その後おかわりありませんか。12月となっても沖縄はまだ扇風機が欠かせません。明日からは少し気温も下がりそうです。名護方面に一泊でドライブしたので、黒岩恒の碑をやっと見つけました。僕もブログに書く予定ですが、先に高知の人にもお知らせしたいと思い、拙文と写真を送ります。
沢村
黒岩恒さんの顕彰碑を見ました
「知られざる高知人」として以前、紹介した黒岩恒さんの顕彰碑が名護市内で建立されているのを、見てきました。
黒岩さんは、佐川町立野の生まれで、明治25年(1892)沖縄師範学校教諭として赴任し、明治35年に国頭(くにがみ)郡各間切組合立農学校の創立にあたり、初代農学校長に迎え入れられました。「間切」というのは、現在の町村にあたる単位です。
博物学者だった黒岩さんは、沖縄に28年間いた間に、沖縄の動植物から地質、民俗など広く関心を持ち調べて、たくさんの新種を発見したことで知られます。「クロイワ」と名のつく動植物は、数十種類もあるそうです。
最近、話題の尖閣諸島を調査し、尖閣諸島を命名したことでも知られ、尖閣諸島問題がクローズアップされるにつけ、命名者の黒岩さんも新たな注目を集めているようです。
黒岩恒先生顕彰碑
この顕彰碑は、名護市大中の県立北部病院の駐車場の敷地内にあります。黒岩さんが初代校長を務めたこの農学校は、日本三大農学校の一つとしてその名声を博し、幾多の有為な人材を輩出したと言われます。黒岩さんは教え子たちにとても慕われていたようです。
顕彰碑は、昭和43年(1968)に「黒岩恒先生顕彰会」が建立したものです。碑文では「沖縄在住二十八年、其の間十有三年間の農学校長としての功績が最も顕著であり、文部省から選奨の栄誉に浴し、またそのすぐれた薫陶を与えた教え子四百余名を農民指導者として社会に送り出し、自からその最高指導者となり、農産物、有用植物、家畜等優良品種の導入増殖普及に努力、原始的であった沖縄の農法を科学的近代農法へ改革する基礎を創始した」と記しています。
漢詩が刻印された顕彰碑の裏面
碑の裏面には、明治40年(1907)、昆虫植物採集の帰途、名護市(当時は町)許田(きょだ)付近で詠んだ漢詩を刻んでいます。漢詩は、風光明美な名護湾と付近の風景を称賛した内容です。
黒岩さんが初代校長を務めた国頭農学校跡の碑、左隣りに見えるのは黒岩恒先生顕彰碑
黒岩さんの顕彰碑の左隣りには、この漢詩を別の碑として建立してあり、右隣には、初代校長を務めた「国頭郡各間切島組合立甲種国頭農学校跡」の碑が、一昨年(2008年)に同窓会によって建立されたばかりです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます