古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「那須直韋提の碑文」について(三)

2017年09月10日 | 古代史

 この碑文では冒頭に「永昌元年」と書かれていますが、これは「武則天」時代の「唐」の年号です。なぜ北関東の石碑に「唐」の年号なのでしょう。

 「永昌元年」は西暦で言うと「六八九年」であり、「持統天皇称制三年」に当たります。(また、この年代は「九州年号」によれば「朱鳥」年間に当たります。しかしここでは「朱鳥」年号は使用されていません)
 ここで「唐」の年号が使用されている理由として考えられるものは、「評督」に任命する、という「朝廷」からの文書に「永昌元年四月」という日付表示が書かれていたのではないかというものです。
 「群馬県」にある「多胡の碑」にも「弁官符」という書き出しになっていますが、これは「符」(朝廷からの文書)の丸写しではないか、と考えられ、この「那須直碑」も同様ではないかと考えられるわけです。そもそも自らの「権威」の根源としての「公式文書」であればそれを「引用」した形で「碑文」を構成したとして当然とも思えます。
 しかし、一般にはこの碑文は、この「那須」という地域に「唐」の事情に詳しい人物かあるいは「新羅」に関係ある人物がこの頃(「六八九年」から「七〇〇年の間」)存在していて、彼からの情報により、「唐」の年号が「六八九年」に「永昌」に改元されたことを受けて書き込んだとされていますが、正直言って良く理解できるとは言えません。
 「唐」でいつ改元したとか言う知識と「飛鳥浄御原宮」から「評督」を受号することの間に何らかの関係がある、とは思えません。明らかに「那須」地域の事情と言うより、「朝廷」と「唐」の間に何らかの関係があったとしか考えられないからです。そこに「年号」が書かれている、と言う事はその「年号」の朝廷とそこに書かれた事象との間に関係があることを示すものであり、「永昌」という年号と「飛鳥浄御原宮」との間に何らかのつながりがあることを示唆するものであって、それ以外ではないと思われます。

 ところで、「碑文」で見ると「評督」に任命されたのは「六八九年」の「四月」です。しかし、「永昌」に改元されたのは「六八九年」の「正月」のことです。  「評督」に任命する、という文書に「永昌元年」と書かれていた、とすれば「この間」に「改元」の情報が「倭国」に伝わらなければなりません。そのようなことが「短期間」に可能であったのでしょうか。  もし「不可能」であったと考えると、この「唐」の年号が「石碑」に書かれているのは「石碑」造立事の「造作」であると言う事になるでしょう。

 そもそもこの「石碑」が建てられたのはいつ頃のことでしょうか。それはこの「石碑」が「倒されていた」と言うことからある程度判断できます。そのようなことがされたのはこの「石碑」に書かれたあることが「存在が許容されないこと」だったからであると思われます。それは「評督」という表記と「永昌元年」という年号の二つであったと思われます。  これらはいずれも「新日本国王権」にとって見れば「あってはならないこと」であり、消去したい事実であったと思われます。「評督」は「前王朝」の制度でしたし、「永昌」という年号は「唐」の軍門に下っていたことの証明となってしまいますから、共に隠蔽せざるを得なかったと言うことではないでしょうか。そう考えると、この石碑が倒されたのは「七〇一年」以降その至近の時期であると考えられますから、「石碑」に「永昌元年」という年次が書かれたのはそれ以前のことであることとなります。  しかもこの碑文中には「六月童子」という表現があり、これが「六ヶ月の喪に服す子供」の意という解釈もあり、そうであれば「喪の明けない」内に立てられたということが考えられ、それ以降「追記」したものと考えるということとなるでしょう。つまり、「意提」の死去した年の内にこの碑は建てられ、碑文も書かれたとなるわけですが、その時点で「永昌」という「唐」の年号を「追刻した」こととなります。  「永昌元年」という年号はこの時点での造作であり、「評督」任命の文書には「唐」の年号は「書かれてはいなかった」と言うこととなりますが、その場合本来の「任命」文書には、何と書いてあったのでしょうか。  これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

「凡公文応記年者。皆用年号。 釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。そうであればこの碑文も同様に「干支」だけが書かれていたと考えるべきこととなり、それを「七〇〇年」の「石碑」造立時点で「唐」の年号を書き加えたこととなるわけです。しかしそのような想定が不審(というより「荒唐無稽」というべきです)なのはいうまでもないでしょう。「前王朝」の影を「隠蔽」するのに「唐」の年号を書き加えるという意味が全く不明です。  また「碑面」には「改削」の跡らしきものも全く見いだせません。つまり、このような「隠蔽」工作をしたという想定は成り立たないと考えられる事となります。  そもそも「評督」という称号をもらったことを「誇るべき経歴」として「韋提」の家族はこの石碑を建立したはずであるのに、その授与した「王朝」の名前は出されていても「唐」の年号を書き加えるのは、全くの「矛盾」と思われます。

