古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『善隣国宝記』の記事から

2018年04月01日 | 古代史

 『善隣国宝記』という書物があります。この『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって書かれたもので、歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。ここでは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「菅原在良」が答えた内容について簡単に検討します。

『善隣国宝記』
「鳥羽ノ院ノ元永元年
宋國附商客孫俊明鄭清等書曰、矧爾東夷之長、實惟日本之邦、人崇謙遜之風、地富珍奇之産、襄修方貢、皈順明時、隔濶彌年、久缺来王之義、遭逢凞且、宣敢事大之誠、云云、此ノ書叶旧舊例否、命諸家勘之、四月廿七日、従四位ノ上、行式部ノ大輔、菅原ノ在良、勘隋唐以来献本朝書ノ例曰、推古天皇十六年隋ノ煬帝遣文林郎裴世清使於倭國、書曰、皇帝問倭皇、云云、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務悰等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務悰等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、又大唐ノ皇帝勅日本國使衛尉寺少卿大分等、書曰、皇帝敬到書於日本國王、承暦二年、宋人孫吉所献之牒曰、賜日本國大宰府ノ令藤原ノ経平、元豊三年、宋人孫忠所献牒曰、大宋國ノ明州牒日本國」
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)

 これを見て気がつくのは、宋(北宋)の皇帝からの「国書」には、以前の「順明時」つまり「南朝劉宋」の「明帝」と「順帝」の時以降往来がなかったとしており、「北朝」系の「隋」「唐」を無視しているのはある意味当然として同じ南朝系の「斉」(南斉)「梁」の時代の将軍号授与を無視しているように見えるのが注目されます。これは「武」が「順帝」に遣使したのが「倭の五王」としての「遣使」の最後であることを示唆しています。
 実際に「武」の「遣使」の後「倭国」は「中国側」の資料に「朝貢記事」が見あたらなくなります。『南斉書』において「安東大将軍」から「鎮東大将軍」へと進号しているものの「朝貢記事」はありません。同じく南朝の「梁」の時代に「征東将軍」へというやや変則的な進号をしている(「百済」など夷蛮の国に対して行われている「特進」が見られない)ケースも同様です。
 つまり「武」の時代に「半島」における権益や「列島支配」の権威の根拠としての「称号」などを「南朝劉宋(順帝)」が認めなかったことで「倭国」からの朝貢が停止されたとみられるわけですが、そのような推測の正当性を「北宋」の皇帝が証明していることとなります。
 
 また「鳥羽院」の指示に対応して検討した「菅原在良」が「隋唐」以降の例だけを挙げて検討しており、このことから「南朝」に遣使していた時代の「倭の五王」が差し出しまた受け取っていたであろう国書がすでにアーカイブとして残っていなかったことが窺えます。「現王権」は明らかに「北朝系」ですから、そのような「前王権」(しかも遙か以前)のしかも外交に関わるものは何も残っていなかったとして不思議はないかもしれません。
 しかし「隋唐」以降と言いながら「唐」の「太宗」が派遣した「高表仁」が持参したはずの「国書」については全く言及されておらず、「不宣朝命而還」という『旧唐書』の記録が正確であることを示しているようです。
 このような場合、「国書」を「宣」する、つまり読み上げた後に渡す手はずであったものと思われますがそもそも「不宣」ということですから、「国書」を渡さずに帰国したこととなります。当然どのような文章であったか知るよしもないということでしょう。
 またこの事は『書紀』の記述に強い疑いが生ずることも避けられなくなることを示します。少なくとも『高表仁』の来倭の際の応対は『書紀』に書かれたようなものではなかったことが明らかとなったといえます。

 更に「天智四年」の「劉徳高」の来訪に伴う「国書」についても言及がありません。この前年の「郭務悰」の来倭と持参した「書」については「百済鎮将」である「劉仁願」が発した使者であり、また「書」も同様に「唐皇帝」からのものではないとして「拒否」したことが同じ『善隣国宝記』に引用された『海外国記』に書かれており、これが「菅原在良」が言及していない理由であるなら首肯できるものです。しかし「劉徳高」の場合は『書紀』の記事では「唐国」が「遣わした」という表記があり、このことから彼が「国書」を持参したと見るのは当然であり、これについて書かれていないのは一見不審といえるでしょう。しかしこの時点ではまだ「倭国王」は「捕囚」となっていたと思われますから、宛先も「倭国王」とはできなかったはずですので(当然違う職掌の名称、たとえば「代理」というような)、倭国王権としては(これを継承した「新日本王権」としても)これを「恥辱」として、その「国書」を「門外不出」としていたという可能性が高いと思われ、そのため「例」として挙げられていないものと推量します。

