「推古紀」には「呉国」に派遣されたという「百済僧」達が「肥後」に流れ着いたという記事があります。
「(推古)十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子条」「筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」
この記事について「古田氏」は、「初唐」の時期の「江南付近」に起きていた混乱の中で「百済」の使者が入国できなかったとしているわけであり、さらにその混乱の中に「呉」という国が当時存在していた事を挙げて、これが「唐」の高祖からの国書である傍証としています。
「江南」地方が当時混乱の中にあったことは確かであり、また「呉国」も存在していましたが、この「呉国」は「武徳二年」に「李子通」という人物が「皇帝」を名のり「国号」を「呉」と号したとされているものです。しかし、これは僅か二年間の短命政権であったものであり、しかも彼はそれまでの「陳王朝」やそれ以前の王朝の関係者でもなく「皇帝」を名乗るどのような「大義名分」もない人物であり、いわば(悪く言うと)「山賊」のような人物が興した国であるわけですから、この「呉」が短命に終わるのも道理であるわけです。
この「呉」がそのような「泡沫」的な国であったとした場合、そこに「百済王」が遣使しようとするものかということを考えると、傍証とするには無理があると思われます。(「古田氏」は「江南」から「長安」へ行くという理解をしていますが、「書紀」にはそのような記述はありません。そこには明確に「百濟王命以遣於呉國」とされており、この「呉国」が最終目的地であることを示しています。)
この「呉国」という国に「百済王」が使者を派遣しているという実態は、ここに示す「呉」が「南朝」を指すものなのではないかという疑いが生じます。ただし「百済王」が「南朝」を指して「呉」という表現はしないと思われ(これは「隋・唐」政権による「南朝」に対する蔑称ですから)、これは「書紀」編者の「改定」であることを示唆します。
「書紀」内で「呉国」という表現は全て「南朝」に対して行なわれており、それは「書紀編者」が(前項でも述べたように)「唐」の大義名分に全面的に同意・共鳴していることを示すものですが、その意味からもこの「呉国」とは「南朝」を指すと考えるべきではないでしょうか。しかし、もしそうであるとすると、これが「初唐」の頃であったとした場合「隋」成立とそれに伴う「南朝」の滅亡という「六世紀末」の時勢の推移を「百済」が知らなかったか、全く無視していたと言うこととなってしまうと思われますが、それはあり得ないといえるでしょう。なぜなら「南朝(陳)」が滅びた際に(五八九年)「隋皇帝」に対し「陳」が平らげられたことを賀す使者を派遣している事実があるからです。
(隋書/列傳 第四十六/東夷/百濟)
「…平陳之?,有一戰船漂至海東〔身?冉〕牟羅國牟羅國,其船得還,經于百濟,昌資送之甚厚,并遣使奉表賀平陳。…」
これによれば「〔身+冉〕牟羅國」(これは今の済州島か)に漂着した「戦船」(軍艦)が「百済」を経由して帰国した際に「使者」を同行させ、その「使者」が「平陳」を賀す表を奉ったとされているのです。つまり「百済王」は「南朝」が亡ぼされたことを知っているわけですから、「初唐」の時期に「南朝」に遣使する、というのは「あり得ない」こととなるでしょう。このことから、「百済」が「呉国」へ使者を派遣したとすると、この記事は「南朝」が滅びて間もない頃でまだ「百済」がそれを「認識」していなかった「五八九年以前」のことと想定せざるを得ないこととなります。
またこの想定はこの時の「百済僧」達の中に後の「福亮」という人物がいたのではないかと考えられていることにもつながります。
「福亮」については「呉僧」「呉人」とされていること、「元興寺」に住していたとされていること、元々は「民間人」であったらしいことなどが知られており、それらの伝えられていることから、彼が「倭国」に来たのはまだ「呉」の国が存在していた時期であったのではないかと考えられます。上に見る「肥後」に流れ着いたという「百済僧」達はその後「本国」に還らず「元興寺」に住んだとされていますから、その意味でも「福亮」という存在とつながるものといえるでしょう。
このように「呉国記事」がその本来の年次である「隋初」から移動されているとすると、それに先立つように並べられて書かれている「裴世清」来倭記事についても「隋代初期」の頃のことを記したものという「疑い」が生じることとなると思われます。(続く)