古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国の「本国」と「附庸国」

2018年04月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』の中に行路記事、つまり倭国への道順が書かれている部分があります。そこには以下の様に書かれています。

「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」

 注目すべきは、この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現です。「附庸」とは「宗主国」に対する対語であり、「従属国」であることを示します。また『隋書』内での「以東」、「以上」などの表現例から帰納すると、「附庸」されている国に「竹斯国」が入るのは自明と考えられます。つまり「竹斯国」と「秦王国」は倭国に「附庸」されている国であることがわかります。
 すでに見たようにこの「裴世清」が派遣された年次は『隋書』や『書紀』に記されている「六〇八年」ではなく「開皇年間」(六〇〇年以前)であったと考えられ、その段階では、「竹斯国」は「倭国」の本国ではなかった事を意味すると思われます。(ただし、「竹斯国」と「秦王国」が「附庸」されている国で国名が特記されているのは、それだけ有力な国であったことを示すものではあると思われます。)
 このことは「倭京」元年つまり「六一八年」に始めて「筑紫」に都城が造られたと考えられることと整合すると言えるでょう。つまり、この時点までは「筑紫」には「都城」(京師)はなく、他の場所に存在していたとみられるのです。
 では、この時点における「都」はどこであったでしょうか。

 上の『隋書俀国伝』の表現から「近畿」に倭国の中心がある、という様に受け取る向きもあるようですが、そのような理解は不審です。もし仮に倭国の中心地が「近畿」にあったとすると、その国でさえも「筑紫国以東」の範囲に入ってしまうこととなるのは当然であり、「属国中に宗主国の都がある」という「ねじれ現象」が発生してしまいます。
 「近畿」に「倭国」の中心があるにも関わらず、「竹斯国以東」という表現が用いられることはないでしょう。そのような場合、より適切なな表現法としては「近畿の西側のある地域(境界領域)「までは」皆倭国に附傭する」という表現が使われるでしょう。ここではそれに類する表現は使用されておらず、そう考えると近畿の方向(東)には宗主国は存在しないことは明確であると思われます。つまり、原則として基準点から「附庸国」がある、というように指定された方向には「中心」となる国はないこととなります。(言い換えると「竹斯国」の東側は全て「倭」の範囲に属する「附庸国」であるという表現であるわけです。)
 ではどこが「倭国」の「本国」なのかというと、「附庸国」の方向として指定された「竹斯国以東」とは異なる方向、(以西や以南)が倭国の本拠地(「宗主国」であり、「本国」)なのだというように考えられます。その場合可能性があるのは「肥」の国でしょう。

 『隋書』には「筑紫国以西」「以北」「以南」の情報は、行路記事には書かれていませんが、「遣隋使」の言葉として「阿蘇山」が触れられているのと同時にその「阿蘇山」においての信仰の状況が「如意寶珠」をキーワードとして書かれています。
 「阿蘇山」は「竹斯国」の「南方」に位置するのですから、「遣隋使」がもたらした「阿蘇山情報」も「竹斯国以南」の情報と考えられますが、行路記事からはこの「竹斯」南方地域に対して「附庸」という表現が使われていません。つまり、この方面の地域は「倭国」の「本国」の一部であり、また「倭国王」が「直接」統治している領域であると考えられ、「附庸国」ではないと思料されます。

 また『隋書』中では「倭国王」が都する「邪靡堆」を「無城郭」としていますから、「城」もそれを巡る「郭」(囲い)もなかったとされています。このことは「筑紫」周辺に存在していたと考えられる「神籠石」などの「朝鮮式山城」とも「無縁」の環境に当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」が居在していた事を示すものです。しかし、「筑紫」の「山城」や「神籠石」はかなり「古いもの」とされており、また、確認された数も「筑紫」中心に多数が確認されています。「神籠石式山城」に限定しても「筑紫」には「筑前」「筑後」を併せて「七個所」、「豊前」で二個所、「肥前」には三個所確認されているものの、「肥後」(及び「豊後」)にはその存在が確認されていません。
 これらの「山城」は一部は「卑弥呼」の時代から存在していたものと思料され、それは「当然」「七世紀の初め」という段階でも存在していたわけですから、「隋使」の行路や都の至近にあったなら、それについてコメントしない、あるいは「都」には「城郭」がない、というような表現をしないのではないかと思料されるものです。つまり、「筑紫」は「朝鮮式山城」の密集地域であるわけですから、「隋使」が実見した「倭国」の王都とその周辺地域は(「行路記事」に明確なように)「筑紫」を指すものではない可能性が高いものと推量され、都が「肥後」であった蓋然性は更に高まると考えられるものです。

 また、「無城郭」と言うことから、「城」やそれを巡る「郭」を伴った「都城」は「遣隋使」が「隋」の「大興城」やそれ以前の「長安城」に関する情報を入手して初めて「倭国」に形となって現れたものと思われ、それが「筑紫」に「七世紀の前半」(「九州年号」の「倭京」年間(六一八年))に、初めて「本格的都城」として結実したものと思われます。
 ところで「鞠智城」は「筑紫」の「大野城」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格を持っているとされるものの、他方それらとは大きく異なる部分もあるとされます。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築くと言うより、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築いていることや、周囲に「郭」つまり「外界」と区画する木製や土製あるいは石製の仕切りが見られない、などの相違点が確認されます。その意味では「無城郭」という形容と大きくはずれるものではありません。またその内部には「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されています。

 また、「六一八年」という時点で「竹斯」に都城を造り、「遷都」することとなったわけですが、その理由としては「筑紫」が「古都」である、という事も確かでしょう。
 「筑紫」は「卑弥呼」の時代も含め歴代の倭国王の所在する場所であったものですが、「倭の五王」の時代以降「外的圧力」をかわす意味で「内陸」である「肥後」にその中心を移動していたとみられます。
 そもそも「筑紫」は、東方の附庸国(吉備や播磨、難波など)への「にらみ」を利かす意味で、平野部が広く都市設計がしやすい場所であると考えられますが、何よりも「半島」に面していて、交通の要衝であるという利点が大きかったものと見られます。「肥(日)の国」は「半島」や「本州」とある意味隔絶していますから、安全度は高く「守備」には最適ですが、より積極的な交渉を望むなら「筑紫」に進出するのが当然ともいえるでしょう。
 (あるいは、「阿蘇山」の活動が活発になったため、筑後川沿いに北上した場所に「避難」の意味も込め、遷都したという事も考えられるでしょう。)


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2017/03/04)(ホームページ記載記事に加筆)


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