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整体はエンターテインメント!からだを楽しんでみませんか?

不安は不安のままに

2015年09月19日 | まるたけ人生論 

整体院に来てくださるクライアントさんからお話を聞くと、最近は小中学生でも情報社会にどっぷりつかっているそうです。
情報を利用しているだけならいいのですが、利用しているというより中毒になっている“情報依存症”の子供さんが多いように思えます。

常に最新の情報がないと不安で仕方がない…。
ホント情報が危険ドラッグ化していますよね。

本当は最新の情報なんてなくたって、何の問題もありません。
友達と連絡なんか取れなくたって、楽しく生きていけます。

子供も大人も不安があった当たり前。
解消するはずのない不安を解消しようとするから、ますます精神的にしんどくなってしまいます。

不安は不安のままに。

不安を無理に解消するのではなく、不安とうまく付き合っていくのが“人間の知恵”だと思うのですが。


by marutake










人生というもの。

2015年07月05日 | まるたけ人生論 
永遠のように思えていて、実はあっけなく終わりを迎えるもの。

それが人生というもの。


新幹線で焼身自殺した男の巻き添えでなくなった女性。

伊勢神社に行く途中で、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかったでしょう。

でもそれが人生というもの。


DropBoxの創業者ドリュー・ヒューストンさんが、「人生はたった3万日しかないんだから、完璧を目指すより冒険をしよう!」といった内容の発言をされているが、まさにその通り。

でも実際にはその3万日すらないかもしれない。

それが人生というもの。


人生を何回か経験することが可能であきれば、「人生とはこういうことだよ」と語る権利もあるのでしょうが、人生はどんな人間にもたった一度きりのもの。

誰にも語る権利すらない。

それが人生というもの。


それでも何か語りたくなる。

それもまた人生というもの。


by marutake








少年法 ~立場が成長を促す~

2015年03月06日 | まるたけ人生論 
未成年者の凶悪な事件が起こる度に話題になるのが、少年法の存在。
いろいろ問題のある法律ですが、一番議論の対象になるので年齢。
現在の「20歳未満は少年である」という基準が変なのではないか、というところです。

何歳まで子供で、何歳から大人なのか?
結論から言えば、どこに基準をもっていったところで反対する人はいるでしょうね。

個人的な見解から言えば、「15歳未満が子供」でいいと思います。
義務教育の中学生までが子供扱いということで。

「あなたは子供なんです」という扱いをしている限り、何歳になっても人間はコドモのまま。
引きこもっている人間は、周囲がコドモとして扱い続けているので、大人になってもコドモとしての振る舞いを続けているわけですからね。

部活であっても仕事でも、キャプテンやリーダーといった立場を与えられれば、それなりにその役割を果たそうとするのが人間。
親が始めから親らしい存在なわけではなく、子育てをすることによって徐々に親らしくなっていくのと同じですね。

日本伝統の大人としての通過儀礼である「元服」も、だいたい15歳くらい。
しかも当時は数え年ですから、現在の15歳より若いわけです。

責任を持たせることで、成長が促される。
10代後半にもなっている人間をコドモとして扱うから、いつまでたっても大人になりきれないのではないでしょうか。


by marutake




「神を信じること」 と 「神を語る人を信じること」

2015年02月06日 | まるたけ人生論 
日本人は無神論者が多いと言いますが、実際にはそうでもないと思います。

「特定の神さま」は信じていなくても、「不特定の神さま」の存在は信じていますよね。

諸外国との違いで言えば、日本人のイメージする神は「救ってくれる神さま」ではなく、「畏敬の念を抱く(=おそれうやまう)神さま」って感じです。


個人的には神の存在を信じたくなる心理は理解できます。

ただ神を語る人を信じる気持ちは理解しがたいですね。

どんなに偉いとされる人でも、所詮「人は人」をいう思いがありますから。



「人は人」という発想は決して人の価値を軽んじたり蔑んでいる訳ではなく、事実をただ確認しているだけ。

「人は人」という発想には良いも悪いもありませんから。

あるがままの事実をあるがままに受け入れる、ということです。


神は信じても、神を語る人は信じない。

信仰とは各個人が主体的に信じることであり、他人から与えられるものではない。

主体性のある信仰心をもてば、大きな過ちは減るのではないでしょうか。

小さな過ちまでなくなることは不可能だとしても…。


by marutake


差別心と差別行為

2014年03月14日 | まるたけ人生論 
浦和レッズのサポーターの「Japanese only」という横断幕が人種差別的だということで、ペナルティとしてホームゲームが無観客試合になるそうです。

