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「難波朝」の「軍制」について -「五十戸制」との関連において-

2024年03月17日 | 古代史
以下は会報に投稿したもの未採用となっているものです。(投稿日付は二〇一二年七月十六日)

「難波朝」の「軍制」について -「五十戸制」との関連において-

「要旨」
 「難波朝」期に「軍制」を含む制度改定が行なわれたものであり、後の「軍防令」の原型とも言えるものがこの時点で作られたものと思料されること。それは「行政制度」と連係したものと考えられ、「評制」と「五十戸制」は、「軍制」との関連で改定された制度と考えられること。

 『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。(注一)
 つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。
 これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五十戸」などの「五保制」と関係しているというわけです。
 すなわち、「戸」-「保」-「里」という「戸制」の体系と、「兵士」-「伍」-「隊」という軍の体系とが対応しているという考え方です。
 このことから「一戸一兵士」という「徴兵」の基準があったとされるわけですが、これに対しては「軍防令」の「軍組織」はもっぱら「唐制」によるものであり、それもかなり後代に取り入れたものであるのに対して、「戸制」の制度については「五十戸」制等が「七世紀後半」を示す年次を伴った「木簡」から確認される(注二)などの点においてかなり先行するとされ、「軍防令」と「戸制」の対応についてはその意味から疑問とする考えもあるようです。
 確かに「唐制」には「府兵制」という制度があり、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」を徴発し、それが五十人で「隊」を成し、それらは「折衝府」という「役所」に集められたとされています。そしてその集められた兵員数に応じランク付けされていたものです。
 「我が国」の「軍防令」についてはこの「唐制」を「模倣」したものであって、「戸制」との関連づけを認めないという考え(反論)もあるようです。(注三)
 しかし、「軍防令」が「唐制」によるものであり、『大宝令』以降に定められたものであるという考え方は、「六五〇年後半」から「六六〇年前半」という時期に、「百済」を巡る戦いに際して「倭国」から大量に「軍」を派遣していること、その時点では「軍制」が存在していると考えざるを得ないことと「矛盾」していると言えます。
 「軍制」等「軍事」(軍隊)に対する何の定めもなかったとすると、国外に「軍」を編成して派遣するなどのことが可能であるとは思われません。このことは「当然」それ以前から「軍制」があったと考える必要があることとなります。
 そこで注意すべきものは「評制」の全面展開と同時に「八十戸制」から「五十戸制」に変更されていると考えられる点です。
 『隋書俀国伝』で示されているように「倭国」では「六世紀の末」という段階でまだ「八十戸」という戸数を基礎とした「行政制度」が施行されていたものと見られます。

「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」『隋書たい国伝』

 ここでは、「伊尼翼」という「官職」様のものに「属する」として「八十戸」という戸数が示されています。この「伊尼翼」や「軍尼」というような「官職制度」は現在全く残っておらず、また「八十戸制」についてもこれが「どのような」制度のものなのか、「いつから」「いつまで」続いていたのかという重大な部分が欠落しているのが現状です。
 これについては明確な「国内資料」(「金石文」「木簡」)などがいまだ発見されず、「五十戸制」の始まりの時期と共に「八十戸制」の詳細は「不明」となっているわけですが、「五十戸制」の開始が「六世紀」の中盤まで遡上するとも考えられません。それはその始源が「隋」にあると考えられるからであり、「隋」と関係を持ち始めたのが「六世紀終わり」であるという倭国の外交の歴史から考えて、この「五十戸制」をその「遣隋使」時点付近に始原を考えて不自然はありません。
 またこの「戸制」について「改新の詔」の中に「仕丁」の徴発基準として「旧は三十戸」という表記があり、この事から、「五十戸制」以前は「三十戸制」であったと考える向きもあるようです。(注四)しかし、『隋書俀国伝』に示された「五九〇年付近」という段階での「八十戸制」を疑うことは困難であり(その根拠がない)、そう考えると「阿毎多利思北孤」の改革により「国県制」が施行された(注五)段階(六世紀末)で改定されたと考えるしかなくなるわけですが、この時の「阿毎多利思北孤」は制度改革の多くを「隋制」によっており、その「隋」に「三十戸制」というような「編戸」が存在していなかったと見られることから、この段階でそのような改定を行ったと見ることはできないと思われます。
 この「六世紀末」という段階で「五十戸制」が「施行」されたとすると、「評制」施行と同時であったと推測されます。その「評制」については「軍事」的要素が強いとされ、そのような認識は多くの論者の共通のものになっているようですが、そうであるなら、それと同時改定と思われる「五十戸制」についても同様の意義があるものと思料します。
 ところで「養老令」中の「軍防令」の規定によれば、「軍団」は千人単位(それを構成する「隊」は五十人単位)で構成するとされています。さらに、「将軍」の率いる「軍」の「兵員数」が「一万人以上」の場合には「副将軍」が二人配置されるように書かれていますが、五千人以上一万人以下では「副将軍」は一名に減員するものとされています。

