いすみ鉄道ファン

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1月1日・千葉日報 「いすみ鉄道・攻めの経営で活路模索」

2009年01月02日 | いすみ鉄道・各種メディア登場

 地域力再生 チャレンジの息吹

 2010年3月末までの赤字体質改善を条件に存続が決定した県の第3セクター「いすみ鉄道株式会社」(大多喜町、従業員数31人)にとって、今年は勝負の年。県内でバスやタクシー会社を経営をしていた吉田平氏(49)が昨年4月に新社長に就任し、観光イベントの企画やオリジナルグッズ開発など攻めの経営で活路を模索している。

マイナスからの船出

 吉田社長は就任早々壁にぶち当った。4月は沿線の学生の定期購入の時期で、書き入れ時にもかかわらず、大多喜高校の定員削減が響き、収入は前年同月比15%も減り、焦りは募った。

 県中央部の景勝地、養老渓谷最奥部の上総中野駅から大原駅間26.8キロを結ぶいすみ鉄道は1988年、廃線対象だった旧国鉄・木原線を引き継ぎ発足。歳入減の対応策として、運行本数削減を繰り返した結果、昨年度の乗客数は48万人でピーク時のほぼ半数までに減らす悪循環に陥っていた。「この会社は投資をした経験がない。従業員の心が萎縮している」と気づき、攻めの経営への転換を決意した。

ホタルで上昇機運

 会社が上昇機運にのったのは6月。吉田社長は沿線にある県内有数のホタル群生地をツアーの目的地として目を付けた。群生地は車での来場者が多く駐車場問題などで近隣から苦情が寄せられる恐れもあることから、場所を隠すミステリーツアーとした。

 話題性に加え、いすみ鉄道を利用しなければ目的地にたどり着けないため、2000人もの乗客を呼び込んだ。この経験は年末のイルミネーションにも応用。他のイベントも「“い鉄”(いすみ鉄道の略称)でなければできないこと」がキーワードになっている。

 10月にはオリジナルキャラクター「いすみてっぺいくん」や、菓子会社と組んで開発した濡れ揚げせんべい「い鉄揚げ」を販売し、グッズ収入が急上昇。その結果、同月末日までの売上げは4月の減収分を取り返し、前年比900万円増までに盛り返した

 今後は「てっぺいくん」を地域の特産物に添付していすみ鉄道推薦商品とキャラクターによる定期収入確保の一石二鳥を狙う。そのためにも「いすみ鉄道」自体の知名度アップが欠かせない。ファンとの連携に加え、人助けをテーマにしたTV番組「チャンピオンズ」(テレビ東京)に吉田社長自ら出演。東総元駅に回転式おみくじ付き駅舎を、大多喜駅には地元の英雄・本多忠勝像を寄付してもらい、新名所もできた。

 「まだ道半ばです」と頭をかき、東総元駅のおみくじを回す吉田社長。 新年からは国交省と連携して本数増加を図るほか、沿線ウォーキングスの紹介パンフレットの配布を進める新たなプランを熱っぽく語る。おみくじは大吉を出して止まった。


本多平八郎忠勝(千葉県大多喜町) No.1

2009年01月02日 | 本多忠勝 本多忠朝(大多喜城)

今年の大多喜お城祭りでは本多忠勝になりたい久我原さんが語る、新春時代劇スペシャル 『本多平八郎』 です

こんばんわ。やっと、本多平八郎読み終わりました。

感想はいろいろあるのですが、、、 本日は「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という落首を生んだ一言坂の戦いをご紹介します。興味のない人はすっ飛ばしてください

 一言坂の戦い  

 元亀三年10月12日、信長が最も恐れていた信玄がいよいよ動いた。東の家康以外は敵に囲い込まれてしまった信長は信玄に対しては腰を低くし、我が娘を武田家に嫁入りさせようとまで考えるまでの外交を展開していた。その友好関係がそう長くは続かないとは考えていただが、せめて対浅井・朝倉問題が決着するまでは信玄には甲斐にとどまっていてほしかった。 信長の恐れは、その同盟関係にあった家康の恐れでもあった。信長も恐れているが、その信玄にまず激突しなくてはならないのは信長ではなく、家康であった。その家康が、信玄の挑発に乗り、籠城よりもその得意とする野戦での決戦を選び、三方が原に押し出して、脱糞するほどの恐怖を味わった惨敗をするのであるが、今日の話はその前哨戦、一言坂の戦いである。

