以上見てきた見地については『新唐書日本伝』にある「王代紀」部分の記述とも矛盾しないものです。
『新唐書』日本伝には「倭国」以来の各代の倭国王の「諡号」が累々と書き連ねてある部分があります。この部分は「北宋」の時代に「日本」から訪れた「東大寺」の僧「凋然」が持参した「王代紀」を参考にしているとされています。そこでは、各代の天皇名の合間に「隋」や「唐」側で保有していた「倭国」との交渉の記録が挟み込まれるように書かれています。
この「挿入」される位置は、常識的に考えるとその「交渉」が行われた時期の「倭国王」の記事中であると考えられます。(「編年体」の史書類は基本的にそのような体裁で書かれているはずですから。)
しかし、記事を見るとその位置が『書紀』に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。
「…次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。『次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。』次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。『其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦 婦人衣純色裙,長腰襦,結髮于後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布為衣,左右佩銀?,長八寸,以多少明貴賤。』
太宗貞觀五年,遣使者入朝,帝矜其遠,詔有司毋拘歳貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。…」(新唐書日本伝)
先ずここでは「用明」の時代が「阿毎多利思北孤」の時代であるというような主張が見られます。そして彼の時代が「開皇末」であり、その時点で「初めて」中国と「通じた」というわけです。この主張は『隋書』を下敷きにしたものと見られますが、『書紀』とは大きく齟齬します。そして、その後「崇峻」へと続くわけですから、その食い違いは大きく「二十年近く」の年時差となると思われます。「隋の開皇末」云々とは『隋書たい国伝』の「開皇二十年」(六〇〇年)記事を指しているのは間違いないと思われるのに対して、『書紀』では「崇峻」はその十年近く前の「五九二年」に死去してしまっているわけですから、その違いはかなり大きいものです。(しかも『書紀』ではあくまでも「推古十六年」(六〇七年)の遣隋使が最初のこととして書かれています。)
これについてはこの「隋開皇末,始與中國通」という記事が依拠した『隋書』にすでに「誤謬」があると考えれば理解できるものです。つまり、『隋書』の年紀に疑いがあるということは既に述べたわけですが、それに基づけば本来の「遣隋使」派遣は「隋初」のことと考えられ、「二十年」程度の遡上を措定する必要が出てくることとなります。そうであれば、「崇峻」の前(「用命」の時代とされますから「五八六年」と「五八七年」のいずれか)に「中国と通じる」と書かれているのは一概に「間違い」とはいえないこととなるでしょう。
これについては後に「日蓮」により書かれた『報恩抄』にもほぼ同様の記事が見られます。
「…又用明天皇の御宇に 聖徳太子仏法をよみはじめ 、和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、…」(「第十一章 日本伝教大師の弘通」より)
これによれば「妹子」が隋に派遣されたのは「用明」の時であると理解しているように受け取られ、これは上の『新唐書』の記事と一致しています。
この『新唐書』の記事は「凋然」がもたらした「王代紀」が元となっているとされるわけですが、それは「日蓮」が目にしたものと同じようなものなのかも知れません。いずれにしても、当時の「日本側」の常識としては「用明」の時代に「遣隋使」が派遣されたというものであり、これは「正史」としての『書紀』に書かれたこととは全く食い違うものです。このようなことが「正史」という存在に関わらず、認識されていたと言うことはかなり重要であると思われます。
従来『隋書』記事と『推古紀』記事は同一内容であり、また同年次のこととして書かれているから同一の事象であり、史実であるとする立場がほとんどでした。そのような議論は『書紀』と『隋書』が全く独立に書かれたとした場合有効なものであったわけですが、「雄略天皇」の遺詔が「隋の文帝」の遺詔の(悪く言えば)剽窃であるというのは既に有名なことであり、また「元明天皇」の「平壌遷都詔」もまた「隋」の「文帝」の「大興城遷都詔」を「換骨奪胎」したというべき内容となっていることもまた明らかとなっています。
『書紀』はその完成が『続日本紀』の中で「七二〇年」のこととして書かれていますが、当然その編纂はそれ以前に行われていたものです。また「平壌京遷都詔」が出されたのは『続日本紀』に拠れば「和銅元年二月十五日条」として書かれており、これは西暦で言うと「七〇八年」とされます。つまり「書紀編纂」がまさに行われつつあったその時期に「遷都詔」が出されているわけであり、これは『隋書』についての知識が「王権内」で共有化されていたことを示すものと思われます。当然「遷都詔」を書いた人たちと「雄略」の遺詔部分を書いた人たちが同一であったという可能性ももちろんあると思われます。そうであれば、このような『隋書』からの「剽窃」という行為が、『書紀』一般の「潤色」として「他の部分」にも及んでいたという可能性を念頭に置くべきであることは論を待たないものであり、「裴世清」についての記事も『隋書』を横に見て「それに合わせて書いた」と言うこともあり得べきこととなります。その場合、その潤色等の内容として『隋書』に合わせて年次を移動した、という可能性も考えられるわけであり、上に縷々行った論証はそのことを示すものでもあります。
(※)大正新脩大藏經 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」