「人種差別はよくないこと」という思想には、多くの人が反対しないでしょう。

けれど、実際には差別はなくなりませんよね。


ここで考えなくてはいけないのは、差別を分けて考えること。

差別とは「差別する心」と「差別する行為」に分けて考えることができます。

差別する心は、まずなくなりません。

これは仕方がないことです。

「愛」には必ず「憎しみ」の感情が共存するようなもの。

贔屓のチームを応援するということは、少なからず他のチームに対して敵対心が生まれるものですから。


自分以外の人間を差別する。

自分に近い存在以外を差別する。


これは生き物として当たり前の感情だと思います。

自分に近い存在に親近感を覚えないなんて、ありえませんから。

ただ、だからといって差別していいわけではありません。

感情のままに動くのは、人間としてカッコ悪いからですからね。


どんなんに差別心があっても、行為にはしないこと。

差別行為をしなければ、少しずつ差別心も少なくなっていくものです。

「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」と同じ理屈ですね。


どんなには嫌いでも、それを行動にあらわさないこと。

それが大人のカッコよさです。






本日、まるたけ6周年! ~整体は、羅針盤~

2013年03月25日 | まるたけ人生論 
3月25日は、まるたけ開業記念日!

2007年に開業しましたから、本日で6周年ですね。

“あっという間”というフレーズは、ありがちすぎて使いたくないのですが、やはり“あっという間”でした(笑)。

“新しもん好き”という自分の性格からすれば、そろそろ整体という仕事に飽きてもおかしくはないのですが、いまだに興味津々です。


私にとって整体は、人生の羅針盤。

人間の心や考え方なんて、時代によって、また本人の状態によって、コロコロ変わってしまうもの。

でも、整体の対象である人体にはブレがないですからね。


太古の昔から続く人体というテキストを読み解くのが、整体の役割。

人間(ココロ)には“嘘”がつきものですが、人体(カラダ)には“嘘”がない。

人間(ココロ)の相手をするよりも、人体(カラダ)と向き合うほうが、素敵なことだと思っています。










午前様な毎日で。

2012年08月22日 | まるたけ人生論 
先日、常連のクライアントさんから、
「毎日、夜9時までの営業って、大変ね」
というねぎらいのお言葉をいただきました。

でも実際には、毎日帰宅するのは午前様なのですが(笑)。

お店を移転してから、本当にやることが尽きません。
「あれもしなきゅ、これもしなきゃ」
と空回ってばかりです。

でも、自分でしたいようにできることは、本当に幸せなんだと思います。

お店がどういうものになるにせよ、結局はすべて自分の責任です。
数年前、「自己責任」なんて言葉がもてはやされましたが、自営業をしていると「そんなの当たり前じゃん」と思ってしまいます。

世間が悪いわけでもない。
政治が悪いわけでもない。
景気の問題でも、運の問題でもない。
どういう結果になるにせよ、すべて自分の責任です。

うまくいくかどうかなんて、誰にもわからない。
だからこそ、人間にできることは、最善を尽くして結果を待つしかないんですよね。


生きることは、ギャンブル。
取り返しのつかないギャンブルです。

賭けるものは、自分の人生。
これ以上に本気になれる賭け事なんて、ほかにはないでしょうね。

競馬や競輪、競艇なんかに行くよりも、自分自身の人生を賭けて毎日を生きるほうが、素敵だと思いますね。



バーチャルリアリティは、不機嫌の元。

2011年11月14日 | まるたけ人生論 
バーチャルリアリティ。
日本語では、「仮想現実」と訳される。

しかし「バーチャル(virtual)」は、「仮想の」という意味ではなく「実質上の・事実上の」という意味。
ただ「実質上の現実」といっても、ピンときませんから、「仮想現実」という訳も悪くはないのですが。