「軍防令二十四 将帥出征条 凡将帥出征。兵満一万人以上将軍一人。副将軍二人。軍監二人。軍曹四人。録事四人。五千人以上。減副将軍軍監各一人。録事二人。三千人以上。減軍曹二人。各為一軍毎惣三軍大将軍一人。」

 ここでは以下の「百済を救う役」及び「白村江の戦い」という実例の中にこの「軍防令」を「仮に」適用して考えてみます。
 『書紀』の「斉明紀」の「百済を救う役」の記事中の「前将軍」の率いる軍に付いては「副将軍」と目される人間は一人だけであり(「小華下河邊百枝臣」)、それは「後将軍」の「大華下阿倍引田比邏夫臣」の副官として「大山上物部連熊」「大山上守君大石」の計二名が添えられているのと異なっています。これは先述した規定によって「前軍」の兵員数が「一万人」以下であり、「後軍」は「一万人以上」であるということを示すと考えられ、総員凡そ「二万人」ほどであったものと思料されます。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖」

 それに対し以下の例では「将軍」としては「阿曇連比羅夫」しか書かれていません。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 しかし、ここでは「阿曇連比羅夫」が「大将軍」と呼称されています。これについては同様に「軍防令」の中に、軍の構成が「三軍」以上の場合は一人が「大将軍」となると規定されており、それに準ずると、この時は実は「三軍」構成ではなかったかと推定され、この時の一軍あたりの兵員は(『書紀』には書かれていませんが)以下の例から考えて、各々「九千人」程度であったのではないかと考えられます。
 その後に派遣された軍の記事では、明確に「三軍構成」であることが記載されています。

