 更にこれを「平均値」として考えると当然この値より低下するわけですから、ほぼ1対1程度になると思われます。また、これ以上「大国」を増やした想定をしても「馬韓」のような「1対2~3」という数字(比)には遠くおよばないこととなるでしょう。
 以上のことは、よく言われるように「戸」と「家」の間に一意的な関係がある(ある一定の比率で相互に換算可能と言うこと)わけではないことを意味するものであり、「戸」と「家」の関係は別の観点から考える必要があると言う事となるでしょう。

※古田武彦『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)