  日本最強の騎馬軍団はついに甲斐を進発した。山県昌景隊は三河へ、秋山信人隊は美濃へと先発し、信玄本体は二万とも、三万ともいわれる大軍団で徳川領を目指した。それぞれの部隊は徳川方の諸城を次々と落とし、家康の本拠地の浜松城の最後の防衛拠点、二股城へと迫っているとの情報が家康に伝えられると、本多忠勝と内藤信成を呼び出した。        NO.2に続く
 


本多平八郎忠勝(千葉県大多喜町) NO.2

2009年01月02日 | 本多忠勝 本多忠朝(大多喜城)

「我に味方する諸城は次々に落とされ、ついに信玄は二股城に迫る勢いを増しているとの知らせが入った。この城が落とされて、天竜川を渡られたら、もうこの城をもって支えるしかない。」
 それを聞いて信成が言った。
「殿さん、ここは押し出して二股を助けねば。」
 それに続き、忠勝も、
「おうよ、信玄をたたきつぶすことかなわぬとも、おりゃの体ぶっつけて、そのムクロを信玄坊主の足に絡ませても止めて見せましょうぞ。」
と言った。家康は情けなさそうな顔して言った。
「平八よう、いままで戦場で傷一つ負っていないお前がムクロになったら、徳川の家もおしまいじゃあ。」
平八と呼ばれた忠勝は思わず立ち上がり、大声で家康に向かって言った。
「ここで、坊主のやりざまを指をくわえてみていて死を待つよりは、いっそ派手に押し出して、せめて坊主の鼻先を叩いて死場所とした方が武士の誉れ、我に続く軍団の意気高揚にもなりましょうぞ。」
「平八、まあ、そういきり立つな。まずは敵の動きを知らねばならぬ。信成とともに偵察隊を出してもらいたい。」
「はっ?偵察ですか?」
「とりあえず、2人で相手の動きを探ってもらいたい。わしも部隊を率いて出陣いたす。まずはまだ見ぬ甲州勢の動きをこの目で確かめたいのじゃ。」
「と、と、殿さん自ら御出陣するまでござんせん。わいら2人で探りをかけます。」
「まあ、平八よう、これは小手調べじゃ。遠駆けのつもりで気楽に行ってみようぞ。」
 気楽な話ではない。家康は徳川家存亡の危機に直面したこの事態を打開する何かをその目で見つけ出したかったのである。平八郎忠勝も、家康が出陣することが、信玄の快進撃に意気消沈する家中の雰囲気を高揚させることになるだろうと思ったが、やはり殿さんの出陣には不安を覚えた。   No.3に続く

 


本多平八郎忠勝(千葉県大多喜町) No.3

2009年01月02日 | 本多忠勝 本多忠朝(大多喜城)

 こうして、本多隊、内藤隊が先発の偵察軍として出発し、家康自ら三千の具運税を率いて出陣した。忠勝は出陣前に家康に言った。
「殿さん、わいがしっかりと信玄坊主の様子を探ってきますで、わいの知らせが来るまでおとなしゅう待ってて下されや。」
「平八!わしを見くびるかあ!おのれが先陣切って、信玄坊主の鼻柱をぶったたきゃあ、わしがやつの首をへしおっちゃる!」
「いかん、いかん、殿さんはやまっちゃいかんぞ。」
 忠勝は家康とそんなことを言いながらも、殿さんは決して無茶はせんと思っていた。とりあえずの物見の出兵だが、大将と部隊長がいかな不利な戦況であろうと心は決して折れてはいないということを示すのにはこれほどの言い合いが必要だと思ったからである。

 しかし、徳川方の読みは甘かった。武田軍は家康の読みよりもはるかに南進し、ゆっくりと進んだつもりの本多隊、内藤隊はついに武田隊に遭遇してしまう。忠勝はあわてた。自分の心配ではない、殿さんの心配である。緒戦の接触である。忠勝は何とかここは自分で抑え、家康本体、内藤隊は逃そうとそれぞれに使いを送った。
「武田に遭遇。ここは平八が死守いたすので、浜松に引いて下され。大事の前の小事。兵を無駄死にさせちゃいかん!」
 家康は、
「平八を死なせちゃいかん!奴ぁ、徳川の守り神じゃ。奴に傷を負わせちゃいかん!内藤に必ず平八を助けるように伝えよ!」
と言った。
 殿軍を務める本多隊は大苦戦である。家康と内藤を逃すために忠勝自ら槍を振るい、追いすがる敵軍をたたきながら、必死の闘争を試みるが、武田の大軍は少々引っ掻かれたようなもので、すぐに本多隊に追いついてしまう。
 徳川軍は一言坂の下に陣取り、混乱しているしんがりの本多隊には武田軍の先鋒、馬場信春が容赦のない攻撃をかけてきた。また、同じく武田軍の小杉左近が先回りをして本多隊の退路を断とうとし、鉄砲を撃ちかけてきた。本多隊は更なる混乱に陥っていく。
  覚悟を決めた忠勝は生き残った部隊をまとめて叫んだ。 
No.4に続く *画像


