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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「稲荷山古墳」の分析から

2018年03月18日 | 古代史

  埼玉県行田市に築造が五世紀後半と考えられる「稲荷山古墳」という前方後円墳があります。
 「一九六八年」の発掘で「金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)」が発見され、「一九七八年」になり銘文が「金象嵌」されていることが判明しました。
 以下にその銘文全文を示します。

(表)「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比跪其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」

(裏)「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」

 この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあるため、中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられています。(ただし未発掘です)
 この古墳と銘文についての「従来」の解釈は「『大彦』から代々続く家系であり、また「杖刀人」として「近畿天皇家」に仕えてきたものであって、彼は(彼らは)近畿王権に関係の深い大首長、またはその一族の有力者であった可能性が高い」というものです。

 しかし、これについては古田武彦氏より以下の疑問が表明されています。
 ①彼は「副郭」に「倍葬」されていた人物であり、鉄剣銘文でいう「獲加多支鹵大王」なる人物が近畿天皇家の王であるとすると、主郭の人物が「不在」になってしまうこと。
 ②彼が「主人」である「王」のすぐ側に「埋葬」されている、ということは非常に希なことであり、「臣下」として「栄誉」の「極致」であったと考えられ、それにふさわしい事績が「主郭」の人物とのあいだにあったことを示すものですが、そのことは「鉄剣」に書かれた内容についても「主郭」の人物との関係において考えるべきもと考えられること。(※『関東に大王あり』新泉社一九八七年)
 いずれも重要な指摘であり、これを前提に考察すべきものと思われます。

 この文章の中では「佐治天下」という「用語」が使用されていますが、この「歴史的」用語が使用されている、ということはそれなりの事実を背景としていると考えざるを得ません。これは中国の故事に発している用語であり、「殷(商)」の「紂王」を滅ぼした「武王」により「周王朝」が始まった後、彼は亡くなり、その跡を第二代「成王」が継いだのですが、彼はまだ幼少だったため、「武王」の遺言で、武王の弟である「周公」が統治行為を代わって行なったことを意味する用語であり、そのことを「佐治天下」と言う語で表現しているのです。
 つまり、この用語を使用しているからには、王に替わって政務を執るというような「最高権力者」の「補佐」や「代行」などの事実があったものと考えなくてはならず、この点については、多くの古代史学者などは「大言壮語」などのレッテルを貼って済ましていますが、論証という点では全く不足です。
 この「佐治天下」という用語使用が「誇大」ではないと考えられるのは、歴代の祖先の中にあって彼(乎獲居臣)だけが「臣」という称号を称していることがあります。
 よく見ると彼の前二代は「無称号」であり、「獲居」(ワケか)などの称号を持っているのは更にそれ以前の先祖です。「乎獲居臣」は「乎獲居」というように「ワケ」は既に名前の一部になっていて、「称号」ではなくなっており、「普通名詞」化しています。このような例は『書紀』や『古事記』でもあり、「武内宿禰」や「野見宿禰」のように「姓」(カバネ)が「名前」の一部になってしまっている例がありますが、これと同様であったと思われます。彼はこのように「姓」が「名称化」した時点で更に「臣」を称すると言うことになったものと考えられ、この事は「彼」(乎獲居臣)に至って何らかの優秀さを示したことにより「抜擢」されるような事があったものを推定させます。そうであれば「彼」が「佐治天下」にふさわしい活躍をしたと言う事を実際にあったということを示すものかもしれません。

 またこの「臣」は明らかに「音」表記となっています。つまり、表記として「訓」(万葉仮名)ではなく漢字(「音」)であると言う事はかなり重要ではないでしょうか。
 たとえば、先に出てきた「獲居」(ワケ)は「獲」の「ワ」は「訓」表記です(「居」を「ケ」は「音」か)、また「ワケ」自体中国には存在しないもの(制度)です。つまり「臣」は「中国流」であり、当時の先進的用語使用であると思われ、それは王権を支える勢力の間に「差異」ないしは「等級」を設けるための新制度が導入されていたという可能性を示唆するものです。それは「丈刀人」という用語にも現れていると思われます。

 この「杖刀人」という用語は国内ではこの「鉄剣」に書かれた(彫られた)ものが初出であり、これが何を意味するかの検討が不十分であり、それが不十分のまま「授刀人」と同義であると即断されているようです。「授刀人」は『書紀』に出て来ますが、いわば宮殿の親衛隊であり、門番のようなものです。時代も『続日本紀』によれば「元明天皇」の時代になって「初めて」設置されたとされ、これと無批判に同一視しているわけです。
 本来「杖刀」という単語は『三國志』に出てくるもので武将が剣(刀)を立てて直立する姿勢を示しており、武将としての「威儀」をしめす姿勢とされます。この場合「武将」と言っても「下っ端」ではなく、「将軍」のような高官であるのが「本意」であり、その意味でも「佐治天下」という用語との関連を示唆するものです。この「杖刀」という単語との関連を考えるのが正しい思惟進行ではないでしょうか。
 
 これら「臣」と「杖刀人」については「音」で表記されており「万葉仮名」では表記されていません。「臣」が「意彌」などという表記になっていないのは、可能性としては「読み」も「音」であったことを示すとも考えられます。つまり「臣」は「オミ」ではなく「シン」、「杖刀人」は「ジョウトウジン」と呼称したという可能性があると思われます。「万葉仮名」で表記されていない理由はそこにあるのではないでしょうか。そのことはこの時点付近以降「官職」に関しては「音読み」とすると云う決まりができていた可能性を示唆します。そうであれば『隋書俀国伝』で「官職」様のものとして「軍尼」という表記とも関連しているという可能性が考えられます。つまりこの「軍尼」については(これが「漢音」であると考えられること及び「昆布」(コンブ)のことを「軍布」とする表記が存在していることなどから)「コンジ」と発音するのではないかと考えられますが、これは一見しては「倭語」とは思えません。「ン」という発音は元々「倭語」にはなかったとされています。つまりこれは「漢語」の「音読み」ではないかと考えられ、想定可能なものとしては「根子」があると考えられます。「根子」は「天皇」の「和名」として何人かに出てきますが、通常は「ネコ」と発音し、「直系」を意味する用語(呼称)と考えられていますが、この『隋書俀国伝』時点付近では各「クニ」の長に当たる人物の「役職名」であったという可能性も考えられます。
 また別の考え方としては「軍郡」つまり「軍郡事」を略して「軍事」と称していたという可能性もあります。「倭の五王」の時代「南朝」から「軍郡事」を除されていたとすると倭国では「州」の軍事力のトップの位置にいるものについて「軍事」という呼称の職掌があったという可能性もあります。それを「北朝」たる「隋」では「南朝」との関係に気づかず「倭国」独自のもとして「軍尼」という「表音表記」としたのかもしれません。
 いずれにしても「音」で役職を表す慣習がこの頃作られたのではないかと思われます。


最終更新 2017/02/21(ホームページより転載)



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