情報化社会が進むと、バーチャルリアリティの割合が増加する。
現実(リアル)より、現実っぽいこと(バーチャルリアリティ)のほうが、リアルに感じてしまう。

とはいえ、どこまでいっても、バーチャルはバーチャルに過ぎない。
頭ではより現実的だと感じても、身体はその“嘘”を見透かしてしまう。

脳がいくら身体をごまかそうとしても、身体はそれほどバカじゃない。
バーチャルリアリティという“嘘”が積み重なってくると、身体にはモヤモヤした不快感が蓄積されてしまう。

このモヤモヤ感こそ、不機嫌の元。
アタマではなくカラダが感じた不快感なので、思考という手段では原因が理解しにくい。
だから、やり場のないイライラを感じている人が増えてきているのでしょう。

過食症(拒食症)やリストカットも、バーチャル世界が増えすぎたことに対する反動。
身体に“苦しみ”という根源的な現実を突き付けることによって、生きている実感を取り戻そうとする行為なんでしょうから。

バーチャルが悪いのではなく、それ一辺倒になっていることがよくないということです。

不機嫌から脱するためには、身体がご機嫌になれる環境を整えること。
現代人の問題点は、「栄養不足」ならぬ「現実不足」なんでしょうね。

歌に力があるのか? 悩みに本質がないのか?

2011年11月04日 | まるたけ人生論 
「歌で日本を元気に!」

年末になると、そういった雰囲気の番組が増えます。

あまのじゃくな性格のためか、こういった使い古されたフレーズを聞くと、どうもムズムズしちゃいますね。
「歌にそんな力があるのか?」と。

実際問題として、歌によって元気づけられる人がいるのは事実です。
でも、だからといって、「歌には力がある」という結論に至るのは早計でしょう。

「歌によって元気になる」とはどういうことか?
「悩んでいることが、少し軽くなる」といった感じのことではないでしょうか。

となると、もともとの元凶である「悩み」が、「本質的な苦しみではない」という可能性が出てきます。
だって、本質的な問題と関係がない歌によって、変化する類のものですから。

本質的な苦しみである「身体的苦痛」や「空腹」のとき、歌によって何か変わるのでしょうか?
物理的条件は、何も変わらないです。

ただ人間が悩んでいることは、本質的な苦しみばかりではなく、本人が生み出した幻想としての「苦しみ」も多いので、歌によって変化することもあるのでしょう。

「悩み」の多くは、幻想の苦しみ。
本人が勝手に作り出した、あるはずもない苦痛。

だからこそ、同じく人間が好き勝手に生み出した「歌」で癒されるんでしょうね。

歌に力があるのではなく、悩みに本質がないだけ。
本気で元気になりたいのなら、歌に変な期待をするのではなく、自分で生み出した「悩み」と真正面から向き合べきでしょう。

師の教え 「自分はだませない」

2011年03月01日 | まるたけ人生論 
カイロプラクティックの専門学校が、この仕事の出発点。

いま現在、カイロらしきことはしていない。
無理に解釈すれば、カイロプラクティックの数あるテクニックの内の「レセプター・トーヌス・テクニック(ニモ・テクニック)」に近い方法論かな?
個人的には「効果があればなんでもOK」と思っているので、名称にこだわりはないですね。

専門学校時代、全くもって優秀な生徒ではなかった。
志があるわけでもなく、テクニックがうまいわけでもない。
ただなんとなく2年間が過ぎていった、という感じ。
よくよく考えると、今なおこうしてこの業界にいるのが不思議。