 以上の論理進行から推測して、やはり「永昌元年」という年号は「碑」が立てられた段階以前から「韋提」に関することとして記録・記憶されていたものであり、彼に対して「評督」が任命される段階において「倭国中央」からもたらされた「公文書」に書かれてあったものとみられ、「永昌」改元した「六八九年正月」から「任命」月の「四月」までの間に「唐」から「倭国」に「情報」が伝達され、「任命文書」という公文書に書かれることとなったものと考えるしかないこととなります。  「歳次庚子年」とあるように「碑」を建てた時点の日付は通常の「干支」によっていることからも、「永昌」という年号の存在は「韋提」が「称号」を受領し任命されたということと深く関係していることの現れと思われるわけであり、任命文書にその年号が記載されていたことを窺わせるものです。

 「年号」を使用すべしというルールがなかったはずであるのに「唐」の年号だけは書かれたこととなりますが、それは「唐」への畏怖(というより恐怖)によるものではなかったでしょうか。唐により封国となっていたら当然「唐」の年号を使用すべきですから、この「飛鳥浄御原朝廷」の帰属意識が注目されます。  この「永昌」年号を使用することとなった事情とその改元情報はどのようにして「倭国」にもたらされたものでしょうか。(続く)

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3 コメント

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重要な証言 (服部静尚)
2019-06-03 14:57:22
古田史学の会関西例会で、谷本氏より「なぜ木簡に九州年号が記されていないのか」「金石文でも記載の無いものとあるものがあるのはなぜか?」という問題提起をいただき、調べている中で貴殿のこのブログに至りました。この令集解の一文を発見されたこと、そしてこれが「庚午の年には年号(もちろん九州年号)があったということを前提としたもの」と認識されたこと、慧眼を賞賛します。もちろん「穴」からの引用ですので、9世紀初頭の認識でしょうが、彼らの認識が「670年には年号があった」「律令もあったが儀制令のこの一文は無かった」と言うことでしょうか。
これは一元史観学者の認識を塗り替える重要な証言と言えます。
年号の有無に関して (James Mac)
2019-06-30 03:02:09
服部様

いつも御覧頂きありがとうございます。
また記事につき過分のお言葉恐縮です。

ご返事遅れ大変申し訳ありません。(体調不良の他諸々の事情によります)

 今回の件については、「答え」が重要なのは当然ですが、実際には前段の「質問」に意味があったと思います。つまり実際には「年号」が使用されていないのであれば「なぜ年号を使用せずに干支を使用しているのか」という疑問を背後に潜ませた「質問」そのものが発せられることはなかっただろうと思われるわけです。
 この質問がなされたことから即座に「年号」はあるものの公的文書にそれを使用するべしというルールが存在していなかったと推定出来ると考えたわけです。

ちなみにこの記事は(既にクローズしていますが)、旧ホームページに「2013年11月」の「最終更新」としてこの『令集解』に対する解釈を記事としてあげています。 また「会報」への投稿としてまとめたものを『「具注暦木簡」と「永昌元年」年号の関係』というタイトルで「2014年5月」に送付しています。
 
 ところでこの記事は「那須評督韋提碑」に「永昌元年」という年号が刻されていることに対して検討したものであり、当方の結論として「朝廷」からの「任命文書」に「永昌元年」という年号が書かれていたと解したわけですが、それに対してはいかがでしょうか。
 なぜここに「唐」の年号が書かれているのか服部様はどう考えられますか。何かの機会にご返事を頂ければと思います。

 今後ともよろしくお願いいたします。
永昌元年碑刻問題 (服部静尚)
2019-07-03 13:01:15
「朝廷」からの「任命文書」に「永昌元年」という年号が書かれていたと解された阿部説に同意しています。則天武后が政権の中枢にいた時期は、中国史上特異に、頻繁に改元が行われた時代です。永昌は689年正月から10月までの1年足らずの年号で、しかも元年なので当たり前ですが、中国側で改元を決めてから4ヶ月以内に日本側に伝わっていなければ使えません。つまり頻繁に交流があったと言えます。ところが、日本書紀には天智4年以降、遣唐使派遣の記録がない。天武紀には郭務悰など(おそらく筑紫に駐留した軍)の記事があるものの、それ以外に唐の影は見えない。日本国(大和朝廷)の旧唐書デビューは14年後の長安2年であって、近畿天皇家がこの碑ができた当時に、武則天年号を使っていたとは極めて考えにくい。もちろん関東勢が直接に中国の影響下にあったとも考えにくい。そうすると白村江の敗戦後唐の羈縻統治下にあった九州王朝の関わりで「永昌」が使われたと考えています。

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