犯人の靴を特定するプロ「足痕跡副鑑定官」に初の女性 大阪府警(毎日新聞) - Yahoo!ニュース


犯人の靴を特定するプロ「足痕跡副鑑定官」に初の女性 大阪府警
10/10(木) 20:47配信
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毎日新聞
ライトで採取シートを照らし、足跡を浮かび上がらせる上野梓さん=大阪市中央区で2024年10月10日午後2時33分、林みづき撮影
大阪府警は10日、一般職員の上野梓さん(32)を府警で女性として初めての「足痕跡副鑑定官」に指定した。高い技術や専門性が評価された。上野さんは「女性だからといって、できない仕事はないと思う。今後も技術を磨いていきたい」と意気込んだ。
警察は鑑識活動に携わる人の中で、高度な専門性を備えた人材を「鑑識鑑定官」として指定している。警察官、一般職員を問わず選ばれ、鑑定官は裁判の証拠となる鑑定書の作成が可能。副鑑定官も鑑定官と一緒なら作ることができる。
担当は指紋などを調べる指掌紋係や、現場の状況を精密に記録する写真係などに分かれる。上野さんの足跡係は現場に残された足跡を数万通りとされる靴裏の形状と比べ、容疑者が履いていた靴を特定することなどが役目だ。
上野さんは岸和田市出身。幼い頃から「悪い人を捕まえ、困った人を助けたい」と警察官に憧れた。ただ、小柄で体力面も不安があったことから断念。「サポートする仕事も向いているかもしれない」と考え、2015年から一般職員として働き始めた。
転機は警察署の会計課にいた時。鑑識の足跡係を務めたことのある上司から、足跡鑑定の奥深さを教わった。自分も同じ仕事がしたいと熱望。19年春に府警本部鑑識課への異動がかなった。
最初はシートに残された跡のようなものが、ほこりなのか足跡なのかも分からなかった。雨にぬれたり、幾重にも重なったりした足跡は靴の特徴を浮かび上がらせるのが難しく、同じ足跡と1カ月近くにらめっこしたことも。しかし、持ち前の根気強さで細かな違いも見分けられるようになり、いまや1年間に数千件の足跡を取り扱う。
印象に残っているのは鑑識課4年目に起きた事件。女子大生が路上で男性に額を蹴り上げられる被害に遭った。上野さんは女子大生の額に残った足跡の一部から容疑者の靴を割り出し、容疑者の犯行を裏付ける助けをした。「被害者の心の痛みを少しだが取り除けた気がした」
上司の矢野登志夫・鑑識課長は「上野さんは日々愚直で、きめ細やか。足跡鑑定は根気のいる作業だが、事件解決の根幹を支えている」と激励する。上野さんは「副鑑定官に指定されとてもうれしい」と目を輝かせた。【林みづき】
10/10(木) 20:47配信
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毎日新聞
ライトで採取シートを照らし、足跡を浮かび上がらせる上野梓さん=大阪市中央区で2024年10月10日午後2時33分、林みづき撮影
大阪府警は10日、一般職員の上野梓さん(32)を府警で女性として初めての「足痕跡副鑑定官」に指定した。高い技術や専門性が評価された。上野さんは「女性だからといって、できない仕事はないと思う。今後も技術を磨いていきたい」と意気込んだ。
警察は鑑識活動に携わる人の中で、高度な専門性を備えた人材を「鑑識鑑定官」として指定している。警察官、一般職員を問わず選ばれ、鑑定官は裁判の証拠となる鑑定書の作成が可能。副鑑定官も鑑定官と一緒なら作ることができる。
