古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

前方後円墳の築造停止と薄葬令

2024年03月16日 | 古代史
以下は以前会報に投稿したものですが「未採用」となっているものです。
(投稿日付は二〇一二年十一月八日。)

「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」
  
「要旨」
「前方後円墳」は「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階でその築造が停止されているが、これは「停止」に関する「詔」が出されたためと考えられ、『孝徳紀』の「薄葬令」が、その内容分析から、「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。以上について述べるものです。

(Ⅰ)前方後円墳の築造停止について
 「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。
 この「前方後円墳」の「築造停止」という現象については色々研究がなされ、意見もあるようですが、「仏教」との関連が考えられるのはもちろんです。何らかの「仏教」的動きと関連しているとは考えられていますが、それが「一斉」に「停止」されるという現象を正確に説明したものはまだ見ないようです。
 このように「一斉」に「前方後円墳」の築造が停止されることについては、拙稿(註一)でも論じたようにこの段階で列島に「強い権力者」が登場したことを意味すると思われ、「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させます。また、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、そのような「詔」の類が「二回」出されたことを意味するとも思われます。
 そのように二回に分かれる原因としては、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなかったと考えられることと、「東国」の「行政組織」が「未熟」であったことがその理由として挙げられます。
 この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由がやや不明ですが、「発信源」がより「西方」にあったと考えると「時間差」はある意味必然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われますが、その場合発信源として最も考えられるのは「筑紫」であり、それが「倭国」の本国であったとしたとき、近隣の「諸国」である「西日本」と「遠距離」にある「東国」など「諸国」への「統治力」の「差」がここに現れたとして不自然ではありません。
 この時点では「東国」に対する「統治機構」の整備が「不十分」で「未発達」であったと推察され、それが「東国」における「前方後円墳」の停止が遅れる理由と思われます。
 しかし、出されたはずの「詔」に類するものが『書紀』の該当年次付近では見あたりません。わずかにそれに「近い」と思えるものとして、「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔があります。

「(推古)二年(五九四年)春二月丙寅朔。詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎。即是謂寺焉。」

 この「詔」は、六世紀末付近に各地に多くの寺院が建築される「根拠」となった「詔」であると考えられています。従来この事と「前方後円墳」の築造停止には「関連」があると考えられていました。つまり、「前方後円墳」で行われていた(と考えられる)「祭祀」がこの「詔」の制約を受けたと言うわけです。ここで行なわれていた「祭祀」は「当初」(「竪穴式石室」の段階)「円頂部」で行なわれ、後には(「横穴式石室」へ変遷して以降)「方」と「円」の「つなぎ目」付近で行なわれたと見られますが、これは「倭国中央」と「諸国」の王との間の「統治―被統治関係」を表す非常に重要なものであったものであり、上の「詔」を承ける形で書かれている「諸臣連等各爲君親之恩。」という言葉に象徴されるように、その「祭祀」は「君」や「親」に対する「敬意」の表現であると同時に、「統治―被統治」の関係を確認する「服属儀礼」の意味合いが強いものであったと考えられています。ですから、「寺院」を造営する、ということは、そのようなものを今後は「仏教形式」で行うように、という指示をも意味すると思われ、このことが「前方後円墳」の築造に関わる動きに非常に重大な影響を与えたことは間違いないとは考えられるものの、他方この「詔」が「前方後円墳」の「築造」を「停止」するように、という「直接的」なものではなかったことも重要です。なぜならば、「前方後円墳」は結局は「墓」であるのに対して、「寺」は「墓」ではなかったからです。
かなり後代まで「寺院」では「墓」も造られず、「葬儀」も行われなかったものであり、「寺」と「墓」とは当時は直接はつながらない存在であったものです。つまり、この「詔」では「墓」について何か述べているわけではないと考えられ、直接的に「古墳」築造停止にはつながらないと考えられますが、であればそのような「墳墓造営」に関する指示や「詔」が別に出ていた、と考えざるを得ないものです。
 しかし、資料上ではそのようなものが見あたりません。「何」を根拠として「前方後円墳」の「築造」が「一斉」に停止されることとなったのかが従来不明であったのです。

(Ⅱ)「薄葬令」について
 『書紀』によれば「薄葬令」というものが「孝徳朝」期に出されています。
(以下「薄葬令」を示します。)

