いつもなら、見逃していたような出来事・・・。
ふと、道を歩いていると、前方に若い親子連れ。
お母さんは、0歳児を抱きかかえながら、ゆっくり歩く。
その後ろを、3歳くらいの男の子が遊びながら歩いている。
男の子が何を思ったのか、ふと立ち止まる。
「ママ・・・」
母親が立ち止まる。
「ママ・・・、さむくない?」
母親の表情が、一瞬、固まっていた。
何を言われたのか、理解できず、キョトンとした顔。
「・・・ママ、さむくない?」
もう一度、子供に言いわれ、表情がほころぶ。
「○○ちゃん、ママは寒くないよ。○○ちゃんは、寒くない?」
「へいき。さむくないよ」
なんてことのない、日常の風景。
でも、恥ずかしながら、泣きそうになった。
たぶん、母親の表情から想像すれば、そういったことを言われたのが初めてだったんじゃないかな。
「ママ、さむいよ」
ではなく、
「ママ、さむくない?」
言葉としては、些細な語尾変化にすぎないが、心理的成長として考えるなら、すごいことだ。
つまり、自分が寒い時は、他人(母親)も寒いのではないか?と類推しているってこと。
相手を思いやる気持ち、つまり「愛」を言葉にできた瞬間。
その瞬間に立ち会えたってことに、私は泣きそうな気持ちになった。
男の子の声は、決して大きいものではなかったが、後ろを歩いていた、私の脳に鋭く突き刺さった。
子供の無垢な声が、穢れた大人の脳に突き刺さったのだろうか?
不思議な感情のゆれが、そこには存在した。
たぶん、こうした一瞬一瞬の出来事が、親子愛の基礎になるんじゃないかな。
意識するしないに関わらず、脳にこういった情景が焼き付いてしまうと、どんなに“ろくでなし”の子供でも、無償の愛が生まれる気がする。
まさに、どうってことのない出来事。
でも、そういったことの中にこそ、心に響く“真実”があるんでしょうね。