2011年4月30日(土)
頗る爽やかな初夏の陽気に誘われて、今日は小野田方面へ出かけてみた。
山陽本線の小野田駅で小野田線に乗り換えて雀田駅で下車し、続いて本山支線に乗り換えようと思ったが、時刻表を見ると朝夕の5便しかなく、これは諦めた。でも何だか悔しいので、そのまま小野田赤十字病院の側を通って本山支線沿いに歩き、終点の長門本山まで行ってみた。
そこからまた戻って竜王山公園方向へ歩き出し、途中の萬福寺や耳観音、子持御前などに参詣しながら竜王山へ登り始める。生憎と春の霞がかかっていて、周防灘の向こうに拡がるはずの九州の山々は見えなかったが、それでもなかなか良き眺め(写真上)ではある。
山頂近くの駐車場からさらに登って行くと、写真のような狼煙台を復元したものが説明板とともに建っていた。最初に造られたのは約1500年前の天智天皇の時代らしいのだが、狼煙は、当時では唯一の高速通信手段であった訳だ。また、朝鮮半島からの侵略への備えであったことから、その通信の可否が国の命運をも左右する重大な任務を帯びていたことになる。
山頂付近の公園を一通り散策した後、ゆるゆると海岸まで降りて行き、「きららビーチ焼野」なる海岸に着く。初めて来た海岸だが、こんなに綺麗に整備してあるとは知らなんだ。夏にはさぞや海水浴客で賑わうであろうが、今は散歩やジョギングをする人がちらほら程度だ。
海岸沿いの県道354号をそのまま北上するが、左手は工場街で右手はラブホ街という、まぁ面白い風景ではある。
やがて小野田漁協が見えてくるが、この辺りは刈屋浦・木戸浦と呼ばれた古くからの漁港で、また、舟木街道の終点でもあったようだ。民家は殆どが山側に建ててあり、尾道のように小さな急階段が延々と続く街並みだが、悲しいかな現代人は車が無いと生活ができなくなってきているので、このような昔ながらの街並みはやがて無くなっていくのだろうかネ。
それにしてもこれだけ高台に住居を建てているなら、少々の高潮や津波にも大丈夫なことが素人目にも分かるのだが、そう考えると昔の人は偉いなぁと思うと同時に、自然や災害に対して何と謙虚であることかとつくづく感じる。
現代人が中途半端な科学や知識を持ったことで、自然や災害を克服できると勘違いして尊大になり、その結果、「防災」優先に走ってしまったのとは、大きな違いがあるなぁ。石原都知事は個人的には嫌いだが、先の東日本大震災を「天罰」と言ったことも、支持はしないけど大外れとも言い切れないところが悔しいのだ。
中国電力小野田火力発電所の横を過ぎて、小野田線沿いに今度は北上する。南小野田駅を過ぎると地名が「セメント町」になり、この辺りが旧小野田セメント発祥の地であることが分かる。
今は太平洋セメント(株)に社名が変わったようだが、明治初期から大正時代まで使われた「徳利窯」を一度見ておきたかったので、立ち寄ってみた。工場正門の横から、見学用の専用歩道が整備してあり、案内板に沿って暫く歩くとやがて見事な釜が見えてくる。
この窯は、平成16年に国指定重要文化財となった産業遺産で、明治時代の殖産政策を如実に反映したものと言えるだろうか。案内板によれば、当時、7昼夜かかって約10トンのクリンカ(セメントの半製品)を製造できたそうな。現在では、1日で3000トンが製造できるそうだが、当時は貴重品かつ最先端の製品であったろうセメントを製造する職人達の意気込みさえ感じられる、堂々とした風貌だ。一見の価値ありぃ~。
南中川駅の手前から県道223号へ入り、日産通りを北上すると「硫酸町」と書かれたバス停が見えるが、恐らく国内でも、こんな物騒な名称の町も珍しいのではないだろうか………と思ったが、隣町の厚狭には「火薬町」なんてぇ更にアブナイ町名もあったなぁ。
以前から気にはなっていたのだが、どうして「硫酸」なのだろうかと思案しつつ有帆川にかかる小野田橋に差し掛かると、橋の手前の小さな広場でその秘密が解明された。
明治時代にこの地で硫酸を製造していた日本舎蜜製造会社(現在の日産化学工業株式会社)に因んで名づけられたようで、かっては、セメント町商店街とともに硫酸町商店街として小野田の中心地であり大いに栄えたようだが、今はその面影は見当たらない。
住居表示としての硫酸町の地名も既に消滅したようで、今ではバス停にのみその名を留めているみたいだ。
で、その製造した硫酸を出荷・運送するための容器として用いられたのが、有帆川のもう少し上流にある旦の皿山地区で作られた陶器の硫酸瓶(写真上)らしい。昭和初期に、市内には30近くの工場と登窯があって、年間百数十万個の硫酸瓶を製陶していたというからすごい。そう言えば、ここの少し南側の小野田労災病院近くに「須恵」という地名があるが、陶器の「すえ」と何か関係があるのかも知れないナ。
今でもここ皿山地区には、既に使われなくなったこの硫酸瓶を大量に並べて積んだ「瓶垣」が残っているそうで、次回は是非これも見に行くことにしよう。
後はそのまま県道を北上し、山陽小野田市役所の横を通って小野田駅までまた舞い戻ってきた。次回は舟木街道の続きで、小野田駅から船木を目指し、更に万倉、吉部、十文字、大田と辿る予定。
⇒舟木街道(小野田⇒船木)へ続く
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