古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「三野王」について

2018年09月30日 | 古代史

『書紀』に「三野王」という存在が書かれています。この人物は「筑紫大宰」である「栗隈王」の子息として登場します。
以下「三野王」記事をピックアップしてみます。

「(六七二年)元年…
六月辛酉朔…
丙戌…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國授苻之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王承苻對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子『三野王』。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。」

(六八一年)十年
三月庚午朔癸酉葬阿倍夫人。
丙戌。天皇御于大極殿。以詔川嶋皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。『三野王。』大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連子首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大嶋。大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事。大嶋。子首親執筆以録焉。」

「(六八二年)十一年…
三月甲午朔。命『小紫三野王。』及宮内官大夫等。遣于新城令見其地形。仍將都矣。」

「(六八四年)十三年…
二月癸丑朔…
庚辰。遣淨廣肆廣瀬王。小錦中大伴連安麻呂及判官。録事。陰陽師。工匠等於畿内。令視占應都之地。是日。遣『三野王。』小錦下悉女臣筑羅等於信濃令看地形。將都是地歟。」

「(同年)閏四月壬午朔。…
壬辰。『三野王』等進信濃國之圖。」

「(六九四年)八年…
九月壬午朔。日有蝕之。…
癸卯。以『淨廣肆三野王』拜筑紫大宰率。」

 これ以降単体の「三野」を含む表記そのものが現れなくなります。それに対し「音」は同じである人物として「美濃」王がいます。彼は「壬申の乱」時点で「美濃国」の「王」として現れます。

「(六七二年)元年…
六月辛酉朔壬午…即日。到菟田吾城。大伴連馬來田。黄書造大伴。從吉野宮追至。於此時。屯田司舍人土師連馬手供從駕者食。過甘羅村。有獵者廿餘人。大伴朴本連大國爲獵者之首。則悉喚令從駕。亦徴『美濃王』。…」

 ここでは「美濃王」は「菟田」から「甘羅村」に至って「徴」されたとされますから、この周辺にその拠点がある人物とみられ、この「美濃王」とその進行方向にある「美濃」という領域との間には関連があるとみるのが相当です。

「(六七三年)二年…
十二月壬午朔…
戊戌。以小紫『美濃王』。小錦下紀臣訶多麻呂。拜造高市大寺司。今大官大寺是。時知事福林僧由老辭知事。然不聽焉。」

「(六七五年)四年…
夏四月甲戌朔…
癸未。遣小紫『美濃王』。小錦下佐伯連廣足祠風神于龍田立野。遣小錦中間人連大盖。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲。」

 これ以降「美濃王」は全く姿を現しません。
 ところでこの両者とは別に「弥努王」という人物が『続日本紀』に現れます。
 
「(七〇一年)大寳元年…
十一月…
丙子。始任造大幣司。以正五位下『弥努王』。從五位下引田朝臣爾閇爲長官。」

「(七〇八年)和銅元年…
三月…
丙午。以從四位上中臣朝臣意美麻呂爲神祇伯。右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣。大納言正二位藤原朝臣不比等爲右大臣。正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言。正四位上小野朝臣毛野。從四位上阿倍朝臣宿奈麻呂。從四位上中臣朝臣意美麻呂並爲中納言。從四位上巨勢朝臣麻呂爲左大弁。從四位下石川朝臣宮麻呂爲右大弁。從四位上下毛野朝臣古麻呂爲式部卿。從四位下『弥努王』爲治部卿」

 さらに「美弩王」という表記も現れますがこれも「弥努王」と同一人物と思われます。(ここで表記に使用されている「弩」は大型の弓を示し、戦争で使用する兵器ですから彼に軍事力があることを強く示唆する名前となっています)

「(七〇八年)和銅元年…
五月…
辛酉。從四位下『美弩王』卒。」

 また「美努王」という表記もあります。

「(天平)十八年(七四六年)春正月癸丑朔。…
己夘。正三位牟漏女王薨。贈從二位栗隈王之孫。從四位下『美努王』之女也。」

「天平寳字元年(七五六年)春正月庚戌朔。…
乙夘。前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨。遣從四位上紀朝臣飯麻呂。從五位下石川朝臣豊人等。監護葬事。所須官給。大臣贈從二位栗隈王之孫。從四位下『美努王』之子也。」

 この記事では「橘諸兄」について、「美努王」の子供であり「栗隈王」の孫であるとしていますから、「美努王」は「三野王」であることとなります。また「木簡」では「美濃」は「三野」と表記されるのが普通ですから、「美濃王」は「三野王」と同一人物という可能性は高いと思料します。上によれば「六八二年」と「六七三年」というような近接した時代に「美濃王」と「三野王」が「官位」も共に「小紫」という同じ存在として書かれており、これらのことから「美濃王」は「三野王」であり、「栗隈王」の二人の子供のうちの一人であると認めることができそうです。ただし「壬申の乱」の中に登場する「美濃王」が同一人物かはやや微妙です。それは「日付」です。この人物が登場する記事の日付は「丙戌」ですが、「壬申の乱」中の「三野王」記事の日付は判然としません。移動に要する時間を考えると「大海人」が移動して「美濃」に入ってから少し後なのではないかと思われ、「美濃王」もそれに先駆け移動して「筑紫」に行っていたと考えることは可能かもしれません。山陽道の交通に使用する「駅鈴」は筑紫(大宰府)で保有していたはずですからこれを「父王」から授けられたとすれば官道を使用しての高速移動も彼には可能であったはずです。

 また「栗隈王」は「大宰率」でしたが、「三野王」も同様に「大宰率」に任命されており、すでに「栗隈王」が「筑紫」にその権力基盤を持つ勢力であったと推定しましたが、そうであれば彼と「三野王」が親子であって、この時点でいわば「筑紫」の(全体ではないと思われるものの)「領有権」(支配権)を父から相続したということと考えれば同様に「大宰率」とされていることも不自然ではないでしょう。
 また彼は「小紫」という位階として書かれていますが、この「小紫」は元々上から数えて六番目でしたが、「大宰率」に任命されたという記事では「浄広肆」という位階が記されており、この位階も「従五位下」付近に相当しますからほぼ同等と思われるものであり、その意味でも連続性があります。


(この項の作成日 2017/08/24、最終更新 2017/10/14)旧ホームページ記事の転載


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