 そして最も重要と思われるのが「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の存在です。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。『書紀』では「天智十年」に「郭務悰」が「国書」を提出したとは書かれていません。但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に何らかの記事の脱落があるように思います。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事がありません。
 「菅原在良」がこの時の国書の文面について述べている限りは確かに国書がもたらされ、それを「天智」が受け取ったことを示しますから、そのような重要な記事が書かれなかったはずがないと思われ、それがないということは脱落あるいは隠蔽が行われたことを示します。
 ただし「菅原在良」が何を参考としてそのように述べているかは不明ですが、『書紀』にないのですからそれ以外の史料を見たものと思われるものの、前王権に直接関わる外交史料ですから、その後の「新日本王権」はその内容などを直接「国書」そのものから得られなかった可能性が高いと推定します。たとえば「斉明紀」の「遣唐使」関連記事を「伊吉博徳」の記録から引用したり、参照したりしているように、当の本人が関わっていた場合で。新王権の中にその人物が存命している場合は、その本人から聴取したりして記事が書けるものと思われます。その意味では「郭務悰」等に「天智」の死を伝えた「阿曇連稻敷」であれば可能性があります。
 記事では彼に「国書」を提出したように受け取られ(下記参照)、彼が「新日本王権」で「伊吉博徳」のように活躍していれば彼がその情報の提供者たり得たはずですが、彼に留まらず「阿曇氏」で新日本王権の高位にいた人物が見あたりません。(『公卿補任』には「阿曇氏」の一人として記載がありません)そのため「旧王権」がすでに成立させていた『日本紀』を参照したと見るのが相当と思われることとなります。

「(六七二年)元年春三月壬辰朔己酉。遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務悰等。於是。郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。
壬子。郭務悰等再拜進書凾與信物。」(「天武元年紀」)

 「天智十年」の「国書」が「天智」に渡っていたとするとそれは当然「筑紫」においてであることとなります。「天武元年」の際には「筑紫」に「郭務悰等」は滞在しており「大津の館」に「安置」とされていますから、それ以前に彼らがここから「近江」まで移動していたという可能性は低いと思われます。
 やはり「郭務悰等」の来倭には「天智」自身が「筑紫」に出向く必要があったものであり、それは「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における敗北という状況に原因があるものであり、「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずですし、さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずであり、「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、翌年3月のことである「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
 この「国書」は急遽作ったものというより「天智」が退位するか、死を選ぶことを想定し次代の「倭国王」に対して「唐皇帝」の意志を伝えるためのものとして準備されていたと見るのが相当ではないでしょうか。 
 「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす文面ではなかったかと思われるわけです。「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同内容であったという可能性も考えられるでしょう。
 これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。この「天智十年」という年次は「天智」が「近江朝廷」を開き「天皇」を自称し始めたという年次の翌年ですから、それと整合しているようにも見えます。そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志であったということと思われる訳です。

 ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されておらず「国書」そのものは受け取らなかった可能性がありますが、それがどのような事情によるものだったかが問題です。
 「天智」退位の後は「捕囚」となっていた「倭国王」と思われる「筑紫君薩夜麻」が復帰する予定であったと見るわけですが、すぐにそれが実現できたかどうかが問題です。やはり「唐」の意向を含んだ王権の成立を拒否する人達も数多くいたことは間違いないものと思われ、それが「壬申の乱」という内乱として現実のものとなったということではないでしょうか。
 表函がが開けられ、国書を受け取るという儀典の中に「唐」との関係がより従属的になることは避けられず、それでは国内に対する指導力を発揮できないという問題があることを「薩夜麻」がよく知っていたとすると容易に「表函」は開けられなかったであろう事が推測され、そのような葛藤の中に「薩夜麻」の苦悩も見え隠れするように思われます。

コメント