『新唐書』日本伝には「倭国」以来の各代の倭国王の「諡号」が累々と書き連ねてある部分があります。この部分は「北宋」の時代に「日本」から訪れた「東大寺」の僧「凋然」が持参した「王代紀」を参考にしているとされています。そこでは、各代の天皇名の合間に「隋」や「唐」側で保有していた「倭国」との交渉の記録が挟み込まれるように書かれています。
この「挿入」される位置は、常識的に考えるとその「交渉」が行われた時期の「倭国王」の記事中であると考えられます。(「編年体」の史書類は基本的にそのような体裁で書かれているはずですから。)
しかし、記事を見るとその位置が『書紀』に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。
「…次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。『次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。』次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。『其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦 婦人衣純色裙,長腰襦,結髮于後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布為衣,左右佩銀?,長八寸,以多少明貴賤。』
太宗貞觀五年,遣使者入朝,帝矜其遠,詔有司毋拘歳貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。…」(新唐書日本伝)
先ずここでは「用明」の時代が「阿毎多利思北孤」の時代であるというような主張が見られます。そして彼の時代が「開皇末」であり、その時点で「初めて」中国と「通じた」というわけです。この主張は『隋書』を下敷きにしたものと見られますが、『書紀』とは大きく齟齬します。そして、その後「崇峻」へと続くわけですから、その食い違いは大きく「二十年近く」の年時差となると思われます。「隋の開皇末」云々とは『隋書たい国伝』の「開皇二十年」(六〇〇年)記事を指しているのは間違いないと思われるのに対して、『書紀』では「崇峻」はその十年近く前の「五九二年」に死去してしまっているわけですから、その違いはかなり大きいものです。(しかも『書紀』ではあくまでも「推古十六年」(六〇七年)の遣隋使が最初のこととして書かれています。)
これについてはこの「隋開皇末,始與中國通」という記事が依拠した『隋書』にすでに「誤謬」があると考えれば理解できるものです。つまり、『隋書』の年紀に疑いがあるということは既に述べたわけですが、それに基づけば本来の「遣隋使」派遣は「隋初」のことと考えられ、「二十年」程度の遡上を措定する必要が出てくることとなります。そうであれば、「崇峻」の前(「用命」の時代とされますから「五八六年」と「五八七年」のいずれか)に「中国と通じる」と書かれているのは一概に「間違い」とはいえないこととなるでしょう。
これについては後に「日蓮」により書かれた『報恩抄』にもほぼ同様の記事が見られます。
「…又用明天皇の御宇に 聖徳太子仏法をよみはじめ 、和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、…」(「第十一章 日本伝教大師の弘通」より)
これによれば「妹子」が隋に派遣されたのは「用明」の時であると理解しているように受け取られ、これは上の『新唐書』の記事と一致しています。
この『新唐書』の記事は「凋然」がもたらした「王代紀」が元となっているとされるわけですが、それは「日蓮」が目にしたものと同じようなものなのかも知れません。いずれにしても、当時の「日本側」の常識としては「用明」の時代に「遣隋使」が派遣されたというものであり、これは「正史」としての『書紀』に書かれたこととは全く食い違うものです。このようなことが「正史」という存在に関わらず、認識されていたと言うことはかなり重要であると思われます。
従来『隋書』記事と『推古紀』記事は同一内容であり、また同年次のこととして書かれているから同一の事象であり、史実であるとする立場がほとんどでした。そのような議論は『書紀』と『隋書』が全く独立に書かれたとした場合有効なものであったわけですが、「雄略天皇」の遺詔が「隋の文帝」の遺詔の(悪く言えば)剽窃であるというのは既に有名なことであり、また「元明天皇」の「平壌遷都詔」もまた「隋」の「文帝」の「大興城遷都詔」を「換骨奪胎」したというべき内容となっていることもまた明らかとなっています。
『書紀』はその完成が『続日本紀』の中で「七二〇年」のこととして書かれていますが、当然その編纂はそれ以前に行われていたものです。また「平壌京遷都詔」が出されたのは『続日本紀』に拠れば「和銅元年二月十五日条」として書かれており、これは西暦で言うと「七〇八年」とされます。つまり「書紀編纂」がまさに行われつつあったその時期に「遷都詔」が出されているわけであり、これは『隋書』についての知識が「王権内」で共有化されていたことを示すものと思われます。当然「遷都詔」を書いた人たちと「雄略」の遺詔部分を書いた人たちが同一であったという可能性ももちろんあると思われます。そうであれば、このような『隋書』からの「剽窃」という行為が、『書紀』一般の「潤色」として「他の部分」にも及んでいたという可能性を念頭に置くべきであることは論を待たないものであり、「裴世清」についての記事も『隋書』を横に見て「それに合わせて書いた」と言うこともあり得べきこととなります。その場合、その潤色等の内容として『隋書』に合わせて年次を移動した、という可能性も考えられるわけであり、上に縷々行った論証はそのことを示すものでもあります。
(※)大正新脩大藏經 法苑珠林百卷/卷四十/舍利篇第三十七/慶舍利感應表「…高麗百濟新羅三國使者將還。各請一舍利於本國起塔供養。詔並許之。…」