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 この記事では各々の軍の「将軍」とされる「上毛野君稚子」「巨勢神前臣譯語」「阿倍引田臣比邏夫」の直後に書いてある「間人連大盖」「三輪君根麻呂」「大宅臣鎌柄」は「副将軍」であると考えられ、「副将軍」は「軍」の総兵員数が「五千人以上」「一万人未満」の場合は「一人」と決められているわけですが、ここではその「総数」として「二万七千人」という人数が書かれており、そのことから各軍は約九千人であったと推定されますが、この数字は「五千人以上一万人未満」という「枠」の中に正確に入っています。
 また「三軍構成」となっているわけですから、「大将軍」が一人任命されていたものと考えられ、「蝦夷」遠征の実績などから考えると「後将軍」である「阿倍引田臣比邏夫」がこの時の「大将軍」であったのではないかと推察されます。 
 以上「軍防令」を「百済を救う役」などに適用して考えてみたわけですが、ほぼ「齟齬」するところがなく、この「軍防令」でこの時点における「軍」の編成などがおよそ説明できてしまえそうです。このことは「軍防令」とほぼ「同内容」の「軍」に関する「定め」がこの段階で既に存在していたことを示すものと言えます。
 また、これら動員された「兵士」の徴発の際には、その基準となる「戸籍」の存在が必要であり、上に見た「評制」の全国展開とともに「五十戸制」に「改定」したという時点がもっとも「造籍」のタイミングとして適切であるように思われます。
 「岸俊男氏」の研究によれば、(注六)「大宝二年戸籍」による「女子」年齢別人口について調べてみると「十歳」ごとに人口が増加しているように見え、これは「十年ごと」の改籍の際に一括して追記された可能性があるとされています。
 その中の「生年」で見てみると女子の人口が多いとされるのは「六三一年」から始まっており、以降十年ごとにピークが来ていますが、この「六三一年」より以前はすでにほぼ全員死去していると考えられますから、戸籍になくて当然ともいえ、その意味で「六三一年」より以前に戸籍がなかったとはいえなくなります。また「六五一年」にもピークが確認されます。これはこの年に「造籍」が行われたことを示すと考えられ、この時の造籍が「軍制」の編成に利用されたものと推測することが可能です。(注七)そして、その時点以降至近の年次に「軍制」についての「定め」ができ、それに基づいて「軍」が編成され、「半島」に派遣されることとなったという流れが想定されます。
 これらのことは、「五十戸制」という「戸制」の制度と「軍制」とがやはり「関連している」と考えざるを得ないものです。
 「評」の戸数については、「常陸国風土記」に「評」の新設を上申した文章があり、その記載から「七百余戸」程度であったと考えられ、(注八)それは「隋書俀国伝」から推測される当時の「軍尼」の管轄範囲の戸数が「八百戸」程度になる事とも大きく異ならないと考えられます。
 その「評」の戸数が「七五〇-八〇〇」程度であることと、「唐」で設置されたという「折衝府」の平均的兵員数(八〇〇人)とがほぼ等しいのは偶然ではなく、「評」自体が「折衝府」的意味合いを持って設置されたのではないかという推測が可能です。
 また、この「軍制」では「正丁三人に一人」程度の割合で徴兵するとされていたようであり、国内的にはそれがそのまま行われたものかは明確ではありませんが、「大宝二年戸籍」の中の「三野国戸籍」では多くの「戸」において「正丁六人以上」の「戸」からも「兵士」は「一名」だけしか「徴発」されていないことが確認されることから、「唐制」をやや「緩和」して国内に適用したと考えられるものです。それは「持統紀」の記事からも読み取れます。
 「持統紀」に記された「点兵率」(正丁の中から兵士を徴発する割合)として考えられる以下の記事については、「正丁四人から一兵士」ということが書かれているとされ、この基準はそのまま『大宝令』にも受け継がれたものと考えられているようです。(注九)
 そして「軍防令」の「正丁三人から一兵士」という基準は「唐制」の模倣そのものであって、実質的には「最低基準」として機能したと考えられるとされています。
 
(参考)「持統三年(六八九年)潤八月辛亥朔庚申。詔諸國司曰。今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者毎於一國四分而點其一令習武事。」