「(六四六年)大化二年…三月…甲申。詔曰。朕聞。西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也。欲人之不得見也。迺者我民貧絶。專由營墓。爰陳其制尊卑使別。夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。大仁。小仁之墓者。其内長九九尺。高濶各四尺。不封使平。役一百人。一日使訖。大禮以下小智以上之墓者。皆准大仁。役五十人。一日使訖。凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」

 この「詔」の中ではその墓域の大きさについて規定しており、それによれば「王以上」つまり高位の官人あるいは皇族でさえも「墓域」の外寸として「方九尋」とされています。
ここで「大きさ」の単位として使用している「尋」は、「両手を広げた」長さと言われ、主に「海」などの深さ(垂直方向)の単位として知られています。しかしここでは「墓」の外寸として使用されており、明らかに「水平方向」の長さを表すものとして使用されています。
 『説文』では「一尋」は「八尺」であるとされています。列島では「殷代」以降「尺」の単位長として「18cm」ほどが長期間に亘り使用されてきたと推定されるわけですが、『説文』が説くように「一尋」を「八尺」とした場合「一尋」は「1.44m」ほどとなります。これから計算すると、「薄葬令」に規定する「王以上」の墳墓の「外域」の大きさとして書かれた「九尋」は「13m」ほどにしかなりません。この数字は「終末期古墳」の大きさとはまったく整合していないのです。
この「薄葬令」は『書紀』では「七世紀半ば」の「孝徳紀」に現れるものですが、従来からこの「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されていました。この「薄葬令」を出したとされる「孝徳」の陵墓とされる「大阪磯長陵」(円墳です)でさえも、その直径が三十五メートルほどあり、規定には合致していないと考えられています。そのため、この時点で出されたものではないという可能性が指摘されていました。より遅い時期である『持統紀』付近に出されたものではないかと考える向きもあったものです。(註二)その場合「持統」の「墓」が「薄葬令」に適合しているということを捉えて、『持統紀』に出されたものと考えるわけですが、しかし、この「薄葬令」には『書紀』によれば「六〇三年」から「六四七年」まで使われたとされる「冠位」が書かれています。

「王以上之墓者…」「上臣之墓者…」「下臣之墓者…」「大仁。小仁之墓者…」「大禮以下小智以上之墓者…」

 このように「薄葬令」の中では「六四七年」までしか使用されなかった冠位が使用されていることから、これを捉えて「薄葬令」が「持統朝」に出されたとは言えない、とする考え方もあり、それが正しければ、「孝徳紀」以前に出されたものとしか考えられないこととなります。(もちろんこれを「八世紀以降」の「潤色」という考え方もあるとは思われますが)
 これについては、「前方後円墳」の築造停止という現象と関係しているとか考えることもできそうですが、その場合「七世紀半ば」というタイミングで出されたものではないのではないかという疑いが発生します。

(Ⅲ)「薄葬令」と前方後円墳の関係
 この「薄葬令」の中身を正視すると、「前方後円墳」の築造停止に直接つながるものであると判断できます。
 この「詔」の中では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。(註三)『岩波古典文学大系』の「注」でも「方形」と考えているようです。もっとも、この「方~」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども含み得るものです。
 ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていました。

「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」

 この「方」で外寸を表す表現法は「円形」も含め、この「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションが考えられる表現であることは確かでしょう。ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、『倭人伝』の卑弥呼の墓の形容にあるように「径~」という表現がされていないことからも明らかです。この表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないことから、「円墳」を主として想定したものではないことは明白です。
 しかしいずれにせよ、明らかに「前方後円墳」についての規定ではないことも分かります。この「薄葬令」の規定に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなるからです。なぜなら「前方後円墳」は「縦横」のサイズが異なり、「方」で表現するのにはなじまない形だからです。このことから考えて、「墳墓」の「形と大きさ」を規定した「薄葬令」が出されたことと、「前方後円墳」が築造されなくなるという現象の間には「深い関係」があることとなります。

(Ⅳ)「殉死」の禁止規定について
 さらに、この「薄葬令」が「七世紀半ば」に出されたとすると「矛盾」があると考えられるのが、後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定です。

「凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」

 そもそも、「殉葬」は『倭人伝』にもあるように「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
 このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かです。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには、「殉葬」がまだ行われていると云う現実が必要であるわけであり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は、「詔」の内容とは整合しないものです。

