以上のように「六七五年」が初出とされる記事群およびまたこの翌年(六七六年)の「放生」記事および「六七九年」の「献杖(八十枚)」記事について検討しましたが、いずれもその内容から見て、その時点の導入とすると不審とみられるものです。
これらの記事がこの『天武紀』に始めて現れるということ自体が、既に不審であると言えるでしょう。なぜならこれらは全て「隋・唐」に起源があるものであり、その「隋」や「唐」との関係は相当以前からあったものだからです。にも関わらず、これらの諸行事・制度等を、この「七世紀後半」という時点で取り入れることとなる「契機」あるいは「必然性」というものが全く見いだすことができません。
たとえば「天武」の時代に「唐」との関係が強化されたとか、「遣唐使」が送られたいうこともありません。「遣新羅使」はあるものの「遣唐使」は全く見られないのです。つまり非常に長い間「唐」とは「没交渉」となっていたことが窺えますが、にも関わらず「六七五年」という年次に集中的に「唐制」が導入されるという理由が全く判然としません。
そのことは「天武」という人物や彼の王権の「強さ」というものと重ねて考えることの困難さを示しています。
いわゆる「日本的中華思想」というものが彼の時代に始まるというような考えは、その「中華思想」というものが「唐」からの輸入品であると見られますから、彼と「唐」との関係の薄さによっていともたやすく否定されるうるものなのです。
つまり上に見るような各種の「唐制」の導入がここに書かれているような「六七五年」という年次のことなのかどうかが問われているといえるでしょう。
このように「天武紀」の一部には年次移動の可能性が考えられるわけですが、「新羅王」の死去に関する「文武紀」と「持統紀」の記事にもそれは言えそうです。