 このように「正丁四人に一人」という基準が「難波朝」でも実施されたとみられますが、それは上で見たようにほぼ「一戸」から「一兵士」を徴発する事と「大差ない」ものであったと見られ、それは「評」の戸数とその「評」から徴発される「兵士数」がほぼ等しいことを推定させるものです。
 以上のことを想定すると前述した「百済」を巡る戦いへの派遣軍について「不審」とすべき事があると思われます。それは「白村江の戦い」への派遣の人数として「二万七千人」という数字が見えていることです。
 上で見たよう「三軍構成」で組織され、その各々が「九千人」程度であったと考えられるわけですが、何か数字が「半端」であると思うのは当方だけでしょうか。
 なぜ「三万人」ではないのか、なぜ一軍一万人で構成されなかったのか。そう考えた場合、「折衝府」たる「評」に集められた「兵員数」が「平均七五〇」名であったとすると、それを足していくと「一万人」にはなりにくいことが分かります。
 「軍」が「評」単位で編成されたことは「軍防令」(兵士簡点条)にも「兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。」という意味の規定がありますが、その「評」に集められた「人数」が「七五〇人」程度であったとすると「軍」の兵員数も「七五〇」の倍数になるという可能性が高いと思料され、「切り」のいいところ(千位のフルナンバー)になるのは「九千人」(七五〇×十二)であると推定されます。つまり、この「九千人」というのが「原・軍防令」とでもいうべきものの中に「定員数」の基準として存在していたものであり、そのため「三軍構成」の場合の「一軍」が「約九千人」なのではないでしょうか。
 つまり、「軍防令」では「軍団」は「千人単位」ですが、この「難波朝」時代の「原・軍防令」では「七五〇人」つまり「評」単位で「軍団」が形成されていたのではないかと推定されるものです。
 また、上で見たように「総数」で「七万四千人」という兵力を送って戦ったこととなると思われますが、「戸数」とほぼ比例して兵士を送り出したと仮定すると、「七万四千戸」から「兵士」を出したこととなり、「七五〇戸」が「評」の平均戸数と考えると「約一〇〇」の「評」から「兵士」を出したこととなります。
 「評」の数は元々「隋書俀国伝」にある「軍尼」の数とそう違わないと考えると「一二〇」あったわけであり、また同じく「隋書倭国伝」からは戸数としては「九万六千戸(八〇〇×一二〇)」という数字が想定できます。この事からかなり多くの評から「規定通り」に「兵士」が送り出されたものと推定可能です。(注十)
 また後の「防人」に関する史料によると「防人」として「徴発」されて「帰国」する人数は「十一国」の約「二千名」とされています。(注十一)その内訳を見るとたとえば「常陸」において「二六五人」とされています。この「常陸」の国は当時(七三八年)「十一」の「郡」から構成されていたと考えられ、この当時の「郡」の戸数は「評」時代よりは増加していると考えられますが、上で推定した「評制」下の「軍団」の「単位」が「七五〇人」であったと推定したことからの類推として、「軍防令」に示された「千人単位」の軍団というものが、当時の「郡」の「上限」の戸数を示すと考えられ、これは「郡」の戸数において以前の「評」の時代の「七五〇戸」程度から約「千戸」ほどに増えた事を意味すると考えると、(注十二)「計算上」では「防人」の徴発の割合は「四~五十戸」に対して「一名」の「防人」を出したものと計算され、「五十戸一防人制」つまりひとつの里(さと)から一名の「防人兵士」を徴発する制度とされていたらしいことが推定できます。
 先に見たように「改新の詔」では「仕丁」の徴発基準として「旧」の「三十戸」から「新」として「五十戸」に改められているわけですが、これにより明らかに「仕丁」の総人数は減少していることとなります。このような制度改定の背景として上にみた「軍制」施行による「兵士」の徴発との関係があったものと見られます。
 つまり、「仕丁」の人数の減少分は「防人」などの人員に振り向けられたものと考える事もできそうです。(注十三)
 以上考察したように「五十戸制」が「軍制」と関連していると考えられるわけであり、そのため「里」の戸数として「五十戸」を大幅に超えるような「里」編成は想定しなかったし、実際にも行なわれなかったと見られます。
 つまり「一隊」が「一里」に対応していると考えられるわけであり、「一里」に五十戸以上戸数があるとその分は「別の隊」に組み込まざるを得なくなって、その結果他の「隊」の編成に影響を与える可能性が出て来かねないからです。
 「一里八十戸制」時代は「軍制」の規定が「未整備」であったと見られ、その結果「八十」をかなり上下する里もあったものと見られます。(つまり八十という数字は「平均」に近いものか)
 そのような場合「仕丁」の徴発基準を「八十戸から二人」というように「固定的」に考えると、実際に徴発される「仕丁」の数は「里」ごとに「不均衡」というより「不公平」が出る可能性も考えられます。
 そうならないようにするには「八十戸以下」の場合はどうするか「八十戸を超えたら」どうするかを決めておく必要があるわけであり、もっとも合理的なものは「三十戸」から一人と決めることだったのではないでしょうか。
 こうすると九十戸ある場合は「三人」出せば良いし、「六十戸」から「九十戸」の間は二人、もし「六十戸」以下ならば一人というように「柔軟」な対応(徴発)が可能となると思われます。

