古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「薩夜麻」達が「唐」の捕虜となっていた理由

2024年08月10日 | 古代史
「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

この斉明の詔からは「新羅」を攻めるという予定であったと思われることとなります。
 「詔」の中に現れる「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と推定されていることを考えると、「斉明」の軍は「新羅」を直接攻めることを考えていたと受け取ることができます。確かに「新羅」の城を制圧した記事もありますが、しかし「持統」の「大伴部博麻」に与えた「詔」の中では「薩夜麻」達は「唐軍」の捕虜になっているとされています。「新羅」軍ではなく「唐」の軍に捕らわれたというわけです。しかし当時「新羅」には「唐」の軍はいません。では「百済」にいたのかというと当時「熊津」の城には「唐」の「占領軍」が陣取っていましたが、戦闘らしい戦闘は行われておらず、しかも主力は「百済」の残存勢力でした。
当時唐軍がどこにいたかというと、対高句麗戦に唐軍の主力は参加中でした。
このことから考えて「薩夜麻」達は「高句麗」の応援に行っていたものではないかと考えられるでしょう。
「唐」は「高句麗」を攻める前提でまず「百済」を攻めたものであり、主たる目的は「高句麗」であったものです。とすれば「百済」がすでに滅亡している現在、「高句麗」救援が最優先なのは当然でしょう。つまり「斉明」達が「新羅」を攻めている間に「薩夜麻」達「筑紫王朝」からは「高句麗」へと進攻していたものではなかったかと考えられることとなります。それを率いていたのが「薩夜麻」であったものと思われ、かれらは「平壌道」を進行してきた「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いとなり、捕虜となっていたものと推測されます。下記によれば「加巴利濱」に「泊った」ようですから百済の東側を海岸沿いに進行していたとみられ、その先で高句麗軍と合流したものと考えられるでしょう。
 「薩夜麻」は「筑紫君」であり「筑紫朝廷軍」の総帥と考えられますから、彼とその側近が捕囚となっていると思われる状況を考えると、ほぼ「高句麗」支援として派遣された部隊は全滅したものではなかったでしようか。
 
(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。

是歳。…又日本救高麗軍將等。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。

 ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、これらの記事からは高麗に軍を派遣しているのが明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記事からも確かであろう」としており、高句麗へも軍を派遣したらしいことを推定しています。
 また「日本救高麗軍將等」というのが「筑紫」地域を含む直轄統治領域とその至近の諸国だけの軍であったと思われることは「唐軍」の捕虜となっていてその後帰国した人物として以下の記事の人物が『書紀』『続日本紀』に現ることから推定できます。

①(六八四年)(天武)十三年…十二月戊寅朔…癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

②(六九六年)(持統)十年…夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人?四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

③(七〇七年)四年…五月…癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴■餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。

 彼らは「筑後」「筑紫」「肥後」「讃岐」「伊豫」等のほぼ「筑紫朝廷」からみて「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の直接統治可能な範囲だけの軍であったらしいことが推定されます。
 また③の記事では「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸」とされていますから明らかに「白村江の戦い」で捕虜となったわけではなく、それ以前に「唐軍」に囚われていたというわけであり、そのことは「薩夜麻」の指揮下にあって「高句麗」支援の戦いの中で「唐軍」の捕虜となったことが窺われることとなります。同じことは「大伴部博麻」に対する「持統」の「詔」の中にもうかがえます。そこでは「博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。…」とされ「博麻」と「汝」(土師富杼等)とが同じ「本朝」に属していることが窺え、それは即座に「筑紫朝廷」を指すと見られることから、この時の「薩夜麻」と同時に捕囚となっていた人たちもやはり「筑紫君」の統治範囲の外部の人間ではないことが窺え、軍の構成として「筑紫」とその周辺地域からしか編成されていないことが強く推測できます。
 彼らはそこで「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いになり捕虜となっていたものと推測されます。このことから「薩夜麻」や「大伴部博麻」達は一時「高句麗」国内の唐軍の支配下領域に軟禁されていたものと思われることとなります。
 のちに「劉仁軌」率いる「唐軍」に「泰山封禅」に他の半島諸国の王と共に参列させられていますが、その出発地は「熊津」と思われますから、身元が判明した時点で都督府がおかれていた「熊津」に移動させられていたものと推量します。
コメント

倭王権と「飛鳥」

2024年08月10日 | 古代史
以前(2021年3月)投稿した論を再度提示します。現在考慮中の案件との関係でやや関係があると思われるものです。

評木簡には数種類ありますがこれは「時期の違い」と考えられます。一つは「評」から始まるもので「国」も「年次」も書かれないものです。その中でも「五十戸」表記があるものと「里」表記のものがあります。

「評」から始まるもので「五十戸」制
三方 評 耳五十戸土師安倍→? 031 荷札集成-132(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
湯 評 大井五十戸凡人部己夫 011 飛鳥藤原京1-109(荷札 飛鳥池遺跡南地区

「評」から始まるもので「里」制
三方 評 竹田部里人粟田戸世万呂塩二斗? 031 荷札集成-135(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
板野 評 津屋里猪脯 032 荷札集成-232(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

二つ目は「国名」が「前置」されるものです。(ただし「干支」は前置されない)
これも「五十戸」が表記されるものと「里」のものとあります。

「国」が前置されるもので「五十戸」制のもの
遠水海国長田 評 五十戸匹沼五十戸野具ツ俵五斗 051 荷札集成-62(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構
高志国利浪 評 ツ非野五十戸造鳥 081 荷札集成-141(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構

「国」が前置されるもので「里」制のもの
妻倭国所布 評 大野里 081 荷札集成-3(木研5-81 藤原宮跡北辺地区
海国長田 評 鴨里鴨部弟伊同佐除里土師部得末呂 081 荷札集成-63(木研5-82 藤原宮跡北辺地区
吉備中国下道 評 二万部里多比大贄 031 荷札集成-223(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
上毛野国車 評 桃井里大贄鮎 031 荷札集成-110(木研5-8 藤原宮跡北辺地区
三川国波豆 評 篠嶋里大贄一斗五升 031 荷札集成-53(木研5-85 藤原宮跡北辺地区