本多平八郎忠勝(千葉県大多喜町) No.4

2009年01月02日 | 本多忠勝 本多忠朝(大多喜城)

「もはやこれまでじゃ!よくぞいままでわいに付いてきてくれたあ!ここからは大滝流の陣で敵軍を突破する。よもや生きて帰れるとおもぅな!わいらはもう死んだ身じゃあ!そのつもり突撃せい!運が良けりゃ地獄で会おうぞ!」
 生き残った隊はこの忠勝の言葉に奮い立った。大将が泣いている。泣き叫びながら、わいらの死場所を整えて下すった。こりゃもう、家康の殿のためじゃない、忠勝の大将のために派手に散って見せようぞ!という意気込みが満ち満ちていた。
「えい、えい、おう。」
 鬨の声をあげ、すでに死んだものとして突撃する本多隊。それを迎え撃つ小杉左近は思った。
「こいつはいかん。あやつら、すでに死んでいる。死人の部隊の突撃じゃ!死人と闘っても得するところは一つもない!」
と、怖気づいたか、情けをかけたのかはわからないが部隊に命じた。
「やつらすでに死に兵じゃ!死人と争うても仕方がない。たたりのないよう道を開けよ。奴らを地獄に逃れさせい!」  

 忠勝は驚いた。数十度、戦に出て傷一つ負ってはいないが、今日が自分の命の最後の日と覚悟しての突撃だったが、なぜか敵は道をあけていく。
(助かった。)
 正直、そう思った。敵方の部隊を駆け抜けるとき、敵の大将らしき人物を見つけた。
「貴殿、この部隊の大将かあ?わいらすでに覚悟をきめての突撃じゃに、何故道をあけるずら?」
「おう、本多の大将とお見受けした。あまりの決死の突撃に、この小杉左近、乱心して、槍がくりだせなんだわい。足を止めるな、止めたら正気になって打ち果たすぞ!」
「小杉殿、ご尊名、忘れはしませんぞ。」
と、忠勝は叫び、辛くも戦場を離脱した。
 浜松城に帰還した真っ赤な血に染まった忠勝を見て家康が声をかけた。
「おう、さすがの平八も信玄坊主との激戦にはついに負傷したか!」
 が、なんとその真っ赤な血はすべて返り血で、あの激戦の中をおのれの血は一滴も流していない忠勝であった。
  

No.5に続く  *画像


本多平八郎忠勝(千葉県大多喜町) No.5

2009年01月02日 | 本多忠勝 本多忠朝(大多喜城)

小杉左近はなぜ忠勝を逃したのだろうか?怖気づいたか、武士の情けかはわからないが、後日、一言坂にはこんな落首が落ちていた。

家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八

 小杉左近の作と言われているがいかがであろう?もし、小杉の作であるというのが真実ならば、小杉左近が本多忠勝の武将としての力量を見極め、ここで死なすには惜しい武将と思ったのであろう。それは怖気づいたのでも、情けでもなかった。同じ戦国の世に戦う武将としての友情にも似たものだったのではないだろうか。

お付き合いいただいた方、ありがとうございました

ん?なんかうそくさいな、と思われた方もいらっしゃると思いますが、半分ぐらいは僕が適当に付け足したことです。苦情等がありましたら、お聞かせください。 by 久我原

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』本多忠勝  一言坂の戦い

徳川四天王・十六神将の一人。57度の合戦に出陣し、一度も傷を受けなかったという。その活躍は、信玄や秀吉ら敵将から「花も実もある猛将」「古今独歩の勇士」「家康に過ぎたるもの」と褒め称えられた。

いすみ鉄道大多喜駅では、本多忠勝侯に願掛けができま

本多忠勝侯に あやかった『大多喜開運切符』があります。

懐にしまってもよし、難関をも通りぬけた忠勝公の強運を得て、何事もあきらめずに努力を続ければ、そのご加護により必ずや願いは成就することでしょう。

http://www.isumirail.co.jp/kikaku/ticket.html