古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

瓦編年について

2018年08月31日 | 古代史

 いわゆる「瓦編年」では①「大宰府政庁に使用されている瓦(「老司Ⅱ式」と「鴻廬館式」)については「『藤原京式』瓦に後出する」とされます。②また「観世音寺創建瓦」である「老司Ⅰ式」は「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」に対して「十~十五年『早期』と見られる」と考えられているようであり、③更にこれらは「薬師寺創建瓦」に対しては「かなり後出する」とされているようです。しかもこれらは「同じ形式」に部類されるものであり、相互に深い関係があるとされています。
 つまり「薬師寺」-「藤原京」-「観世音寺」-「大宰府政庁」という時系列が従来想定されているわけであり、それぞれ「『書紀』との同定から」判断して「薬師寺」が「六八〇年頃」、「藤原宮」が「六九五年」ごろとされていますから、「観世音寺」は八世紀に入ってすぐの頃、大宰府はそれからやや遅れた「七一〇年代」という推定がされることとなるわけです。

 例えば森郁夫氏の想定によると(※1)「老司式軒平瓦は、偏行唐草文の特徴から本薬師寺式ではなく藤原宮式の系統に属す」と見て、「老司式の制作年代が本薬師寺に先行ないし並行することはありえ」ないとされ(藤原宮より本薬師寺が先に創建されているとみて)、「藤原宮造営時に偏行唐草文が採用された後に老司式が製作された」と結論づけています。
 この想定は言い換えると「本薬師寺」が最初にできた後、「老司式」と「藤原宮式」瓦が続けてできた事を示唆するものでもあります。
 しかし、「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」は「筑紫」を大地震が襲った時点以降、復旧と整備が行われた時点で「掘立柱」から「礎石造り」に変更となった際に使用された瓦とみられますが、この整備は数年後には完成したと考えられることから、「瓦」についても同様の時期(六八〇年代後半か)が想定できます。
 またこれ以前(推定では六七〇年頃)に「観世音寺」が創建され、その際「老司Ⅰ式」という「瓦」で屋根が葺かれる事となったと考えられますから、上の「森想定」はその意味で破綻しているといえるでしょう。
 ただし、観世音寺の瓦について言うと「老司一式」瓦には更に大きく二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。それは「創建」の年次と「進捗」を促す「元明」の詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。つまり「老司一式」により屋根が葺かれている「観世音寺」は「薬師寺」に続いて創建されたと考えられ、その後「藤原宮」と「太宰府政庁」に「藤原宮式」と「鴻臚館式」という異なるタイプの瓦が葺かれ、さらにその後停止していた「観世音寺」の造営が再度始められ「老司二式」の瓦が乗せられるということとなったという推移が想定できます。このことは「本薬師寺」の創建の年次の想定に関わってくるものです。

 「薬師寺」の創建年代に関しては、「藤原京」の「下層条坊」よりも「薬師寺」が建てられたのが遅れるのは確かとなっていますが、この事からすぐには「薬師寺」の「創建年代」については云云できません。それは「薬師寺」についても「移築」の可能性があると考えられるからです。
 そもそも「薬師寺」の創建に関わる事象として「皇后の病気」が挙げられていますが、正木氏の研究によっても「寺院」を創建するなどの契機となった「天皇」などの発病はそのまま死に至るケースばかりであり、「治癒」「回復」したという事例がありません。その意味では「薬師寺」の創建説話は不審といえるでしょう。

 また、通常「塔」は「卒塔婆」の表象とされ、「釈迦」の「墓」そのものを示すとされますから、「東西」二塔あるのはその意味からは「不自然」であることとなります。
 このような「卒塔婆」の表象といえる「塔」が二つあるというのは「釈迦」に擬されるほどの人物が二人いたと云うことの反映といえ、この二つの塔の存在は、「法隆寺」の光背銘から「釈迦」に擬されたと思われる「上宮法皇」とその「太子」ではないかと考えられます。それは各々「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」を意味するものと思われ、この二人に対する「畏敬」の念を表すとすると理解できるのではないでしょうか。
 そうであれば「本薬師寺」の創建は彼らの活動時期とそれほど違わないという推定が可能と思われ、「九州年号」の中の「命長」という年号の存在、そして、その年号が使用されている「善光寺文書」の「書状」の中で「延命」を願うかのような文章の存在などを考えると、「六四〇年代」にその「書状」の差出人である「厩戸勝鬘」が「利歌彌多仏利」に対する「延命」を祈願して創建されたと考えるべきものと思われます。そうであれば「本薬師寺」は「法隆寺」などと同様「移築」であったという可能性が高いと思料するものです。
 この推測は「六八〇年」に記されている「薬師寺」創建と「皇后不豫」記事は「六四六年」付近の事実であった可能性が高いものと思料します。確かにこの年次の創建であれば「大宰府」「藤原京」等の瓦に対して「かなり早期」の瓦という考えも当然のこととなります。