三つめが「年次」(干支)が冒頭に書かれるものです。

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「五十戸」制のもの
乙丑年(665)十二月三野国ム下評 大山五十戸造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡
乙亥歳(675)十月立記知利布 五十戸 止下又長部加小米 081 木研27-39頁-(46)(飛1 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丁丑年(677)十二月三野国刀支 評 次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区
丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利 五十戸 人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区
戊寅年(678)四月廿六日?富 五十戸 大 039 荷札集成-87(木研26-2 石神遺跡 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
戊寅年(678)十二月尾張海評津嶋 五十戸 韓人部田根春舂赤米斗加支各田部金 011 荷札集成-22(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構(ただしこれは「国」が省略されている)
庚辰年(680)三野大野評大田 五十戸 ?部稲耳六斗(〈〉)(裏面(〈〉)削り残 033 荷札集成-92(木研27-3 石神遺跡
辛巳年(681)正月生十日柴江 五十戸 人若倭部?◇三百卅束若倭部〈〉◇ 011 木研30-198頁-(1)(伊 伊場遺跡 (ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鰒一連物部 五十戸   032 木研30-14頁-(14)(飛2 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
辛巳年(681)鴨評加毛 五十戸 矢田部米都御調卅五斤 032 荷札集成-68(木研26-2 石神遺跡(ただしこれは「国」名が書かれていない)
丙戌年(686)月十一日大市部 五十戸 人 019 荷札集成-38(木研27-3 石神遺跡(ただしこれは「国」「評」名のいずれも書かれていない)
丁亥年(687)若狭小丹評木津部 五十戸 秦人小金二斗? 031 飛鳥藤原京1-18(荷札 飛鳥池遺跡南地区(ただしこれは「国」が省略されている)

「干支」が前置され「国」も書かれるもので「里」制のもの
癸未年(683)十一月三野大野 評 阿漏里阿漏人白米五斗? 059 荷札集成-91(飛20-27 藤原宮跡大極殿院北方 (ただしこれは「国」が省略されている)
甲申年(684)三野大野 評 堤野里工人鳥六斗 032 荷札集成-95(木研26-2 石神遺跡
乙酉年(685)九月三野国不→ 評 新野見里人止支ツ俵六斗? 011 荷札集成-88(飛20-30 石神遺跡
戊子年(688)四月三野国加毛 評 度里石部加奈見六斗 011 荷札集成-103(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構
庚寅年(690)十二月三川国鴨 評 山田里物部万呂米五斗 032 荷札集成-46(飛20-30 石神遺跡
辛卯年(691)十月尾治国知多 評 入見里神部身〓三斗 032 荷札集成-33(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区(ただしこれは「国」名が書かれていない)
甲午年(694)九月十二日知田 評 阿具比里五木部皮嶋養米六斗 031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
丙申年(696)七月三野国山方 評 大桑里安藍一石 031 荷札集成-101(飛20-28 藤原宮跡内裏・内裏東官衙地区
丁酉年(697)月〈〉〈〉 評 野里若倭部〈〉? 031 荷札集成-120(飛20-28 藤原宮跡内裏東官衙・東方官衙北(ただしこれは「国」が省略されている)
丁酉年(697)若侠国小丹生 評 岡田里三家人三成御調塩二斗 011 荷札集成-127(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
丁酉年(697)若佐国小丹〈〉生里秦人己二斗? 011 荷札集成-117(飛20-27 藤原宮跡北面中門地区
戊戌年(698)若侠国小丹生 評 岡方里人秦人船調塩二斗? 011 藤原宮3-1165(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)三野国厚見 評 里秦人荒人五斗 032 藤原宮3-1163(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
戊戌年(698)六月波伯吉国川村 評 久豆賀里 039 藤原宮3-1174(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
己亥年(699)十月吉備中→ 評 軽部里 039 飛20-27上(荷札集成-2 藤原宮跡北面中門地区
己亥年(699)十月上?国阿波 評 松里 039 荷札集成-75(木研5-84 藤原宮跡北辺地区
己亥年(699)十二月二方 評 波多里大豆五斗中 011 藤原宮3-1173(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区 (ただしこれは「国」名が書かれていない)
庚子年(700)四月若佐国小丹生 評 木ツ里秦人申二斗? 031 荷札集成-125(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区