学んだことがどれだけ身に付いたのかは分からないが、心に残った言葉がある。

「自分をだますことはできない」

もしかしたら、表現が違っているかもしれない。
心に残ったとか何とか言っているわりに、なんなんですが(笑)。

でも、そのお話を聞いてから10年くらい経つが、「本当にそうだな」としみじみ思う。

他人をだますことはできる。
本当にだまし通せるかどうかは別として、表面上は嘘で固めることもできる。

けれど、嘘をついたという自覚のある自分を、だますことはできない。
その事実からは、どうやっても逃れることができない。

せめて今日一日だけでも、自分のことを好きになれる行動をしよう。
そう思いながら、自分で自分を嫌いになることをしてしまうのですが…。

せめて今日一日だけは、自分に嘘をつかないでいたい。
せめてこの一時間だけは、自分に嘘をつかないでいたい。
せめて今この瞬間だけは、自分に嘘をつかないでいたい。

師の教えを理解するだけじゃ、なんにもならない。
実行してこそ、教えに命が宿るのですから。

「おいしいものを食べる」ためではなく、「おいしくものを食べる」ためにできること。

2011年02月13日 | まるたけ人生論 
おいしい食べ物などない。
絶対においしい食べ物など、存在しない。

おいしい、おいしくないは絶対的な評価ではなく、相対的な評価。
食べる人間の状態により、評価は一変する。

どんなにおいしい料理でも、満腹になれば、おいしくない料理に変わる。
ただの水でさえ、乾ききった体には“甘露”に感じられる。

おいしい食べ物を求めだすと、常に欲求不満になる。
それは、食べ物自体に「おいしい」という絶対価値が存在しないから。

欲求不満にならないためには、「おいしいものを食べる」という発想から、「おいしくものを食べる」という発想に切り替える必要がある。

言いかえれば、主語を“食べ物”から“自分”に変えるということ。
「食べ物がおいしい」から、「私が(食べ物を)おいしいと思う」というように。

「おいしいものを食べる」から、「おいしくものを食べる」へ。
「美しい景色を見る」から、「美しく景色を見る」へ。
「楽しい人生を生きる」から、「楽しく人生を生きる」へ。

あらゆるものは美しく、あらゆるものが面白い。
そう感じられる自分でいられるのであれば。

躾は財産です。

2010年01月14日 | まるたけ人生論 
子供にとって、親からああだこうだ言われるほど、うっとうしいものはない。
しかし、そんな「うるさい」と思えることも、大人になると役に立つことがある。

躾(しつけ)なんて、まさにそれ。

人間の印象は、まず「顔」である。
人間は顔じゃない・・・なんていう人もいるが、そんなことはない。
中身なんてなかなか分からないものなのだから、まずは「顔」で判断するしかない。

次に来る判断材料が、「言葉遣い」や「所作」だろう。
なにげない言動に、その人の人間性が反映される、と感じる人は多い。

話し方や立ち居振る舞いは、子供の頃からの習慣によって形成される。
つまり「しつけ」がされていたかいなかったか、という問題。

どんなに性格がいい人でも、言葉や所作が悪ければ、なかなか認めてもらえない。
反対に、平均的な性格でも、それらが美しければ、かなり高い評価を受ける。

親にとっても「しつけ」は大変なことでしょう。
何回も何回も繰り返し教えないと身につかないものだから。
ほんと、忍耐のいる行為ですよね。
子供にとっても、何回も同じことを言われることは、とってもストレス。
でも、その「しつけ」が大人になってからの人生を大きく変えるとしたら、我慢するだけの価値はあるのでしょうね。

躾は親から子へ与えられる最高の財産です。

手を汚さなあかんよな。

2009年04月18日 | まるたけ人生論 
生きるということは、きれいごとではない。

生きていくためには、なにかしらの生命を「殺す」ことが必要。

それは、何も牛や豚だけの話ではない。

ベジタリアンだから大丈夫・・・だって?

そんなことはない。

植物だって、立派な生命だ。


人の「生」は、ほかの生き物の「死」によって成り立っている。

仮に点滴だけで生きている人間がいたとしても、免疫のよってウイルスや細菌の生命を奪っている。

他の生命の「死」の上にしか、人間の「生」は存在しえない。

そういうふうにできている。


人間は、その事実を見て見ないフリをしたがる。

殺すことでしか生きられない「宿命」を、直視しようとしない。

子供たちに教育の一環として、「育てた鶏を殺して食べる」ということをしようとした学校は、結局、保護者の反対で、食べなかったそうだ。

保護者いわく、「残酷だ・・・」と。


どこかの誰かが殺した肉なら食べられても、自分が殺した肉は食べられない。

やむにやまれず人を殺してしまった人間と、ヘラヘラしながら人を殺す人間。

どちらが残酷なのか?