担当は指紋などを調べる指掌紋係や、現場の状況を精密に記録する写真係などに分かれる。上野さんの足跡係は現場に残された足跡を数万通りとされる靴裏の形状と比べ、容疑者が履いていた靴を特定することなどが役目だ。
上野さんは岸和田市出身。幼い頃から「悪い人を捕まえ、困った人を助けたい」と警察官に憧れた。ただ、小柄で体力面も不安があったことから断念。「サポートする仕事も向いているかもしれない」と考え、2015年から一般職員として働き始めた。
転機は警察署の会計課にいた時。鑑識の足跡係を務めたことのある上司から、足跡鑑定の奥深さを教わった。自分も同じ仕事がしたいと熱望。19年春に府警本部鑑識課への異動がかなった。
最初はシートに残された跡のようなものが、ほこりなのか足跡なのかも分からなかった。雨にぬれたり、幾重にも重なったりした足跡は靴の特徴を浮かび上がらせるのが難しく、同じ足跡と1カ月近くにらめっこしたことも。しかし、持ち前の根気強さで細かな違いも見分けられるようになり、いまや1年間に数千件の足跡を取り扱う。
印象に残っているのは鑑識課4年目に起きた事件。女子大生が路上で男性に額を蹴り上げられる被害に遭った。上野さんは女子大生の額に残った足跡の一部から容疑者の靴を割り出し、容疑者の犯行を裏付ける助けをした。「被害者の心の痛みを少しだが取り除けた気がした」
上司の矢野登志夫・鑑識課長は「上野さんは日々愚直で、きめ細やか。足跡鑑定は根気のいる作業だが、事件解決の根幹を支えている」と激励する。上野さんは「副鑑定官に指定されとてもうれしい」と目を輝かせた。【林みづき】
「連帯保証で4000万円の借金」大学中退、実家は売却…それでも「不思議と絶望感はなかった」と語る女性の現在 (msn.com)
10/15/2024

連帯保証人で父親にある日、突然4000万円の借金が。精神的にも経済的にもつらい日々を過ごした西真央さん。大学生だった彼女はこの途方もない金額と直面しながらも、「そこまで絶望感がなかった」と当時を振り返ります。(全3回中の1回)
いきなり父が4000万円の借金を背負うことになった

当時は完全ギャルだった大学時代の西真央さん
── 大学時代に、親の借金返済のために中退せざるを得なくなってしまったそうですね。どんないきさつがあったのでしょう?
西さん:父は工務店を営んでおり、私も「いずれは仕事を継ぐのかな」と思って育ちました。高校卒業後は国立京都工芸繊維大学に進学。工学部に所属して建築やデザインなどを学んでいたのですが、大学3年生のときに父が突然、4000万円の借金を背負うことになり、人生が一変しました。
── なぜ、いきなり多額の借金を背負うことに?
西さん:父が親戚の連帯保証人になっていたのですが、その人が自己破産をしたため、わが家に借金が降りかかってきたんです。すぐに家族会議があり、親から「もしも私(親)に何かあった場合、子どもである私に借金が相続される」と告げられ、衝撃を受けました。とはいえ、学生だったこともあって4000万円という金額の大きさに実感がわかず、何年くらい働ければ返せるのか、本当に返済可能な額なのかも検討がつかない状態。家族全員混乱した状況でしたが、私が「しっかり支えていかなくては」と感じていました。
── 大変でしたね。相手の方と話し合いはされたのですか?