 以上「分類」しましたが、この中で実態として「年次」と「国名」を伴う「里」制は「三野」を別とすれば「六九〇年代」以前が確認できないことから、「持統」即位付近つまり「庚寅年」の時点で全国的な変更があったものと推定します。ただし「国」が前置されない中で「里」表記のものがありますが、上に見るように「年次」付きの木簡では「里」が「五十戸」に後出するのは明らかですから、この「国」名なしの場合も同様であり、「年次」表記が何らかの理由で省略されたかあるいは「削られた」「折られた」等の理由によると思われます。
「庚寅年」の時点付近より後の時代のものは「藤原宮」周辺からの出土に限られているようですから、「庚寅年」に何らかの「改革」が行われたと考えられますが(そのような徴証は『風土記』他各資料にみられます)、それが「持統」の即位と関係しているとみられるとともにその即位が「藤原宮」においてのものであったということを示すものです。(ただし「掘立柱形式」の仮の大極殿であったと思われますが)
 「三野」は「五十戸制」から「里制」への移行が他国に比べ十年近く先行しているように見えます。それについては別途検討することとして、「里制」が「三野」を先蹤として始められたものであり、それを「庚寅年」に全国展開したというように考えられるものです。そして「庚寅年」以前の「評木簡」の多くが「飛鳥京」周辺から出土していることを捉え、多くの論者が「近畿王権」の下に木簡が集められていたと理解しているようですが、私見とは異なります。
 私見では「飛鳥京」の地域は「倭王権」の直轄領域であり、「近畿王権」の誰もが立ち入ることができない「不可侵」の領域であったと考えています。
 各種資料を見ると「飛鳥(明日香)」を冠して宮殿名が呼称されているのは「舒明」「皇極」「天武」に限られており、他に確認できません。たとえば「欽明」の宮については「磯城郡磯城嶋。仍號爲磯城嶋金刺宮」という記事があり、また「敏達」については「宮于百濟大井」とする記事があります。その後「遂營宮於譯語田。是謂幸玉宮」と遷ったようですがこれも「飛鳥」ではありません。その後の「用明」は「宮於磐余。名曰池邊雙槻宮」と書かれていますし、「崇峻」は「宮於倉梯」と書かれています。さらに「推古」は「皇后即天皇位於『豐浦宮』」とあり、その後「遷于小墾田宮。」とされているなどこれらはいずれも「飛鳥(明日香)」を冠して呼ばれてはいません。これはそれ以前の「王宮」についても同様であり、「飛鳥」を冠して呼称された、あるいは「飛鳥」という地域に宮殿を建てた「天皇」はいないというわけです。つまりこれらの「宮」がある地域は「飛鳥」ではないというわけであり、本来の「飛鳥」はかなり「狭い」地域を指す名称ではなかったかと考えられます。現代では拡大して解釈する論者もおられるようですが、実態としてかなり限定的に使用されていたと思われるものです。
 「飛鳥」を冠する「宮名」は「舒明」の「天皇遷於『飛鳥岡傍。是謂岡本宮』」に始まりその後「火災」?があり「田中宮」を仮宮として過ごした後「百済川」の側に「百済(大)宮」を作ったとされますが、この「百済川」についても「飛鳥」の地を流れる川であり「百済宮」も当然「飛鳥百済宮」と呼称されるべき存在であったと思われます。
 「皇極」の場合は「天皇遷移於小墾田宮。或本云。遷於東宮南庭之權宮。」とあり一見「推古」の「小墾田宮」に遷ったと思われますが、その後の記事で「自權宮移幸飛鳥板盖新宮。」とあることから考えると「或本云。遷於東宮南庭之權宮」という方が正確なようであり、この「東宮」は「舒明」の皇太子(中大兄皇子)の宮を指すと思われ、「百済宮」に付随していたと考えるべきでしょうから、そこに「皇極」のための「宮」を増設したとみるべきであり、これまた「飛鳥」の地にあったと考えるべきでしょう。(ただし「孝徳」の死に際して「冬十月癸卯朔。皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。壬子。天皇崩于正寢。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳主殯宮之事。」という記事から見て「南庭」には「殯宮」を営んだということもあり得ます。)そしてそこから正式な「宮」として「飛鳥板盖新宮」を新設したとするのです。
 「孝徳」は「改新の詔」は「飛鳥板盖新宮」で行ったとみられますが、すぐに「難波」にその本拠を移動させます。『書紀』によれば「是月。天皇御子代離宮。遣使者。詔郡國修營兵庫 蝦夷親附。或本云。壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」とありますし、その後「壞小郡而營宮」とありますがこの「小郡」は「難波の小郡」を指し、これ以降も「天皇幸于難波碕宮」「車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦」「天皇從於大郡遷居新宮。號曰難波長柄豐碕宮」とするなど終始「難波」に拠点があったものであり、「飛鳥」とは縁が遠い「天皇」でした。ところが「孝徳」の末年には皇太子以下が「往居于倭飛鳥河邊行宮」という事案が発生し、「孝徳」は一人「難波」で死去します。その後の「斉明」はそのまま「飛鳥」に宮殿を構え、皇極時代と同じ「飛鳥板盖宮」に戻ります。その後「災」といいますから「落雷」による火災でしょうか「飛鳥川原宮」へ遷りますが、「於飛鳥岡本更定宮地」ということとなり、「號曰後飛鳥岡本宮」ということとなります。
 その後発生した「百済を救う役」の際「天智」は「筑紫」の「長津宮」で後方支援の指揮をとっていましたが、その後「近江」へ遷都しました。その後を襲った「天武」は「飛鳥浄御原宮」に居を構えます。
 これらの推移を見てわかるように「舒明」「皇極」「斉明」「天武」以外に「飛鳥」に「宮」を構築した天皇はいないのです。
 また、ここに挙げた「舒明」「皇極」(「斉明」も)は「物部」「大伴」という「王権」に非常に近いところにいる豪族の系譜に「仕えた」という記録がないことがすでに明らかとなっています。たとえば、有力豪族である「大伴」「物部」の記録によると「推古」に仕えていた人物の息子の代には「孝徳」に仕えていたこととなっており、この事から彼らが仕えていた「天皇」の記録という「近畿王権」系の資料としては、『推古紀』と『孝徳紀』が元々連続していたことを示すものであって、さらにそこから直接『天武紀』へとつながるものではなかったかということとなるでしょう。
 このことについてはたとえば『伊豫三島縁起』をみても明らかです。それを見ると冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ記事がありません。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれています。この「辛丑年」は「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあるはずです。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながっています。つまり「舒明」「皇極」「斉明」は「近畿王権」から見ると「いなかった」ものであり、「没交渉」であったことが窺えます。
 ところが『万葉集』になると状況は変わります。「舒明」「皇極」「斉明」という三天皇の事跡、歌が複数掲載されているのに対して「孝徳」の歌は全くみられません。また『万葉集』中の地名が出てくる歌のうち大多数は「飛鳥」の地のものです。これらの状況は他の資料とちょうど逆になっているようです。
 『万葉集』はそもそも「倭国王朝」の勅撰集が元となっていると考えられますから、そこに「舒明」などの歌があるということから考えて、この「飛鳥」の地については、ある特別な意味を持った場所であることが推定されます。
 彼らは上に見たように「近畿王権」に深い関係があると考えられる「大伴」「物部」などと縁が遠く、宮殿のあった場所である「飛鳥(明日香)」という土地は「近畿王権」の誰も「王宮」を建てていないこととなり、しかも遺跡からはその「王宮」が「正方位」つまり正確に「南北」を向いた建物だけで構成されていたことも明らかとなっています。当時「正方位」をとる建物やそのような技術力を持ちまた行使できる権力者がどこにでもいたとは思えず、ここが「倭国王権」の直轄領域であったことが強く示唆されますが、それは「富本銭」の鋳造所が「飛鳥」の領域内にあったことからも言えると思われ、「貨幣」の鋳造が「王権」の特権的事項であることを考えると、この「飛鳥」が「倭王権」の直轄領域であることを強く示唆するものといえるでしょう。そしてその「富本銭」が「近畿王権」の鋳造でないことは『書紀』『続日本紀』にその姿が一切現れないことでも判明します。
 これらのことと「木簡」が多数集まっていたこととは当然深く関係しているものであり、多くは「荷札木簡」であり「王権」に直送される性質の物資が「飛鳥」の地から検出されるということは、この地域に「倭王権」が存在していたことを示すものです。
 「近畿王権」はこの土地には「オフリミット」であり、関与することが出来なかったと考えられるわけです。(次代の「藤原京」もこの土地の至近に造られるわけですが、その領域の一端は「飛鳥」の地にいわば「食い込んでいる」のが確認でき、「藤原宮」が「飛鳥」の地の「延長」として考えられていたことを推定させます。このことから「持統王権」は「倭王権」の分流の一つであることを示唆させるものです。
 結局「飛鳥宮」は「倭王権」の直轄地であり、そこに「倭国王」がいたことを推定させるものであって、決して「近畿王権」の都であったとは想定できないのです。
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「都督歴」と「年代歴」

