古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「日本国」の成立(2)

2016年11月01日 | 古代史

 「倭国」と「日本国」の関係について検討しているわけですが、その内容から、「倭国」がその「首都」を移動したこと、移動した先が「旧小国」であった地域であること、移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと、現在の「日本国」はその「旧倭国」であるところの「日本国」が「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」された「後継」であること、「倭国」から「日本国」への「国号」の変更と、「倭国」の地を「旧小国」が併合する(つまり「権力」及び「大義名分」の移動)には「時間差」があること等々を意味していると考えられます。
 つまり、「倭国」がその都を遷し、「日本国」へ「国号」が変更された後(いかほどの時間、年数が経過したかは不明ですが)「旧小国」であるところの現「日本国」中枢により「併合」されたことになったものと考えられます。
 「併合」というような事態が発生するためには「血筋」が絶えるというような事が起きたものと見られ、そのため有力な諸国王の一つであった「近畿王権」に「大義名分」が移動するという事となったと見られます。
 
 それに関連して『日本書紀』という史書には(その前に存在したと考えられる『日本紀』も)、「日本」という名称(国号)が付されているのが注目されます。これらの史書はともに「歴代」の「中国」の史書の例に漏れず「前史」として書かれたものと思料されます。
 そもそも「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
 『漢書』は「後漢」の時代に書かれ、『魏志』は「晋」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれています。そうであれば、『日本書紀』や『日本紀』が書かれた理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。それは『続日本紀』において「大宝」という年号が「建元」されたと書かれていることからもわかります。
 「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」されており、「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して「ゼロ」から再スタートするために「改元」するものです。そして、それにも従わなければ「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下し「受命」させるものであり、この場合は「建元」となります。
 このようなことを考えると、「禅譲」はまだしも「天」の意志に沿っているともいえるものであり、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではありませんから、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
 たとえば『旧唐書』などに、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、『日本紀』という史書の国号として使用されている「日本」は「前王朝」のものであり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立したと見るべきこととなります。この場合、「新王朝」と「前王朝」の国号が同じなのはその統治の中心領域が同じだからだと思われます。
 
 この様な推論は「旧日本国であるところの倭国王権」の主体が元々「筑紫」にあり、「新日本国王権」の主体が「近畿」にあったという、いわゆる「九州王朝論」に根拠があることとなります。
 そして、「前王朝」の名前を「冠」せられた史書が『日本書紀』であり『日本紀』であった、ということは「總持(持統)朝」の時代の国号が「日本国」であった、という事にならざるを得ず、「国号」が変更されたのは「總持(持統)朝」の時代であったという『旧唐書』や『新唐書』からの解析と整合することとなります。(「總持」も「持統」も同義であり、「つなぎ役」という意味がありますから、この人物が緊急的対応として即位していることが示唆されます。)

(続く)

コメント    この記事についてブログを書く
« 「日本国」の成立(1) | トップ | 「日本国」の成立(3) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事