西さん:はい。話し合いの場には私も参加しました。聞けば、家族の病気や事故などの不幸なできごとが重なって、借金が膨れ上がってしまったとのこと。自己破産をすれば借金が消えると思っていたらしく、連帯保証人である父が返済義務を負うことになるとは知らなかったと謝罪されました。しかも、「生活するだけで精一杯で返済するのは難しい」と言われてしまって。
事情は理解しましたが、うちがすべて肩代わりするのも大変ですし、少しでも支払う意欲を見せてもらいたい気持ちもあり、「少しずつでも返済できる方法はないか?」と話したのですが、折り合いがつきませんでした。話し合いはサイゼリヤで行ったのですが、店内の明るい雰囲気とは裏腹に、私たちの席だけ重苦しい空気が漂い、なかなか壮絶でしたね。
結局、その後の平行線をたどり、私たち家族が借金を返済するはめに。もともと父はお人好しで頼みごとを引き受けがちなタイプなんです。ただ、このできごとをきっかけに、夫婦ゲンカが増えて家庭内がぎくしゃくし、後に住んでいた家を手放すことになるなど、経済的にも精神的にも苦しい数年間でした。
「借金の肩代わり」不思議と絶望感はなかった
──「なぜ自分が犠牲にならなくてはいけないの?」と怒りがわきそうな状況ですね。
西さん:もちろん納得できない気持ちもありましたが、怒りというよりは「これからどうしていくか」を現実的に考えなくてはいけない状況でした。それに、大変ではありましたが、不思議と絶望感はなかったんです。父も会社をやっているし、私も大学を辞めてお金を稼げばなんとかなるだろうと、意外に前向きでした。振り返れば、何も知らない20歳の若者だからこそ、わが身に降りかかったことに現実味がなく、楽観的に考えられたのかもしれません。もしも、いま4000万円の借金を突然抱えることになったらと思うと、恐ろしいです(笑)。

幼少期の西真央さん
幼少期のころ。工務店を営む大好きな父親と
── つらい状況の中でも前を向く気持ちを失わない。気丈でいらっしゃいますね。
西さん:昔からわりと、自分の力で生きていきたい気持ちが強いタイプでした。親からも「高校までは責任を持って育てるけれど、成人したら自力で頑張って」と言われて育ちましたし、大学の学費もバイト代から支払っていました。親は「払う」と言ってくれましたが、「お金を出してもらう=自分の人生の決定権を委ねる」ことになる気がしていたんです。
── その後、1年間の休学を経て、大学中退を決断されました。休学されたのは、どういう思いがあったのでしょう?
西さん:当初は借金返済のために、大学をすぐに辞めてお金を稼がなければと思っていました。ですが、当時所属していたラボの教授に相談したところ、「そういう事情であれば、とりあえず1年間休学してみたら?実際に働いてみて、そのまま社会でやっていけそうな手応えが得られてから、辞めてもいいのでは?」とアドバイスしてくださいました。
たしかに、自分が社会に出てどれくらい稼ぐことができるのかわからなかったし、退学に迷いもあったので、「そういう選択肢があるならやってみよう」といったん休学することに。当時、アルバイトをしていたウェブ制作会社に事情を話したところ、正社員として雇ってもらえることになりました。
「働くことは自分に向いている」大学の退学を決意して
── 実際に1年間働いてみて、手応えはいかがでしたか?
西さん:雇っていただいたからには、会社の売上げに貢献したいし、自分がどこまでやれるかも試したくて、精一杯働きました。担当していたのは、Web制作とデザイン。もともと自分がやりたかったのは建築デザインでしたが、新しい「なにか」を生み出して世の中に送り出すという点では、インターネットの世界も建築も同じ。「やっぱり私はモノづくりが好きなんだな」と実感しました。自分の頑張りが成果として数字やお金に反映され、目標を達成したときには大きな充実感が得られる。お客様からの感謝の言葉がやりがいにつながり、「働くことは自分の性にあっているんだな」と心から感じることができたので、大学4年生を目前に退学を決めました。

会社員時代の西真央さん
ウェブ制作の会社員時代。働きながら親の借金を返済していたころ
そのころになると、当初は借金を抱えて沈み込んでいた両親も、「こうなったら頑張ってやっていくしかない」とポジティブになり、家庭の雰囲気もいい方向に向かうように。家族が一丸となって頑張ったことで、借金は数年で完済することができました。
── 休学期間の経験から、仕事の楽しさに目覚めたのですね。大学生活に未練はなかったですか?