2024年05月31日 | 古代史
 ところで、「三善為康」は『二中歴』を書く際に当然かなり古い資料を参照したと思われますが、この「都督歴」について言うと、この「藤原元名」付近で一旦まとめられた資料があり、そこまでの分を「省略」し、その以降の未整理の分について自ら書き継いだと言う事ではないでしょうか。
 この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う「現代用語事典」的あるいは「広辞苑」的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。
 「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代が異なっていたと推定され…』とされており、『二中歴』が一気に書かれたものではないことに言及されていますが、さらに言えば、(彼の意見とは異なり)時代と共に書き足されていったものと言う可能性が考えられるものであり、「三善為康」はその意味でいわば「アンカー」を務めたと言えるではないでしょうか。
 このようなことは「都督歴」だけではなく『二中歴』の各所に起きていたものと思われ、そうであれば「年代歴」にもそのような可能性が考えられるでしょう。つまり「都督歴」の「國風」以降と以前に「区切り」があるように「年代歴」には「九八七年時点」付近に同様に「区切り」があるのではないかと考えられるわけです。
 この「区切り」の場所が「都督歴」と「年代歴」では若干異なるものの(三十年程度か)、年代としては大きくは違わないものであり、いずれも『二中歴』の編集段階とされる時期(平安末期)をさらに遡上する「十世紀後半」であることも重要と思われます。これは「都督歴」の旧編集者と「年代歴」の「旧編集者」とが同一人物かあるいは「親子」である可能性を感じさせます。
 「都督歴」についての旧編集者は、「省略」された「都督」中の最終人物である「藤原元名」と同世代であったのではないかと思われ、その場合「藤原元名」が「康保元年」(九六四年)に「八十歳」で死去していることを考えると、編集者である彼も同様に「九六〇年代」にはせいぜい「七十代後半程度」と見られることとなるでしょう。また、「年代歴」の方の旧編集者はその一世代後の人物ではないかと思われ、「一条天皇」の即位付近で一旦資料としてまとめられたものと考えることができそうです。
 これについては「三善氏」として最初の算博士となった「三善茂明」が「三善氏」を名乗ったのが「貞元二年」(九七七年)とされていますから、彼がこの編集に関わった可能性は非常に高いと思料します。(他の資料からも「平安時代」に存在していた「同種」の記録に基づくものという考え方がされています。)
 「算博士」でありながら『二中歴』という「百科事典」様の書物を記したり、『拾遺往生伝』などという仏教史料を著した「三善為康」の一種「特異性」は彼自身の能力の発露と言うより「三善家」に伝わる「原・二中歴」があって始めて成し遂げられたものと言うこともできると思われますが、さらにいえば彼が依拠した史料は「九条家」に伝わるものであったという可能性も考えられます。なぜなら「三善氏」は代々「九条家」の「家司」(けいし)であったと思われるからです。
 「家司」とは主人筋の家に(ちょうど「執事」のような形)で出入りして家事全般の面倒を見る立場の人間であり、「九条家」の「家司」は「三善氏」であったと推定されています。
 「為康」の次代の「三善家」当主と思われる「為則(為教とも)について当時の「関白」「九条兼実」の日記に「臨時で任命した越後の介を解任する」という記事があり、そのことからも彼が「九条家」に深く関係する人物であったという可能性が考えられています。(※)
 この「越後の介」任命は当時起きた「法然」と「親鸞」及びその他当時の「浄土宗」の関係者に対する弾圧の際に「九条兼実」の差配によって行われたものと思われ、「親鸞」に対する「保護」が目的であったと見られています。
 「法然」や「親鸞」など浄土宗教団については「承元元年」(一二〇七年)二月「後鳥羽上皇」から「弾圧」を受け、一部のものは死刑、その他関係者は各地へ配流となりました。この時「親鸞」と「法然」も配流となったものですが、「法然」は「九条兼実」自身が深く帰依していたものであり、彼が配流先を「土佐」から「讃岐」へ変更させたものです。「讃岐」には「九条家」の領地があったものであり、そこで「法然」は厚く遇されたとされます。そうならば「親鸞」についても「九条家」の保護の手が入ったと考えるのは不自然ではありません。
 「親鸞」は「越後」に配流となっていたものであり、その「親鸞」の保護兼監視役として「越後の介」として「三善氏」が(臨時に)配置されていたらしく、そのことからも「三善氏」と「九条家」の間に深い関係があると見られるわけです。
 「為康」も「為則」と同様「越後の介」に任命されたことがあり、それについても「九条家」の計らいがあった可能性があり、そのような関係であれば「九条兼実」が蔵していた各種史料を彼が見る機会もあったものと思われ、それらを活用したという可能性も考えられるものです。
 このように考えると、『二中歴』に書かれた「年始」についての理解が「五世紀の始め」とみて不自然ではないと思われるものです。

