古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「日本国」の成立(4)

2016年11月12日 | 古代史

 「日本国」成立の状況について考察しているわけですが「九州年号」群の中に「白鳳」、「朱雀」という年号がありますが、この二つの年号は『続日本紀』の中の「聖武天皇」の詔(七二四)の中に出てくることで有名です。

『続日本紀』「神亀元年(七二四)十月丁亥朔条」「治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。」

 ここでは「治部省」から奏上された「僧の身分確保の件で処置を請う」というものに対して聖武天皇は「詔」を出していますが、そこで「白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。」という言い方をしています。しかし『書紀』の中には「白鳳」も「朱雀」も登場しません。
 ここで問題になっているのは「出家」して「僧」になっている人たちに関してであり、この時点で「僧」の本人判別を行っているものです。彼等の申し立てに対して調査すると、「出家」した理由が本当かどうか不明であったり、「鋼帳」に該当する人物はいるが、「官籍」つまり「王権」の側で持っている「リスト」にはいないという場合、あるいは「顔かたち」や「ホクロ」など本人を識別するものが、記録されたものと変わってしまっている(つまり年月が経って顔形が変わったということか)というような事情があって、「公験」つまり「僧」としての活動を認める証明書を発行するべきかどうか判断できないというわけです。
 そして本人達の主張として出家した理由などに関して「白鳳以来」とか「朱雀以前」という言い方が使用されていたものと見られるわけですが、この「白鳳」や「朱雀」が彼等をして「年代」や「年次」を表すものとして使用されているのは明らかであり、それは過去においていわゆる「年次」を記録するのに「白鳳」や「朱雀」がその基準として使用されていた実態があったことを如実に示すものです。
 「公験」というのは公式文書であり、そのような中に「白鳳」「朱雀」が使用されていたと言う事になるわけですが、そういわれても「聖武」の朝廷の官僚達は「判定できない」というわけです。それはなぜかということが大きな問題であるわけですが、それは「聖武」の王朝つまり天皇家では改元したとか公布したとかの記録が一切なかったものであり、そのような年次を示すものは彼等にとって無効であったこととなります。しかし実際に使用されていなかったものを天皇が「詔」の中で「言及」するはずがないのは明白です。「聖武」の「詔」のニュアンスも「白鳳」朱雀」という年号の存在を頭から否定しているものではないことに注目すべきでしょう。あくまでも、そのような年号があったのは承知しているが、その年号とリンクした記録がないと言っていると理解できます。

 さらに「聖武」はこの時代のことは「玄遠」つまり、「暗くて遠い」とされ、また良くわからないぐらい昔である、ということを言っているのです。
 しかし、この「詔」を出したとされる「神亀元年」(七二四年)から見ると、「白鳳」「朱雀」という年代はたかだか「六十-八十年」程度の過去のことです。それは現実にまだ生存している「僧」達の口から「白鳳、朱雀」という年号が彼等の時代として語られていると見られることでもわかります。彼等が若い頃出家した頃には「白鳳」「朱雀」という年号が施行されていた時代であったということですから、それほど大昔のことではないこととなります。
 「聖武」の祖父である「草壁皇子」の「生年」が「六六二年」とされますから、まさに「白鳳」の始めに当たります。また父である「文武天皇」でさえも「白雉」の末年の生まれと推測されますから、それらを意味する時代のことがよくわからないとすれば、「聖武」にとっても彼の朝廷の官人達にあってもはなはだ不都合なことと推察され、(実際「不都合」が起きているわけですが)そのようなことがなぜ起きたのか、不思議な感じがします。
 この「僧尼」に対する「公験」という問題はその二年前の「養老四年」に同じく治部省から「奏上」がされていることと関連があるとされます。

「(養老)四年(七二〇年)…八月辛巳朔…癸未。詔。治部省奏。授公驗僧尼多有濫吹。唯成學業者一十五人。宜授公驗。自餘停之。…」

 ここでは「濫吹」と表現されていますが、学業ができてもいないのにそのような「ふり」を装っている「僧尼」が多いとされ、「公験」に値するかを精査しているようです。そしてその作業の中でそもそもいつの時点で「公験」を受けていたのかが不明な人達が数多くいたものと考えられるわけです。
 これらは通常いわれるように「白鳳」「朱雀」という年号が実使用されていた時代があったことを示すものですから、「九州年号群」全体に対する存在の証明ともいうべきものです。

 さらに興味があるのは「朱雀」以降についてはどうもデータがあるらしいということです。つまり『続日本紀』の記事からは問題となっている「僧尼」や「入道」達の主張が「白鳳~朱雀」という期間だけに偏っていたという可能性があり、それは「白鳳~朱雀」間だけがデータがないということを示すものと思われますから、その期間を除けば(特に以降)僧籍については把握していたと受け取れる表現と思われるわけです。そのことは「聖武」の王朝は(『二中歴』によれば「朱雀」に続く年号である)「朱鳥」から始まる王朝に直接つながっていると見られることとなりますが、それは「朱鳥」が「新王朝」の始まりであるといっているのに等しいわけであり、(後でも触れますが)「朱鳥」が「訓読み」をするとされていることや「持統」が「日本国」と国号を変更した際の年号が「朱鳥」であったという資料の存在から考えても首肯できるものです。
  
 このようなデータベース(僧籍)については、「寺院側」では廃棄すべきものではなかったとみえ、「王権」や「体制」が変わってもそのまま継続して保有(保存)していたものと思われます。そう考えると、「白鳳」「朱雀」という時代の「王権」と「聖武」の「王権」とではその内実が異なっていたという可能性が考えられるでしょう。そのため新王朝の「官籍」とは整合しない内容となっていたということと理解できるのではないでしょうか。
 「聖武」は「粗略」なところがあった、という言い方をしていますが、実際には「朝庭」の官人や資料が(実質的には)継承されておらず、「資料」がそもそもなかったことから発生した問題であったものと思われるのです。(続く)

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