西さん:みんながSNSで楽しそうに卒業旅行の相談をして盛り上がっているのを見て、「うらやましいな…」と寂しさを感じたことはありましたが、復学したいとは思いませんでした。
休学中に感じたのは、私は「大学卒業」という肩書きにとらわれていたのだなということでした。それまで、社会で生きていくためには、大学卒業の肩書きが必須だと考えていたんです。ですが、実際に働いてみると、仕事で実力をつけて成果を出すことができれば、肩書がなくても社会で戦っていけると実感しました。1年間休学して、社会人として「お試し期間」を設けたからこそ、わかったことでしたね。あのとき、背中を押してくださった教授には、本当に感謝しています。
PROFILE 西 真央さん
にし・まお。1992年兵庫県出身。国立京都工芸繊維大学に在学中、親が4,000万円の借金を抱え、大学中退を余儀なくされる。その後入社したIT企業でwebデザインおよびweb制作の業務を担当。2018年に退社し、web制作の経験を活かして友人3人と現在の株式会社アンドエーアイを起業。業界初の”iPhoneとAndroidアプリの同時開発専門"のアプリ開発会社として注目されている。
取材・文/西尾英子 写真提供/西 真央
いきなり父が4000万円の借金を背負うことになった

当時は完全ギャルだった大学時代の西真央さん
── 大学時代に、親の借金返済のために中退せざるを得なくなってしまったそうですね。どんないきさつがあったのでしょう?
西さん:父は工務店を営んでおり、私も「いずれは仕事を継ぐのかな」と思って育ちました。高校卒業後は国立京都工芸繊維大学に進学。工学部に所属して建築やデザインなどを学んでいたのですが、大学3年生のときに父が突然、4000万円の借金を背負うことになり、人生が一変しました。
── なぜ、いきなり多額の借金を背負うことに?
西さん:父が親戚の連帯保証人になっていたのですが、その人が自己破産をしたため、わが家に借金が降りかかってきたんです。すぐに家族会議があり、親から「もしも私(親)に何かあった場合、子どもである私に借金が相続される」と告げられ、衝撃を受けました。とはいえ、学生だったこともあって4000万円という金額の大きさに実感がわかず、何年くらい働ければ返せるのか、本当に返済可能な額なのかも検討がつかない状態。家族全員混乱した状況でしたが、私が「しっかり支えていかなくては」と感じていました。
── 大変でしたね。相手の方と話し合いはされたのですか?
西さん:はい。話し合いの場には私も参加しました。聞けば、家族の病気や事故などの不幸なできごとが重なって、借金が膨れ上がってしまったとのこと。自己破産をすれば借金が消えると思っていたらしく、連帯保証人である父が返済義務を負うことになるとは知らなかったと謝罪されました。しかも、「生活するだけで精一杯で返済するのは難しい」と言われてしまって。
事情は理解しましたが、うちがすべて肩代わりするのも大変ですし、少しでも支払う意欲を見せてもらいたい気持ちもあり、「少しずつでも返済できる方法はないか?」と話したのですが、折り合いがつきませんでした。話し合いはサイゼリヤで行ったのですが、店内の明るい雰囲気とは裏腹に、私たちの席だけ重苦しい空気が漂い、なかなか壮絶でしたね。
結局、その後の平行線をたどり、私たち家族が借金を返済するはめに。もともと父はお人好しで頼みごとを引き受けがちなタイプなんです。ただ、このできごとをきっかけに、夫婦ゲンカが増えて家庭内がぎくしゃくし、後に住んでいた家を手放すことになるなど、経済的にも精神的にも苦しい数年間でした。
「借金の肩代わり」不思議と絶望感はなかった
──「なぜ自分が犠牲にならなくてはいけないの?」と怒りがわきそうな状況ですね。
西さん:もちろん納得できない気持ちもありましたが、怒りというよりは「これからどうしていくか」を現実的に考えなくてはいけない状況でした。それに、大変ではありましたが、不思議と絶望感はなかったんです。父も会社をやっているし、私も大学を辞めてお金を稼げばなんとかなるだろうと、意外に前向きでした。振り返れば、何も知らない20歳の若者だからこそ、わが身に降りかかったことに現実味がなく、楽観的に考えられたのかもしれません。もしも、いま4000万円の借金を突然抱えることになったらと思うと、恐ろしいです(笑)。

幼少期の西真央さん
幼少期のころ。工務店を営む大好きな父親と
── つらい状況の中でも前を向く気持ちを失わない。気丈でいらっしゃいますね。
西さん:昔からわりと、自分の力で生きていきたい気持ちが強いタイプでした。親からも「高校までは責任を持って育てるけれど、成人したら自力で頑張って」と言われて育ちましたし、大学の学費もバイト代から支払っていました。親は「払う」と言ってくれましたが、「お金を出してもらう=自分の人生の決定権を委ねる」ことになる気がしていたんです。
── その後、1年間の休学を経て、大学中退を決断されました。休学されたのは、どういう思いがあったのでしょう?