(※)「九条兼実」の日記『玉葉(ぎょくよう)』の治承二年(一一七八年)正月二十七日条に「除目」の発表についての記事があり、そこには「越後介正六位上平朝臣定俊、《停従三位平朝臣盛子去年臨時給三善為則改任》」とあります。(《》間は小文字二行書き)

(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2023/06/04)
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「都督」「太宰」と「倭国」

2024年05月31日 | 古代史
以下に「都督歴」に対応する「大宰府」に派遣されていた人物たちの記録を書出します。

藤原元名    大宰大弐
天徳二年条 参議 従四位上 藤元名 七十四 仁和元年生。/三木従三位清経三男。 延木五二十七兵庫助。十四年正七従五下(陽成院御給)。十七年九月玄蕃頭。廿一年八十一能登守。延長五正十二備後守。三月廿六日従五上(治国)。承平二正廿七伊與守。同六八十五大和守。同七正七正五下。天慶四正九従四下。同五三廿九美乃権守。同十二一丹波守。天暦六正八従四上。同十一日民部大輔。同七正廿九山城守。同八三十四大宰大弐。天徳二閏七廿八三木(大弐如元)。
天徳三年条 参議 従四位上 藤元名 七十五 月日去大弐。

藤國風 記録なし

小野好古 大宰大弐
天徳四年条 参議 正四位下 野好古 七十七 左大弁。弾正大弼。正月廿四日兼備中守。四月廿三日任大宰大弐。止弁弼等

藤佐忠 記録なし

橘好古 大宰権帥
天禄元年条 中納言 従三位 橘好古 七十八 民部卿。正月廿五日兼大宰権帥(去卿)。

藤國光 記録なし

藤國章 大宰大弐
貞元二年条 非参議 従三位 藤国章   正月七日叙(造八省院廊功)。太宰大弐如元。/故三木元名朝臣四男。母同文範卿。

菅輔正 大宰大弐
正暦三年条 非参議 従三位 菅輔正   二月十五日叙(持朱雀院御骨賞)。式部大輔如元。/右中弁正五位下淳茂孫。従四位上勘解由長官在躬朝臣一男。母従五位上常陸介菅景行女。 天暦ー給料。同四ーー文章得業生(年廿六)。同五正卅播磨権少掾。同八十廿七課試。同九正ー判(卅一才)。壬九月ー刑部少丞。同十一正廿七式部少丞(卅三才)。天徳二壬七廿二転大丞(弘親卒替)。同四正七従五下(策。卅六才)。二月十九但馬権守。四月廿二日民部少輔。応和元十十三式部少輔。同三正廿八左衛門権佐。二月宣旨。倫寧任河内守替。同四四一次侍従。康保二正十七止次侍従(依国府前使也)。同三正七従五上(策。四十二)。廿七任権右少弁。同四九一東宮昇殿。同五二五左少弁。安和元十二十八大学頭。同二六廿三左少弁。八月十三東宮学士。九月二日昇殿。天禄元八五文章博士。十一月廿日正五下(弁労)。同二正廿九越前介。十二月十五日右中弁。同三正七従四下(弁労)。壬二月廿九美作権守。同四七廿二権左中弁(学士博士如元)。貞元二八二従四上(造宮行事)。十二月十日周防権守。同三十十七左中弁。天元二十十七昇殿(石清水行幸行事以下加階聴昇殿)。同四正廿九大宰大弐。二月十七日昇殿。同五正七正四下(弁労)。三月五日式部権大輔。永観二八廿七以本宮侍臣昇殿(但身在任所)。九月十四日聴雑 。寛和二六廿二止昇殿(譲位)。正暦二四廿六丹波権介。五月二日昇殿。廿一日転式部大輔。

藤為輔 大宰権帥
寛和二年条 権中納言 正三位 藤為輔 六十七 正月廿八日任(加階)。同日大宰権帥。八月廿六日薨。号甘露寺中納言。又松崎帥(参木大弁十二年。中納言一年)。

藤共政 記録なし

藤佐理 大宰大弐
正暦二年条 参議 従三位 藤佐理   兵部卿。正月廿七辞三木并卿。任大宰大弐。

藤有国 大宰大弐
長徳三年条 非参議 正三位 同〈藤原〉有国 五十五 大宰大弐。

平惟仲 大宰権帥
長保三年条 中納言 正三位 平惟仲   正月廿四日大宰権帥(或本云。給左右近衛各二人為随身)。

藤高遠 記録なし(左兵衛督)

平親信 筑後権守
長保三年条 非参議 従三位 平親信 五十七 十月十日〔叙〕(東三條院御賀。院司賞)。/故中納言時望卿孫。故従四位下行伊勢守兼以朝臣二男。母従五位下越後守藤定尚女。 康保四ーー東宮雑色(宮初)。安和二八ー為内雑色(踐祚)。天禄二九廿六文章生。同三正廿六蔵人。四月廿九左衛門少尉。四月十一遷右衛門少尉。天延二二二検非違使。同三正七従五下(蔵人)。廿六筑後権守。貞元二正廿阿波守。八月二日従五上(造宮功)。永観二十廿右衛門権佐。十一月日使宣旨。同三二ー防河使。寛和元九十四近江権介(受領)。防鴨河使如元。十一月ー正五下(悠紀国司)。二十一十八叙従四下(悠紀国司)。永延二十四辞。同三正廿八従四上(造勢多橋賞)。正暦二六一越前守(乗方辞替)。

藤隆家 記録なし

藤行成 大和権守
長保三年条 参議 正四位下 藤行成 三十 八月廿三日任。右大弁大和権守等如元。元蔵人頭。十月三日侍従。同十日従三位(東三條院御賀。院司賞)。/故太政大臣(伊尹公)孫(但為子)。右少将義孝一男。母中納言源保光卿女。 永観二正七従五下(春宮明年御給)。寛和元十二廿四侍従。同二二八昇殿。八月十三左兵衛権佐。同三正七従五上(恵子女王御給)。永延元九ー昇殿。永祚二正廿九備後権介。正暦二正七正五下(佐労)。同四正九従四下(女叙位次。佐労)。ー昇殿。長徳元八廿九蔵人頭(従四下。備後権介)。同二正廿五式部権大輔。四月廿四権左中弁。同年八月五日転左中弁。同三正廿八備前守。四月十一従四上(臨時)。十月十二右大弁。長保元正廿九備後守。三月廿九大和権守。同二十十一正四下(書額賞)。長保三八廿三三木。

源経方(房) 大宰権帥
寛仁四年条 権中納言 正二位 源経房 五十二 皇大后宮権大夫。十一月四日去権大夫イ。同廿九日兼任大宰権帥(去大夫)。

源惟憲 大宰大弐→源ではなく藤原
治安三年条 非参議 従三位 同〈藤原〉惟憲 六十一 十二月廿六日叙(長和五大嘗会国司賞)。大宰大弐如元。/中納言為輔卿孫。駿河守惟孝一男。母従四位下伴清廉女。 年月日近江掾。寛和元十一廿従五下(悠紀)。ーーー大蔵大輔。ーーー従五上。ーーー正五下。長保三正廿四因幡守。寛弘二正廿五得替。同三正廿八甲斐守。同四正廿従四下(造安殿賞)。同七二十六去任。同八十十五従四位上(治国。御即位)。長和二九十六正四下(行幸中宮。左大臣家司)。十一月廿四日近江守。ーーー左京大夫。寛仁元八九春宮亮。同二正ー去任。同四正卅播磨守(大夫亮如元)。治安三十二十五任大宰大弐。

源道方 大宰権帥
長元二年条 権中納言 従二位 源道方 六十二 宮内卿。正月廿四日兼大宰権帥。八月十八日叙正二位(赴任賞)。

藤実成 大宰権帥
長元六年条 中納言 正二位 藤実成 五十九 四月九日勅授帯劔。十二月卅日兼大宰権帥。

藤隆宗 記録なし

藤重尹 大宰権帥
長久三年条 権中納言 正三位 同〈藤原〉重尹 五十九 正月廿九日任大宰権帥。止中納言。七月三日叙従二位(赴任日)。永承六年三月八日薨。

藤経通 太宰権帥
永承元年条 権中納言 正二位 藤経通 六十五 治部卿。左衛門督。二月廿六日兼太宰権帥(止督)。

藤資通 太宰大弐
永承五年条 参議 従三位 源資通 四十六 左大弁。播磨権守。九月十七日兼太宰大弐(去左大弁)。十一月十一日正三位(赴任賞)。

高成章 太宰大弐
天喜三年条 非参議 従三位 高階成章 六十六 七月十九日叙。太宰大弐(赴任賞)。/天武天皇之後。左大臣長屋王十世之孫。故春宮亮業遠四男。母修理大夫業平女。 年月日主殿権助。ーーー春宮蔵人。長和五正廿九内蔵人(太子登極日。廿七)。十一月廿六日式部少丞。同六正七従五下(蔵人。筑後権守)。寛仁三正廿三紀伊守。治安三二十二去任。万寿三四廿七従五上(治国)。同四三十七春宮大進。長元九四ー止大進(太子登極)。七月十日正五下(馨子内親王御給。即位日)。長暦元八十七春宮権大進。長久三正七従四下(春宮去長久四年未給)。廿九日主殿頭。同五正ー阿波守。永承三十一ー止守。同四十二ー伊與守。同五十一十三従四上。同六正廿七正四下(造貞観殿功)。天喜二十二二任大弐。

藤経輔 太宰権帥
康平元年条 権中納言 正二位 同〈藤原〉経輔 五十三 中宮権大夫。四月廿五日兼太宰帥。七月卅日加権字。

藤師成 太宰大弐
康平六年条 非参議 従三位 藤師成   七月廿六日叙(永承大嘗会主基)。八月十九日正三位(赴任賞)。太宰大弐如元。/故中納言通任卿一男。母従三位藤永頼卿女。 寛仁五正七従五下(皇后御給)。ーーー美乃権守。万寿元十十七侍従。同三十一廿七右兵衛佐。同五二十九従五上(佐労)。同日左少将。長元二正廿四兼伊與権介。同四十十七兼加賀権守(受領。小一條院分)。十一月十九日正五下(少将労。朔旦)。同六正七従四下(少将労)。長暦二正廿従四上(治国)。長久二十二十九正四下(行幸内大臣二條家家賞)。同三十廿七任兵部権大輔。寛徳二四十二備中守(任中公文一)。永承四二五去任。天喜四十廿九丹後守。康平三二廿五去任。同五正卅近江守。同六二廿七太宰大弐。

藤顕家 太宰大弐
治暦三年条 参議 従三位 藤顕家 四十四 讃岐権守。七月一日兼太宰大弐。八月廿二日正三位(赴任賞。超資綱)。

藤良基
延久三年条 参議 従二位 同〈藤原〉良基 四十八 春宮権大夫。周防権守。四月九日兼大弐。

平経平 大宰大弐
承暦四年条 参議 正四位下 藤公実 二十八 十二月六日任。左中将如元。元蔵人頭。/春宮大夫実季卿一男。母前大弐経平朝臣女。 治暦四七廿一従五下(良子内親王御即位給)。延久二十二廿八左兵衛佐。同四正七従五上(佐労)。十二月八聴禁色。為蔵人。同五正卅遷左少将。同六正廿八正五下(少将)。同日兼備前介。承保元十一十八従四下(大嘗会)。同二正十八従四上(行幸東三條第日賞)。同六月十三転中将。同四正六正四下(陽明門院御給)。同二ー兼中宮権亮。承暦四正十八蔵人頭。十二月六日任三木(中将如元)。