(注)
一.義江明子「編戸制の意義 -軍事力編成との関わりにおいて-」「史学雑誌」一九七二年及び吉田孝「公地公民について」「続日本古代史論集」所収一九七二年、さらに直木孝次郎「軍団の兵数と配備の範囲について」「明日香奈良時代の研究」所収一九七五年等によります。
二.「石上遺跡」から出土した「木簡」(以下)により「乙丑年」(六六五年)という段階で「五十戸制」が施行されていたことが明らかになっています。
「石神遺跡出土木簡 」
「(表)乙丑年十二月三野国ム下評」
「(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
          口人田部児安」
三.永利洋介「編戸制の軍事的性格について -吉田・義江両説の検討-」「史学」第五十七巻一九八七年
四.関和彦「風土記と古代社会」塙書房一九八四年
五.拙論「国県制と六十六国分国」(上・下)古田史学会報一〇八号・一〇九号二〇一二年
六.岸俊男「十二支と古代人名-籍帳記載年齢考-」及び「造籍と大化改新詔」「日本古代籍帳の研究」所収 塙書房
七.「六三一年」が最初のピークを示すということはその十年前の「六二一年」にも造籍されているという可能性が強いと考えられます。しかし、その年に生まれた方々は「大宝二年」という段階では既に「八十歳」になられるわけであり、人口に占める割合が非常に少なく、ピーク等が確認できないものです。
八.「常陸国風土記」「行方郡」の条
「行方郡の東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請総領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」とあります。
九.この記事については「三十四年遡上」の対象ではないと思料されます。それはこれが「三十四年遡上」の対象であったとすると、実際の年次は「六五五年」のこととなりますが、「大宝二年戸籍」の中の女子人口のピークがこの「六五五年」という年次にはなく、この年次で造籍されたかどうかは「疑問」と考えられるからです。
十.「兵士」を徴発した「戸数」として全体(九万六千戸)に二万戸ほど足りないように考えられますが、そのことについては、それが「東国」(あづま)の地域の「兵士」であったのではないかと思料され、彼等が派遣されていない可能性があると思料します。理由としては「東国」からは「防人」を出しており、「正規兵員」としては「対象外」であったという可能性もあります。また、言葉の問題などで他の諸国の部隊と統一した訓練などが困難であったと言う事も考えられます。
十一.岸俊男「防人考 -東国と西国」日本古代政治史研究」一九六六年所収 塙書房、それによれば「駿河国正税帳」などからの解析によれば東国に帰還する防人は総計千八十三人とされており、その「国別」内訳は「伊豆国」二十二人、「甲斐国」三十九人、「相模国」二三〇人、「安房国」二十三人、「上総国」二二三人、「下総国」二七〇人、「常陸国」二六五人とされています。
十二.「令義解」によれば「郡は千戸を過ごすを得ず。若五十戸以上余る者。此郡に入れる隷。」とあり、当時「郡」の戸数の上限が「千戸」であったことが知れます。
十三.「改新の詔」の中に書かれた「而毎五十戸一人以一人充厮。」という規定は「五十戸」から一人なのか二人なのか微妙な表現ですが、『養老令』の「賦役令」を見ると明確に「凡て仕丁は、五十戸ごとに二人とし、一人を以て厮丁に充つ。」とされており、「改新の詔」時点でも「五十戸から二人」徴発されるものであったことは間違いないものと推定されます。
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