自分の手さえ汚さなければ、何をしても構わない。

そう思っている人間が多い。

私だって、その一人。

汚いことは、人に任せる。

美しいだけの人生を歩いていこうとする。

だから、人生に厚みがないんだろうな。

だから、毎年3万人以上、自殺してしまう国なんだろうな。


自分の手を汚すこと。

そのリアリティこそが、生きることの本質だろう。

夕張応援豆腐(?)

2009年03月15日 | まるたけ人生論 


ピンチの後に、チャンスあり。

野球で、よく言われる言葉。

確かに、そうなんですよね。

ピンチとは相手にとってチャンスであり、相手がそのチャンスをものにできなかった時のショック状態こそ、こちらにとっての好機。

野球だけでなく、人生でも同じかもしれないですね。


スーパーに、「夕張応援豆腐」というものが並んでいました。

現在、夕張で一軒だけ経営している豆腐屋さんの商品を、札幌の業者が販売しているもの。


んんん・・・考えましたね。

夕張市が破綻というピンチ状態にあるからこそ、そのことが話題になり知名度があるうちに商売につなげる。

ピンチこそ、チャンスといったところでしょうか。


日本の経済、世界の経済がピンチなのかもしれない。

だからこそ、チャンスがあるはずなんです。


大事なことは、最後の最後まであきらめないこと。

明日のことは誰にも分からない。

分からないからこそ、不安も大きいが、希望もある。


要はどちらを見るかってこと。

不安ばかり見ていれば、そりゃ落ち込むのも、当然。

でも、バカにされたって希望を見つめていれば、今日というかけがえのない日を元気に過ごせる。


大事なのは、今日、この瞬間をいかに元気に過ごすかってこと。

今日を元気に生きられない人に、チャンスなんてやってくるわけがない。

あきらめちゃえば、チャンスがあっても、それに気付くことができない。


今日、この瞬間に、自分の力のすべてを注ぎ込むこと。

明日のことは、明日、悩んだらいい。

来年のことは、来年、悩んだらいい。

今日のことだけ、悩むので十分。

今日の悩みに対応する能力は、人間にはちゃんと備わっているものですから。


だから、悩みの先取りなんて、やめにしましょうよ。

まほろば 【自然食品・札幌市厚別区】

2009年02月04日 | まるたけ人生論 

自然食品を専門に扱うお店「まほろば」さん。

無農薬・低農薬の野菜や果物、オーガニックの食料品などが、店内に並んでいます。


ふと、店内を見ていると、「きたない」みかんを発見。



説明を読んでみると、無農薬で栽培されたものらしい。

個人的には、無農薬ということに、興味はない。

必要であるならば、使うべきだと考えている。

大事なことは、「なんとなく」使用するのではなく、意図を持って使用するか否かってこと。

なんでも、「完全」なんてものを求めると、そこには「落とし穴」があるものですからね(笑)。


最近なんだかよく食べる豆腐も購入。



モンゴルの大豆を使っているそうです。

「おおいなる大陸の味がする…」なんてことはないのですが(笑)。


どちらも、まずくはないが、おいしいくもない。

たぶん、そういうことを求めちゃいけないのでしょう。


自然食品が好きな人っていますね。

それはそれで「趣味」ですから、いいと思うのですが、その反面、ファストフードやコンビニ弁当ばかりの生活の人もいる。

でも、どちらが健康で、長生きできるかなんて、実はよく分かっていない。


食事のことに気を使っていない人のほうが、ストレスのない生活ができ、長生きできるってこともあるでしょう。

「健康、健康、健康・・・」
なんて、呪文のように繰り返していると、そのことが重荷になって不健康になってしまうもの。

神経質になりすぎると、元気さは失われていきますから。


良いことも、求めすぎれば、悪いこと。


そんな感じで、人生を考えています。