西さん:当初は借金返済のために、大学をすぐに辞めてお金を稼がなければと思っていました。ですが、当時所属していたラボの教授に相談したところ、「そういう事情であれば、とりあえず1年間休学してみたら?実際に働いてみて、そのまま社会でやっていけそうな手応えが得られてから、辞めてもいいのでは?」とアドバイスしてくださいました。
たしかに、自分が社会に出てどれくらい稼ぐことができるのかわからなかったし、退学に迷いもあったので、「そういう選択肢があるならやってみよう」といったん休学することに。当時、アルバイトをしていたウェブ制作会社に事情を話したところ、正社員として雇ってもらえることになりました。
「働くことは自分に向いている」大学の退学を決意して
── 実際に1年間働いてみて、手応えはいかがでしたか?
西さん:雇っていただいたからには、会社の売上げに貢献したいし、自分がどこまでやれるかも試したくて、精一杯働きました。担当していたのは、Web制作とデザイン。もともと自分がやりたかったのは建築デザインでしたが、新しい「なにか」を生み出して世の中に送り出すという点では、インターネットの世界も建築も同じ。「やっぱり私はモノづくりが好きなんだな」と実感しました。自分の頑張りが成果として数字やお金に反映され、目標を達成したときには大きな充実感が得られる。お客様からの感謝の言葉がやりがいにつながり、「働くことは自分の性にあっているんだな」と心から感じることができたので、大学4年生を目前に退学を決めました。

会社員時代の西真央さん
ウェブ制作の会社員時代。働きながら親の借金を返済していたころ
そのころになると、当初は借金を抱えて沈み込んでいた両親も、「こうなったら頑張ってやっていくしかない」とポジティブになり、家庭の雰囲気もいい方向に向かうように。家族が一丸となって頑張ったことで、借金は数年で完済することができました。
── 休学期間の経験から、仕事の楽しさに目覚めたのですね。大学生活に未練はなかったですか?
西さん:みんながSNSで楽しそうに卒業旅行の相談をして盛り上がっているのを見て、「うらやましいな…」と寂しさを感じたことはありましたが、復学したいとは思いませんでした。
休学中に感じたのは、私は「大学卒業」という肩書きにとらわれていたのだなということでした。それまで、社会で生きていくためには、大学卒業の肩書きが必須だと考えていたんです。ですが、実際に働いてみると、仕事で実力をつけて成果を出すことができれば、肩書がなくても社会で戦っていけると実感しました。1年間休学して、社会人として「お試し期間」を設けたからこそ、わかったことでしたね。あのとき、背中を押してくださった教授には、本当に感謝しています。
PROFILE 西 真央さん
にし・まお。1992年兵庫県出身。国立京都工芸繊維大学に在学中、親が4,000万円の借金を抱え、大学中退を余儀なくされる。その後入社したIT企業でwebデザインおよびweb制作の業務を担当。2018年に退社し、web制作の経験を活かして友人3人と現在の株式会社アンドエーアイを起業。業界初の”iPhoneとAndroidアプリの同時開発専門"のアプリ開発会社として注目されている。
取材・文/西尾英子 写真提供/西 真央