藤資仲 大宰帥→大宰権帥
承暦四年条 権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十 正月廿八日罷職。任大宰帥。(大宰権帥の誤り)
承暦四年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十 正月廿八日罷所職。大宰権帥。
永保元年条 前権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十一 大宰権帥。
永保二年条 前権中納言 正二位 同〈藤原〉資仲 六十二 大宰権帥。
永保三年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十三 太宰権帥。
応徳元年条 前権中納言 正二位 藤資仲 六十四 大宰権帥。四月日辞帥。同日出家(六十四才)。寛治元十一ー入滅。

藤実政 大宰大弐
応徳元年条 参議 正三位 同〈藤原〉実政 六十六 左大弁。勘解由長官。式部大輔。讃岐権守。六月廿三日遷任大宰大弐。

藤伊房 記録なし
延久四年条 参議 正四位上 藤伊房 四十三 右大弁。十二月二日任。/故参議行経卿一男。母前土左守源貞亮女。 長元四正六従五下(東宮御給)。ーーー但馬権守。寛徳二十二廿五侍従。永承元十一十三従五上(殿上一)。同二十一十三左兵衛佐。同三正廿八遷少納言。同四二五兼紀伊権守。同七正五正五下。天喜四年十一ー補蔵人。同六四廿五遷右少弁。同十一月八日転左少弁。康平五十一ー兼木工頭。治暦元十二ー転権左中弁(木工頭如元)。同二正五従四下(弁)。同廿八日氏院別当。三月廿二日造興福寺長官。同三二六任安芸介。廿五日従四上(興福寺供養日)。四月十六正四下(丈六画像御仏供養行事)。延久元六十九補蔵人頭。同十二月十七日任左中弁。同三三廿七為修理左宮城使。同四二一正四上(臨時)。同十二月二転右大弁。同日任三木(元蔵人頭左中弁)。同月ー為氏院別当。

藤長房 記録なし
永保三年条 参議 正三位 同〈藤原〉長房 五十四 正月廿六日任。大蔵卿如元。/故入道権大納言経輔卿二男。母式部大輔資業卿女。 長久二十廿七従五下(上東門院臨時御給)。同三十廿七侍従。同四九ー右少将。同五正五従五上(少将)。寛徳二四ー兼備前介。永承二正ー正五下。同三四五兼斎院長官。同四正五従四下(少将)。同五二ー兼美作介。同六正ー遷右少将。天喜三二ー兼周防介。同五正ー正四下(上東門院御給)。同六正ー兼左京大夫。康平三二廿二兼備中介。同四二ー転左中将(大夫如元)。同六四卅従三位。治暦二二ー兼周防権守。延久元十二ー辞大夫。同四二ー任兵部卿。承保二六ー遷大蔵卿。同四正十一正三位(行幸陽明門院。院司賞)。


大江匡房 永長2年(1097年)、大宰権帥に任ぜられ、翌承徳2年(1098年)、大宰府へ下向する。康和4年(1102年)には大宰府下向の労により正二位に叙せられるが、まもなく大宰権帥を辞任した。

藤原保実 康和4年(1102年)正月:大宰権師→三月に死去


藤原季仲 康和4(1102)年大宰権帥

藤顕季 天仁2年(1109年)太宰大弐、修理大夫

源基綱 永久4年(1116年)正月30日:太宰権帥、11月7日:赴任

藤原重資 記録なし

藤原俊忠 記録なし

藤原長実 長承2年(1133年) 兼大宰権帥

藤原経忠 大治3年(1128年)正月24日:大宰大弐

藤原実光 長承2年(1133年)2月22日:大宰大弐(去大弁)
保延2年(1136年)11月4日:権中納言、大宰権帥

藤原顕頼 保延5年(1139年)(46歳)正月5日:正三位正月24日:大宰権帥兼任

平実親 記録なし

藤原忠能 『兵範記』の保元二年冬記の紙背文書に見られる、「鎮西凶悪輩、可レ令二召進一之由、雖下被レ下二宣旨一候上、大弐卿、依二被レ申事候一、如二只今一者、未レ定候、可二定下遣一之時、可レ申二案内一候歟、謹言 正月十八日 播磨守」という記事。播磨守清盛から摂関家の家司であった平信範に送られてきた保元二年正月十八日付の文書で、鎮西の凶悪の輩の追討宣旨が出されたが、太宰大弐藤原忠能の申し出により追討使の派遣は控えているので、派遣の折はお知らせしますという内容。

藤原季行 大治5年(1130年)に阿波守に任ぜられて以降、能登国・因幡国・武蔵国・土佐国・讃岐国等の国司や大宰大弐など地方官を歴任する。

平清盛 1158年(保元3年)に平清盛が大宰大弐

藤原顕時 1162-1164 大宰権帥

藤原隆季 治承3年(1179年)11月20日:大宰権帥兼任

藤原実清 記録なし

吉田(藤原)経房 文治元年(1185年)10月11日:大宰権帥を兼任

藤原頼能 建久元年(1190年)従三位・大宰大弐に叙任される。

藤原季能 記録なし

平宗頼 記録なし

平頼盛 永万元年(1165年)7月に大宰大弐となり、仁安と改元された8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。