(Ⅳ)「薄葬令」の真の時期
 「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」の発布の間に関係があるとみた訳ですが、このように推定した場合、実際に「詔」が出されたのは「前方後円墳」の「終焉」の二つの時期のうち、当然先行する西日本において築造が停止される「六世紀後半」に出されたとみるべきです。また「薄葬令」上の「殉葬」についての禁止規定から考えても、「六世紀後半」が最も想定すべき時期でしょう。
 『隋書俀国伝』を見ると「貴人については三年間」と書かれており、「薄葬令」以前の状況であるのは明白です。「薄葬令」では「殯」自体が禁止されていますから整合しません。さらに「古墳造営」に必要な労働力である「役(えだち)」についても「五十人」の定数倍の人数が書かれており、これはこの時点で「一里五十戸制」である事が推定できますが、同じく『隋書俀国伝』では「一里八十戸制」と理解されることが書かれており、食い違っています。これらの「五十戸制」を示す記述や「殯の期間」に関する記述はその起源が「隋」にあり、倭国が「遣隋使」を派遣した時期以降であることが強く推定できますから、逆にいうと『隋書俀国伝』の記述はかなり早期に「倭国」と『隋』の間で使者のやり取りが行われたことを示すものでもあります。それは「隋代七部楽」の成立事情から考えても「開皇年間の初め」であり、「五九〇年以前」であることが推定できますが、そこで「隋帝」から「訓令」を受けたことが強く作用した結果「薄葬令」を出すこととなったものと思われ、「前方後円墳」とそこで行われていた「祭祀」を取りやめることで「時代」の位相を転換したものと考えられます。

(Ⅴ)「薄葬令」の起源 
 この「薄葬令」は中国に前例があり、「儀」の曹操が「厚葬」を批判する言葉を残しており、さらに彼の子息である「魏」の「文帝」(曹丕)が明確に「薄葬令」とでもいうべきものを出しています。
「大化」の「薄葬令」では以下のように書かれています。

「…西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。…」

ここでいう「西土之君」というのが「魏」の「文帝」とみられるわけです。
その彼が出した「詔」が以下のものです。

「冬十月甲子,表首陽山東為壽陵,作終制曰:「禮,國君即位為椑,椑音扶歷反。存不忘亡也。昔堯葬穀林,通樹之,禹葬會稽,農不易畝,故葬於山林,則合乎山林。封樹之制,非上古也,吾無取焉。壽陵因山為體,無為封樹,無立寢殿,造園邑,通神道。夫葬也者,藏也,欲人之不得見也。骨無痛痒之知,冢非棲神之宅,禮不墓祭,欲存亡之不黷也,『為棺槨足以朽骨,衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地,欲使易代之後不知其處。無施葦炭,無藏金銀銅鐵,一以瓦器,合古塗車、芻靈之義。棺但漆際會三過,飯含無以珠玉,無施珠襦玉匣,諸愚俗所為也。』季孫以璵璠斂,孔子歷級而救之,譬之暴骸中原。」

 彼の父である「曹操」も「厚葬」を批判していたわけですが、「文帝」においても「漢代」以降傾向として存在していた「薄葬」へ明確に舵を切ったとされます。倭国でもこれを踏まえた上で出したものと考えられるわけですが、その背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようです。しかし最も大きな理由は「前方後円墳」に付随の「祭祀」を禁止するためというものではなかったでしょうか。というのは、この「前方後円墳」で行なわれていた祭祀の内容については「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられており、このようなものを「忌避」しようとしたと考えられます。
 「王」の交代というものが「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することとなってしまいます。なぜならこの時「阿毎多利思北孤」は「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されます。またそのことは「冠位」の制定と関係しているといえます。
 『書紀』によれば「冠位」の制定は「六〇四年」とされています。しかし『隋書俀国伝』には「遣隋使」からの情報として「冠位制定」が記されています。
(以下『隋書俀国伝』の一節)

「開皇二十年(六〇〇年)…上令所司訪其風俗。使者言…頭亦無冠 但垂髮於兩耳上。 至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾。…」

