古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「十七条憲法」と「不改常典」(二)

2016年04月23日 | 古代史

 「不改常典」と「十七条憲法」との類似について考えているわけですが、この「不改常典」については「皇位継承」の際のものと言うよりは「公法」としての意識からのものという解釈もされており、その場合「公」意識が高揚される「七世紀初め」の時代、特にそれが「十七条憲法」において顕著であることと整合するとも言えます。
 「十七条憲法」の中では「公」という用語がしきりに使用され、「公私」の区別をつけることが重要視されています。そこでは「公務」「公事」「公賦」など、「公」の観念が突出しています。また、『推古紀』の「天皇記及び國記」記事においても「公民」という用語が現れるようにこの時期「国家」(公)と「公民」つまり全ての「民」は「公民」であり、国家に属するという観念が生まれていたことが窺えます。

「推古天皇二十八年(六二〇年)是歳条」「皇太子。嶋大臣共議之録天皇記及國記。臣連伴造國造百八十部并公民等本記。」

 このように『推古紀』段階においては「公」と「法」の両立と一体性が主張されたものと考えられますが、このような記事群は「公」つまり「国家」の権限を重大に考え、間接的権力者の存在を許容しない姿勢の表れと見られますが、そのような「直接統治」という統治体制と「公」の観念は連動していると思われますが、その「公」の絶対性を保証しているのが「法」であり、その極致である「最高法規」が「十七条憲法」であるということとなるでしょう。
 このように「六世紀終わり」から「七世紀初め」という時点において、「公」と「国家」と「法」という「三位一体」の概念が創出されたものと見られますが、「不改常典」の使用例において「法に随う」という表現によって間接的に「法」が「天皇」の上にあるという観念が現れているのは注目すべきであり、そのことと「十七条憲法」において「公」の観念が打ち出されていることの間には深い関係があると考えます。(これらの「法」に対する考え方も「隋」からもたらされた最新の知識であったと思われるわけです。)

 この「不改常典」と「十七条憲法」の「類似」と言うことに関しては「大山誠一氏」がその論(※)の中で言及されており、そこでは以下のような表現がされています。

「…十七条憲法と不改常典が、同じ理念のもとに作成されたと考えることを、もはや躊躇する必要はないであろう。…」

 このように「不改常典」と「十七条憲法」の中心的思想が共通している事が指摘されています。ただし、彼の場合「聖徳太子架空説」を唱えており、「八世紀」に入ってから「藤原不比等」により「不改常典」も「十七条憲法」も「捏造」されたという立場で語られていますからその点「注意」が必要です。
 彼の場合「聖徳太子」は「八世紀」の「書紀編纂者」の「捏造」というスタンスであるわけであり、これは「近畿王権」中に適当な人物が該当しなかったことの裏返しであるわけですから、その流れで「十七条憲法」も捏造としているわけです。ただし、「不改常典」と「十七条憲法」はほぼ同時期に「発生」したとされ、それらに「共通点」があるとするわけですが、その点については注目すべきでしょう。
 彼によればこの「両者」はどちらも「王権確立」に深く寄与するために(「藤原不比等」により)書かれたものであり、それが「明示」されるのにもっともふさわしい場は、その「権力継承」の場である「即位」の儀式の時であったというのです。
 この「思惟進行」は特にその「結論部分」が参考になると思われますが、「十七条憲法」が「本来」「権力交代」の場面で出されたものではないかという推測は、『推古紀』に書かれた「十七条憲法」が出されたのが「冠位制定」直後であったことからも窺えます。つまり本来「冠位制定」は新王即位に伴う機構改定の一部であったと考えられますから、この時点で「新倭国王」が即位していたことが窺えるものであり、それに併せて布告されたものではなかったでしょうか。
 しかし、大山氏の考えとは裏腹に「聖徳太子」と「十七条憲法」は「実在」であったと思われ、それは決して「捏造」されたものではなかったと考えられます。そして、それは『隋書たい国伝』に「倭国王」として登場する「阿毎多利思北孤」(及びその太子「利歌彌多仏利」)がそれに該当する人物であったと見られることとなるでしょう。つまり、「大山説」はその点で誤解があり、また限界があると言えます。「実体」は「七世紀初め」の方にこそあると推察されるものです。

 さらに、上に見た「弘仁格式」とほぼ同文、同構造の文章が『続日本紀』に出てきます。

『続紀』養老三年(七一九)十月十七日
「開闢巳来、法令尚矣。君臣定位、運有所属。?于中古、雖由行、未彰綱目。降至近江之世、弛張悉備。迄於藤原之朝 頗有増損。由行無改。以爲恒法。由是稽遠祖之正典。考列代之皇綱。承纂洪緒。此皇太子也。」

(再掲「弘仁格式」当該部分)
「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」

 この『続日本紀』の文章からは「近江朝」以前には「法令」がなかった、あるいは「書かれたもの」としては存在していなかったと云うことを示していると思われますが、このことが確かならば「弘仁格式」と齟齬が発生します。
 「弘仁格式」からは明らかに『推古紀』において(書かれたものとして)「憲法」が制定されたことを示し、それがこの国における「法制」の初めであったというのですから、食い違いは明確です。
 この食い違いは「近江之世」という表記が示す真の時代がもっと早い時期を示すことを示唆するものであり、実際には「推古朝」として私たちが認識している六世紀末から七世紀初めであったことを強く推定させるものです。

 また『懐風藻』によれば「淡海大津宮御宇天皇」の業績として「定五禮,興百度,憲章法則」とされいます。

「…逮乎聖太子,設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章。及至淡海先帝之受命也,恢開帝業,弘闡皇猷,道格乾坤,功光宇宙。既而以為,調風化俗,莫尚於文,潤光身,孰先於學。爰則建庠序,?茂才,定五禮,興百度,憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。於是三階平煥,四海殷昌。旒無為,巖廊多暇。旋招文學之士,時開置醴之遊。當此之際,宸瀚垂文,賢臣獻頌。雕章麗筆,非唯百篇。…」(『懐風藻』序)

 つまりここに書かれた「憲章法則」というものが「十七条憲法」を指すものではないかと考えられるわけであり、ここで「十七条憲法」というものと「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とがつながっていることとなりますが、この事は「不改常典」が「十七条憲法」であるという考え方に根拠がないとは言えないこととなるものです。

 さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。

「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」

 この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「孝正制度。創立章程。」とされ、これは「官位制」(の「改正」)と「憲法」の制定を言うと考えるべきでしょう。

 『懐風藻』の中では「聖徳太子」の業績として「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていないようです。
 この「十七条憲法」については、『書紀』では「冠位」制定と「朝礼」制定の間に挟まるように書かれていますから、あたかも同一人物が制定したように受け取られることを想定して書かれていると思われます。しかし、実際には上に見るように「近江(淡海)帝」に関わるものであったものと考えられるものです。
 この『懐風藻』の記事が『書紀』にいう「天智」ではないと考えられるのはその治世期間についての形容からも言えると思われます。そこでは「三階平煥、四海殷昌。旒無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが『書紀』にいう「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものです。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。
 つまりこの「淡海帝」を『書紀』の「天智」のこととするにはその「表現」が該当せず、かえって「六世紀末」の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」に整合する内容であると思われるのです。

(※)大山誠一『「聖徳太子」研究の再検討(上)』及び『「聖徳太子」の再検討(下)』弘前大学國史研究 一九九六年(弘前大学学術リポジトリ)

(続く)

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