平信隆 記録なし

平重家 記録なし

延べ六十四名のうち「大弐」二十一名、「権帥」二十四名、「記録なし」が十七名







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「年代歴」の冒頭の「年始」について

2024年05月31日 | 古代史
 『二中歴』の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。それに続いて「継体五年元丁酉」から始まり、「大化六年乙未」に終る年譜が記されています。
 ここで「無号」といっているのは「年号」のことと思われますが、「年始」の「年」は「年号」ではありません。つまり、「年始」を「年号が始まった年」と解釈するのは正しくないわけです。(論理上も成立しません)これは、ある時点から「年」を数え始めた、ということであり、その最初の三十九年間は「年号」はなく「干支」もなかった、ただ「結縄刻木」していただけだった、というわけです。(この事から「結縄」あるいは「刻木」のいずれかが「暦」の役割をしていたことが窺えます。)
 そして、その後に「継体元丁酉」から始まる「年代歴」が接続されるわけですが、ここでは「継体」という年号と「丁酉」という「干支」が表記されているわけですから、その前段から意味が連続していることとなります。この時以来(それまでなかった)「年号」と「干支」併用し始めたということとなるのは当然でしょう。
 (これについては以前「年始」を古田氏の見解をなぞる形で「紀元前」に求める記述をしていましたが、『二中歴』のこの部分を正視すると「無号不記干支」の終わりと「継体元丁酉」が接続されているという(当然ともいえる)知見を得たため、この「継体元丁酉」という年次の「三十九年前」に「年始」を定めるべきというように見解を変更しました。これは「丸山晋司氏」の見解と結果的に同じとなります。)
 この「年代歴」冒頭部分は当然その直後の「年号群」につながっていますから、意味的にも連続していないと不審といえます。前段の文章が後段と「没交渉」とは考えられませんから、「意味内容」として連続しているとみるのは不自然ではありません。
 たとえば、この「年始」を「大宝建元」のことと理解するなら(これは故・中村幸夫氏の論)、この部分から「年代歴」中程の「大化」年号の後に書かれている「已上百八十四年~」という部分まで「飛ぶ」こととなります。しかし、それは読み方として「恣意的」に過ぎるでしょうし、また古田氏等のようにこれを紀元前まで遡上させた場合(※1)そこから数えて「三十九年」以降「継体」までの間のことに全く言及していないこととなりそれもまた不審と思われます。
 更に古田説によれば、この当初の「三十九年」以降「結縄刻木」がなくなったとするなら、民衆は「太陰暦」を理解し使用していたこととなりますが(「結縄刻木」は「暦」の役割も果たしていたはずですから)、もしそうなら『魏志』(というより引用された『魏略』)に「正歳四節を知らず」と書かれることはなかったでしょう。この記事からみて「卑弥呼」時点では「太陰暦」が一般化していないことは明らかですから「結縄刻木」は存続していたとみるべきであり、それは古田氏の理解とは食い違うものです。またそれは同じ『二中歴』の「明要」の箇所に「結縄刻木」が止められたという記事があることとも齟齬します。これは当然それ以前に「結縄刻木」が行われていたことを示すものであり、それもまた古田氏の理解とは食い違っているといえるでしょう。(「細注」が間違っているとするなら別途証明が必要と考えます。)
 また、これについては当初の「三十九年」が「二倍年暦」としての表記であるという考え方もありますが、そうは受け取れません。そうであるなら「年始五百六十九年」さえも「二倍年暦」であることになるはずです。(三十九年はその中に包含されているのですから)しかし誰もそのような議論はしていません。
 古田氏は「継体元年」である「五一七年」から「五百六十九年」遡上した「紀元前五十二年」を「年始」としているわけですが、『二中歴』によれば「結縄刻木」は「明要元年」まで行われていたものであり、その時点まで「二倍年暦」であったとすると、「紀元前五十二年」から「五四二年」まで全て「二倍年暦」であるということとなり、そうであるなら「年始五百六十九年」という数字全体が「二倍年暦」であることとなってしまいます。もしこれを「二倍年暦」であるとすると、「五百六十九年」ではなく、実際には「二百八十年」ほどとなってしまいます。「継体元年」から「二百八十年」遡上すると「二三七年」となり、これは「卑弥呼」の治世の真ん中になります。こう考えて「年始」を「卑弥呼」の時代に置くというならそれも一考かも知れませんが、現在のところそのような見解はないようです。(そもそもこれでは「紀元前」に年始が来ません。)
 これについてはこれらの年数は「一倍年暦」時代に書かれたものであり、すでに「換算」が終えられた段階の記述と考えるのが正しいと思われます。つまりこの「年代歴」の冒頭部分では「年始」からの年数に関していわば『二中歴』作者の公式見解とでもいうべきものが書かれていると思われ、その中の「五百六十九年」や「三十九年」は「生」の数字ではなく、彼の立場ですでに整理されたものと思われ、「二倍年暦」などがもしあってもそれを太陰暦に変換した上で述べているのではないかと推察するわけです。
 結局自国年号を使用開始した時点(『二中歴』の記事を「六十年」遡上した年次として修正して考えると「四五七年」)から遡る年数として「三十九」という数字が書かれていると判断できるものであり、これを計算すると「年始」とは「四一八年」となります。この時点を「起点」として「年を数え始めた」というわけですが、これは既に見たように仏教の伝来とされる年次とまさに一致します。
 つまりこの時点で仏教の流入と共に「年」を数え始めたというわけであり、それは『「仏教伝来」からの年数』を把握する意味もあったのではないかとも思われます。つまり「倭国」における「年」の意識は元々仏教に結びつけられたものであったという可能性があると思われるわけです。そしてそれはその後「年号」に仏教関係のものが著しく多いこととなって現れたといえるのではないでしょうか。
 そして、『二中歴』でその基準年とされているのが「四一八+五六九=九八七年」であったということであり、この『二中歴』の「年代歴」記事は元々「十世紀」の終わりに書かれていたものを下敷にしたという可能性が高いと考えられることとなるでしょう。
 このように現行『二中歴』に先行する史料があったと考えるのはこれも「丸山晋司氏」にも通じるものですが(※2)、彼の場合はその徴証となる史料が見いだせないとして故・中村氏から反論が寄せられていました。(※3)しかし、この場合「徴証」といえるものは同じ『二中歴』の中の「都督歴」ではないかと思われるのです。

(※1)古田武彦「独創の海――合本『市民の古代』によせて」合本『市民の古代』(新泉社)第一巻(第1集~第4集)所収
(※2)丸山晋司『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』
(※3)誌上論争「二中歴年代歴」市民の古代研究「二十二、二十四、二十五号」昭和六十二~六十三年

(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2017/07/23)
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