古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「戸」と「家」の違い(一)

2015年06月02日 | 古代史

 『倭人伝』における「戸」と「家」の違いについては、各種議論があります。「古田氏」は『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」とされています。そして「…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』(※)と理解されているようです。
 『倭人伝』の中では「對馬(海)國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「戸」表記が続きますが、「不彌國」は上陸後唯一の「家」表記となっています。
 これについては「古田氏」は 『一大国は、住人が多く海上交通の要地に当たっていましたから、倭人のほかに韓人などいろいろな人種が住んでいた可能性が大きい。同じく不弥国は、「邪馬一国の玄関」で、そこにもやはりいろいろな人たちが住んでいたと考えられる。そうした状況では「戸」ではなく「家」の方がより正確であり、正確だからこそ「家」と書いたわけです。』というように述べています(※)。
 つまり「家」表記が存在しているのは多様な民衆構成であったことがその理由とされていますが、例えば「不彌国」にいろいろな人達がいるというのは軍事的には「危険」ではないかと思われます。なぜなら当時は「狗奴国」との争いが続いている状態があったとみられ、何時「刺客」が入り込んでくるか判らない状況であったと思われるわけです。「倭国王権」(邪馬壹国)の関係者がそのような事態が発生する可能性について考慮しなかったわけはないと見ると、「狗奴国」のように外国と争いが起きている際に「邪馬壹国」の玄関とも言うべき場所に「戸籍」で管理されない人達がいたとは考えられないこととなるでしょう。でなければ外部からの侵入者はそのような状態に紛れる可能性が高く、これを捕捉することが非常に難しくなると思われるわけであり、そう考えると「家」の表記には別の意味があると考えざるを得ないものです。

 ところで、同じく『魏志』の中では『韓伝』において「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されており、しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。
 この「韓伝」の数字についてはいろいろ議論されているようですが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。そこでそれが事実か実際に計算してみます。

「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」(『魏使東夷伝韓伝』)

 ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一から五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云うと思われ、ここでは概数として中間値をとって「五十五」と「十万五千」という数字を採用してみます。その場合単純平均で一国あたり「千九百戸」程度となります。しかし、実際には内訳として「大國萬餘家、小國數千家」とされています。これを同様に「一万五千」と「五~六千」として理解してみます。
 この数字の解釈として「平均値」として受け取る場合と「最大値」として理解する場合と二通りありますが、「平均値」と考え、さらにここで「大国」が「五国」程度と考えて、残りの四十五国は「小国」であったこととする様な想定をしてみます。これらを当てはめて総数を計算してみると、「三十二万家」ほどとなります。これが戸数として、「十萬餘」つまり「十万五千」程度に相当するというわけですから、「戸」と「家」の数的比として「1対3」程度となります。
 この「想定」を「大国」がもっと多かったとして「十国」程度とし、それ以外が「諸国」であるとして計算しても、合計で「三十六万家」弱程度しかならず、比の値としては「1対3.5」程度となるぐらいですから大きくは違わないと思われます。
 また「韓伝」の表現が「最大値」を示していると考えた場合は当然総家数は「三十三万」よりも少なくなりますから、「比」は「1対3」よりもかなり低下するでしょう。
 たとえば「大国」を五国としてそのうち二国は「万余」つまり「一万千」ほど、他の三国は「九千」程度と仮定し、「小国」は「四十五国」中五国程度を「最大値」の国として「五千五百」とし、それ以外をその半分程度の「二千五百」ほどと見込むと、総家数として「十七万六千五百」という値が出ます。つまり「総戸数」との「比」は「1対2」を下回るわけですが、これはかなり極端な想定ですから実際にはもう少し大きな値となるものと思われます。
 
 同様なことを同じ「韓伝」の「弁辰」について検討してみます。

「弁辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。」(『魏使東夷伝韓伝』)

 ここで「馬韓」と同様「平均値」と「最大値」と両方でシミュレーションを行ってみます。
 たとえば「大国」を五国程度と考え、「家」の数を「四千五百」とし、「小国」を残り十九国として「六百五十家」とすると、総計で「三万五千家」ほどとなりますが、これでは総戸数より少なくなってしまいます。これは想定に問題があると思われ、今度は「大国」を十国程度に増やして考えてみます。その場合は総計「五万四千家」ほどとなります。これであれば「比」として「1対1.2」という数字になり、これはほぼ「家数」と同じといえるでしょう。
 更にこれを「平均値」として考えると当然この値より低下するわけですから、ほぼ1対1程度になると思われます。また、これ以上「大国」を増やした想定をしても「馬韓」のような「1対2~3」という数字(比)には遠くおよばないこととなるでしょう。
 以上のことは、よく言われるように「戸」と「家」の間に一意的な関係がある(ある一定の比率で相互に換算可能と言うこと)わけではないことを意味するものであり、「戸」と「家」の関係は別の観点から考える必要があると言う事となるでしょう。

※古田武彦『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房)