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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『懐風藻』の成立時期について(3)

2016年11月01日 | 古代史

 『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、この時の使者は「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できないこととなるでしょう。
 「蝦夷」の同伴についてはその意味が、「日本国天皇」が夷蛮の地域から朝貢を受ける程高貴で且つ強い権力を持ち広い範囲を統治できる存在であることを強調するイメージ戦略という見方が多くあるようですが、この「六六八年」という時期は、その直前ともいえる時期に「唐・新羅」の連合軍に敗れたばかりであり、「倭国」としてはその軍事的能力など「国力」の実態を既に「唐」に知られてしまっているといえるものですから、そのような中で「蝦夷」を引率して引見したとしても、「虚勢」としか見られないと思われます。つまりそれは非常に考えにくいものといえるものです。そのような行為はもっと以前であった場合に有効なものと思われ、そうであれば『新唐書』に書かれた記事は「高宗」の時代より後ではなく、もっと前であったという可能性も考えるべきこととなるでしょう。つまり『仏祖統紀』のいうように「太宗」の時代のことであったということもあり得ると思われるわけです。

 また「六五九年」の「伊吉博徳」を含む遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」に「洛陽」は「煬帝」の時に「東都」とされて以来この時点で改めて「東都」とされたものであり、格段に扱いが高くなったわけで、しきりに「高宗」と「武后」は「東都」である「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明ですがそう考えなければ説明が付かないでしょう。)

「(顕慶)三年春正月戊子,太尉趙國公無忌等脩新禮成,凡一百三十卷,二百五十九篇,詔頒於天下。」(『旧唐書』帝紀/高宗(上)より)

 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。

「…若夫情尚分流,?防之仁是棄;澆訛異術,洙泗之風斯泯。是以漢文罷再朞之喪,中興為一郊之祭,隨時之義,不其然歟!而西京元鼎之辰,中興永平之日,疏璧流而延冠帶,?儒門而引諸生,兩京之盛,於斯為美。及山魚登俎,澤豕?經,禮樂恆委,浮華相尚,而郊?之制,綱紀或存。魏氏光宅,憲章斯美。王肅、高堂隆之徒,博通前載,三千條之禮,十七篇之學,各以舊文增損當世,豈所謂致君於堯舜之道焉。世屬雕牆,時逢秕政,周因之典,務多違俗,而遺編殘冊猶有可觀者也。景初元年,營洛陽南委粟山以為圓丘,祀之日以始祖帝舜配,房俎生魚,陶樽玄酒,非?紳為之綱紀,其孰能與於此者哉!」(『晉書』卷十九/志第九/禮上)

 ここでは「魏晋朝」において「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀ったとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたことを示しています。これを視野に入れて「顕慶礼」では「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使の十九年前の別の「朔旦冬至」の際に「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものです。(続く)


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