 また「藤原宮」の瓦については「藤原京下層条坊」との関連に注意すべきです。
 この「下層条坊」は「第一次藤原京」ともいうべきものであり、それは「日本国」の都として作られたものと思われますが、その時点では「瓦葺き」ではなかったと思われます。この時期の「日本」の伝統的「宮域」の建築様式はまだ「板葺き」(+掘立柱)であったものと思われ、またこの時点ではまだ「筑紫都城」(太宰府)も整備が進んでいなかったと思われますが、「六七八年」に筑紫を襲った「大地震」により「筑紫都城」は相当程度破壊されたのではないかと考えられ、整備が必要となったものと推量します。現実に遺跡を調査すると「断層」や「液状化」の跡が明瞭に残っており、建物への影響はかなり深刻なものがあったと考えられます。そのため「整備」が行われることとなった段階で「瓦葺き」建物へと形式が発展したものと思われますが、その段階の直前に「西日本大震災」とでも言うべき大地震(及び津波)が起き、地盤がそこそこ安定しておりまた津波にも強かったと思われる「難波京」を除き、壊滅的打撃を承けたものと考えられます。その後「第二次藤原京」の構築が行われた思われますが、ほぼ同時に「筑紫都城」についても整備されていたこととなります。そのことは共に「礎石建物」で「瓦葺き」という共通な形式を採用していることでも理解できます。ただし、「瓦」の形式は「藤原宮式」と「鴻臚館式」とで異なるわけですが、「本宮」と「別宮」とで「瓦」の種類を変えていたという可能性があると思われ、用途と重要度で別形式の瓦を使用するという配慮があったものと考えられるでしょう。

 この「第二次藤原京」とでも言うべき時期は(上に述べたように「筑紫宮殿」の再整備時期と同様)「六八〇年代後半」と思われます。これを裏付けるように従来の「瓦編年」で言うと「老司式」などは「藤原宮」の瓦より「遅れる」とされていましたが、近年「老司式」瓦をもっと遡らせる研究が増えてきたようです。(※2)この「藤原宮」瓦と「老司式」瓦では、「通説」では「藤原宮」から「大宰府政庁」へという流れでしか論じられていませんでしたが、最近の研究では「老司Ⅰ式」「Ⅱ式」とも「藤原宮」に先行するものという考え方も出てきており、少なくとも「藤原宮」と「大宰府政庁」がほぼ同時に造られたとする「研究」も現れてきています。(※3)上の推論はそれらの考え方とも整合すると言えるでしょう。

 またこの考え方は「瓦」の製造技法の変遷とも関係していると思われます。
 「瓦」は「粘土」を整形して焼成し作るわけですが、その「整形」の技法には「紐巻付け技法」と「板付け技法」があるとされ、端的に言って「単弁瓦」に対して「板付け技法」、「複弁瓦」に対して「紐巻付け技法」が適用されていると思われ、さらにそれは別の言い方をすると「南朝」形式と「北朝」形式とに分類できます。
 「北魏」の「洛陽城」遺跡から発見された「瓦」はその多くが「複弁蓮華文瓦」であり、また「粘土板紐巻付け技法」であるとされています。それに対し「単弁蓮華文瓦」は「百済」から伝来したものですが、本来は「南朝」の形式であり、「板付け技法」で作られていると考えられています。
 「列島」における「瓦」が「単弁瓦」が先行し「複弁瓦」が遅れて登場すると言うことと、「百済」からの仏教と寺院の建設が先行すること、さらに「遣隋使」が送られることにより「北朝」からの仏教と寺院建築及びそれに付随する瓦技法が伝来するというのは事実としての歴史的な流れであり、これに沿って考える必要があります。
 そう考えると、「複弁蓮華文瓦」の登場は即座に「紐付け技法」の登場となるわけですが、上に見たようにまず「本薬師寺」に「複弁蓮華紋瓦」が現れ、その後「観世音寺」「藤原宮」「太宰府政庁」と連なるというわけですが、これらの研究には「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」が脱落しています。
 「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」はその特徴が独特であり、他に類がないものであり、そのため「法隆寺式」と呼称されています。また「同笵瓦」(同じ鋳型から造られたもの)も確認されておらず、「同型瓦」しかなく、それは「西日本」に偏って分布しているのです。
 
※1 森郁夫「老司式軒瓦の系譜」『大宰府古文化論叢』下 吉川弘文館
※2 高倉洋彰「筑紫観世音寺史考」同上
※3 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/25)旧ホームページ記事を転記


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