 これによれば、「遣隋使」が述べた「風俗」の中に「冠位制」について記されており、そこでは「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠位制」が施行されたことを意味していると考えられます。(ただし「官位」と「冠」との関係がこの時できたということを示すものと思われ、「官位」そのものはそれ以前からあったと思われますが)
 それはすなわち「諸国」の王達も含めた「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を構築しようとしていたと考えられるものです。
 そうであれば「王」の交代というものに「倭国王」が介在しない形の「祭祀」が存在するのは問題であったかも知れず、これを避けようとするのは当然かも知れません。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
 そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」の重要な要素であり、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止されたことに付随する現象であると考えられるものです。
 さらに重要な事情として考えられるのは、それらの古典的祭祀が「隋」の皇帝から「道理がない」として拒否された「兄弟統治」そのものであったことが実は重要であったと思われます。
 「阿毎多利思歩孤」はその初めての使者を「隋」に送った際、倭国の統治形態として以下のようなことを「使者」に語らせており、それを「隋」の皇帝(高祖)から「太無義理」と一蹴されています。

「開皇二十年 倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言 倭王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟。高祖曰此太無義理。於是訓令改之。」

 「隋」皇帝は倭国で行われていた旧態依然の祭祀とそれに基づく統治について異を唱えたものであり、それらを廃止するとともに「仏教」を統治の中心に据えるよう強く指導したものと思われます。それに対し「倭国王権」はその「訓令」を重大に受け取り、それに対応しようとした考えられるのです。
 「前方後円墳」で行われていた祭祀もこれに類するものであり、仏教的観念からは遠く離れたものであって、それを排除することで「隋」皇帝の「訓令」にかなうものと、「阿毎多利思北孤」が考えたものであって、そのような「古典的祭祀」が彼が統一王権を確立するのに障害となると考えられたため、それを「廃止」するという方向で施策が実施されたものと思われるわけです。
 また「隋」からの使者が再び訪れた際に「仏教」を中心としたた体制に確かに変わったと「使者」にアピールできるようにしておく必要もあったものと思われるわけです。
 以上のことから「開皇年間の初め」に派遣された「遣隋使」が「隋」皇帝から受けた「訓令」を基礎として「薄葬令」が出されたと考えて「事実」をよく説明できるものと思われ、これは実際に「薄葬令」が出された時期から『書紀』に書かれた年代である「七世紀半ば」まで「移動されている」と考えるよりなく、その場合年数として「約六十年」の記事移動の可能性が高いと考えられるものです。

(Ⅵ)「薄葬令」と放棄された巨大建造物
 また、『古田史学会報』七十四号(二〇〇六年六月六日)で「竹村順広」氏が「放棄石造物と九州王朝」という題で触れられた「益田岩船」(奈良県橿原市白橿町)や「石宝殿」(兵庫県高砂市竜山)などの「巨大建造物」は、明らかに「工事途中」の「古墳」の一部であり(外形はどのようなものになる予定であったかは不明ですが)、これは「竹村説」とは異なり、「六世紀終末」という時点で「薄葬令」が出されたことにより、その工事が途中で「放棄」されたものであると見る事ができるでしょう。
 この「古墳」が(竹村氏も引用するように)『播磨国風土記』の中で「聖徳王御世、弓削大連所造之石也。」とされているように「聖徳王」つまり「阿毎多利思北孤」(ないしはその太子「利歌彌多仏利」)の時代のこととされ、また「物部守屋」と関連して語られていることなどからも、この「石造物」が「六世紀末」のものであることを強く示唆しています。

(補足)
 『書紀』によると「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものであり、「改新の詔」の「直前」に出された「東国国司詔」などと「一連」「一体」になっているものですから、上の考察により、「改新の詔」を含む全体がもっと早期に出されたものと考える余地が出てきますが、その詳細については別途詳述したいと思います。

(注)
一.拙論 『「国県制」と「六十六国分国」(上)(下)』(『古田史学会報』一〇八号及び一〇九号)
二.中村幸雄氏などが「持統」の墓が「薄葬」の規定に則っていると指摘しています。(『新「大化改新」論争の提唱 ― 日本書紀の造作について』中村幸雄論集所収)
三.「外域」とは「墓域」全体を指すものか「墳墓」自体の外寸なのかやや意見が分かれるようですが、上では「墳墓」の外寸として受け取って理解しています。但しいずれでも論旨には変更ありません。
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