霊の「関東……もとい、長州ウォーキング」

「関東歩き旅」の続編で、「長州歩き旅」を始めました

久しぶりの「駅からハイキング」は、東浦和だっ!

2007年08月19日 | 関東の旅(埼玉県)
⇒岡村家一族 2007年8月19日(日)
猛暑の中、お盆明けの最初の「駅からハイキング」に参加した。JR武蔵野線の東浦和駅前をスタートして、見沼代用水路西縁⇒大牧氷川女躰神社⇒見沼氷川公園/氷川女體神社⇒総持院⇒国昌寺⇒浦和くらしの博物館/民家園⇒見沼通船堀⇒鈴木家住宅⇒東浦和駅と一周する12.5kmのコースで、三時間半掛かって回った。
「見沼代用水路」とは、江戸時代初期の寛永年間に、灌漑用水路として造られたのが初めで、その約100年後に、「見沼新田」と呼ばれる田圃になり、更に、今の行田市近くの利根川から水を取り入れて、総延長90kmにも及ぶ、東西二つの水路となったようだ。この用水路は、途中で、元荒川及び綾瀬川と川同士が立体交差しており、当時の土木技術がかなり高度であったことを偲ばせる。しかし、このような壮大な事業を100年単位で計画実行していくことができるとは、昔の人は、つくづく偉いなぁ~………って言うか、今のエセ政治家・アホ役人には、到底無理…だわナ。

国昌寺では、庭に一際見事な白い花が咲き誇っていた(写真上)。訪れた誰もが、「この花、何て言う花なんですかネ?」と言い合っていたが、誰も答える人がおらず、ついに名前は分からないままだった。誰か知っていたら、教えてくれぃ。
「見沼通船堀」(写真下)は、東西の代用水路と、それに挟まれた排水用の芝川との間を船で行き来できるように、3mの水位差を克服する為に造られたものだ。東西両方に2ヶ所づつ関を設けて、水位を調節しながら船を進ませる方法をとっていて、これは、パナマ運河と原理的に全く同じ方式で、我が国最古の閘門式運河だそうな。水路の規模が違うとは言え、パナマ運河よりも200年以上も前に、既に実用に供していたことを考えると、江戸時代の土木職人には脱帽するしかないナ。

ゴールの東浦和駅前に戻ってもまだ疲れを感じないので、ついでに武蔵野線沿いに東進してみた。カンカン照りの猛暑の中なので、体調に異常を感じたら直ぐにリタイアしようと思ったが、東川口も過ぎて二時間程歩いたら、東武線の新越谷駅に着いたので、ここから東武線に乗って帰ることにした。延べ5時間半の35,332歩だった。「老人シミ」にならないように、顔には日焼け止めを塗って、帽子を目深に被り、更にタオルは頭からすっぽり被って目だけを出した状態で歩いたので(…ン?怪しいナァ)、顔には日焼けは出来なかったが、肘から手の甲にかけては見事に真っ黒になってしまったのだ…ハハハ。

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