2010年8月22日(日) その2からの続き
みのりの丘を抜けて暫く往くと県道269号に突き当たり、その手前の橋のたもとに「浮石義民直訴之地」と彫られた石碑が建っていた(写真上)。
説明版によれば、宝永7年(1710年)7月10日(旧暦)に、この地区の5人が幕府巡検使に対して直訴を決行しようとした場所とある。旧暦の7月10日と言えば、今の8月初めだから今日と同じように酷暑の日であったと思う。
5人の内の庄屋藤井角右衛門が疲労と暑さで倒れたために、この日は直訴を断念したものの、翌日には内日まで追いかけて、遂に直訴に成功した。その結果、浮石村の農民は重税より救われたが、この5人の義民は同年12月22日に長府の刑場で処刑された。
村全体を救うためには、自分らの命を懸けてでも直訴するのだという考え方や行為は、個人が優先される今の世ではなかなか理解されにくいと思うが、当時はやはり、村或いは地域社会が健全であってこその個人だと言う考え方の方が優先していたのだろうかネ。
個と全体のどちらが優先されるべきかはとても難しいところだが、正常な人間社会を維持(優先)するために、つまり人間側の勝手な都合で、何十万頭という大量の牛や豚を簡単に「殺処分」してしまう一方で、正常な人間(市民)社会を脅かすことが明らかであるにもかかわらず、「人間であるというだけで」やたら複雑な手続きを踏まなければ人間を「殺処分」できないのは、何だかとても腑に落ちないのだが、そう思うのはオイラだけかぃ?
地球全体という目線で見たときに、人間と牛や豚の「命の差」は、そんなに大きいとは思わないのだがネ?。人間は、ちょっと思い上がりが過ぎてるような……そんな気がするのだ。
なぁ~んてことを、柄にもなくこの石碑の前に佇んで思ってしまい、懇ろに先人の御霊に敬礼したあと、ほとんど車も通らない長閑な県道269号をのんびりと西進する。
この道の途中には、「塔の本 首塚・伊勢大神宮・猿田彦」と書かれた案内板が建っていて(写真中)、なかなか味のある巨石には例によって見事な注連縄が懸けられていた。
やがて道は国道435号に再度合流し、暫くすると左からくる県道270号とも合流する出合地区になる。この辺りから右手の山上を眺めると、白滝山と呼ばれる昔からの名峰には、20本位はありそうな巨大な風力発電塔の林立に気がつく(写真下)。
風力発電と言えば、いかにも自然エネルギーを活用したエコロジーで未来的な発電方法だと思いがちだが、ここまで巨大な規模になってしまうと、当然ながら建設や維持の為に多くの山肌を削って、かつ長大な道路も造らざるを得ない。
これはどう贔屓目に考えても、貴重な動植物の生態系を崩すことはもちろん、山麓全体の自然治癒力をも弱めてしまう、当に「自然破壊」そのものではないかと思う。
こんなところにも、「人間の思い上がり」が現れているように感じてならないのだが、子々孫々の末代にこれらのしっぺ返しが来ないように祈るしか、今のオイラにはできないのかナァ…と、非力な自分を恥じてしまう。
出合地区の先、田耕(たすき)地区を抜けて国道435号を更に西進し、滝部地区に入る少し手前から左折して旧道を往き、滝部の中心部下市交差点に出る。
今日はここまでとして、下市交差点を左折して山陰本線の滝部駅からJRを乗り継いで帰宅することとした。ちょうど5時間の歩行で33,908歩だった。ほぼ5時間ずっと、炎天下ではあったが、適切(?)な熱中症対策のお陰か足に疲労を感じることなく、頗る快調なままで歩き終えることができたのが、ヒッジョォ~~~に嬉しい。
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