いすみ鉄道ファン

皆様方のご来訪をお待ちしています

いすみ鉄道・ 文学のまち 大原

2008年05月31日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史
大原に週末のみ20数年お住まいの『大原太郎さん』からコメントをいただきました。
以下、大原太郎さんからのコメントです


いすみ鉄道の存続を願っている者として。

大多喜のことが多く載りますが、いすみ鉄道の起点としての大原にもっと目を。
いすみ鉄道のフトコロを深くします。
伊勢海老ばかりではありません。

私は東京・青山に住んでいますが、ここ20数年大原の週末住人です。

大原は文学の宝庫で、町全体がドップリ文学の町です。
もっとも、町の人にはその自覚はアリマセンが!

山本有三の「真実一路」は、東京・青梅とともに大原を舞台にしています。
この作品は昭和11年の発表ですので、有三が大原の旅館「翠松園」に3ヶ月滞在して執筆し、滞在中に付近をよく散歩していたことを覚えている人もかつてはいました。
現在の海水浴場、漁港は「真実一路」時代とは一つずつ北へずれていますので注意が必要です。
「翠松園」の跡地の一部は「真実一路の広場」となっており、「一路橋」(旧東亜橋)の橋の下には今も小説通りの「イナ」(ボラの幼魚)が群れを成しています。
小説通りの塩田川の夕日が今でも楽しめます。

森鴎外は大原の日在(ひあり 旧東海村)を愛し、別荘「鴎荘」建てました。
彼の日記にはよく「日在にゆく」と出てきますが、「阿部一族」や「高瀬舟」等の代表作はここ日在で執筆されました。
名前は忘れましたが、小作品には日在の松林の描写があります。
「鴎荘」は、夷隅川畔の小池酸素海の家の隣です。
なお、鴎外はJR三門駅(大原の一つ手前)の近くにも土地を購入しましたが、なぜこれほどこの地に拘ったのか。
鴎外にその土地を売った人の孫に会って尋ねましたが分りませんでした。

大原の「丹ケ浦」はリアス式の断崖を彷彿とさせる美しい場所です。
ここには若山牧水が二度訪れています。
小浜八幡神社下の集会所の前から「丹ヶ浦」を見るのが最高のロケーションで、牧水もここで歌を詠んでいます。
満月が上るのを偶々目にした感動を歌にしていますが、それは歌碑としてここに建てられています。
断崖(きりぎし)の疾(と)き流れと、「丹ヶ浦」を歌にしました。
なお、集会所下の小さな海岸(小浜海岸)が「真実一路」時代の大原漁港です。

日在の海岸は、林芙美子の「放浪記」に出てくる「房総の海」です。
ここで、彼女は長者町(JR長者町駅 大原の二つ手前)の少女に会い、そこに泊めてもらいます。

以上の関係文学碑は、山本有三は「真実一路の広場」、森鴎外は「日在海浜公園」、若山牧水は「小浜八幡神社下の集会所前」、林芙美子は「日在海浜公園」にあります。


≪参考資料≫
山本有三(ヤマモト・ユウゾウ)

(1887-1974)1887(明治20)年、栃木県生れ。東京帝大独文科卒。1920(大正9)年、戯曲「生命の冠」でデビュー。『嬰児殺し』で注目を集め、日本の新劇の基礎を固めた。大正末期から小説にも手を染め、『波』などの新聞小説で成功を収める。その後、ひたむきな女医を描いた『女の一生』、勤め人一家の愛と犠牲の日々を書いた『真実一路』、逆境をたくましく生きる少年を書いた『路傍の石』で国民的作家となった。子供達に向けて書かれた『心に太陽を持て』は、今も小・中学生に読まれている名作。


森鴎外(モリ・オウガイ)

(1862-1922)本名・森林太郎。石見国鹿足郡津和野町に生れる。東大医学部卒業後、陸軍軍医に。1884(明治17)年から4年間ドイツへ留学。帰国後、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆。以後、軍人としては軍医総監へと昇進するが、内面では伝統的な家父長制と自我との矛盾に悩み、多数の小説・随想を発表する。近代日本文学を代表する作家の一人。主な作品に『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『ヰタ・セクスアリス』など。


林芙美子(ハヤシ・フミコ)

福岡県門司区生れ。1918(大正7)年尾道高女に入学。1922年卒業すると愛人を追って上京。翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めたが、これが『放浪記』の原形となった。手塚緑敏という画学生と結ばれてから生活が安定し、1928(昭和3)年「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始。1930年『放浪記』が出版されベストセラーとなる。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、常に女流作家の第一線で活躍しつづけた。

丹ケ浦
http://www.sotobo-fan.jp/main/view/ohara/tangaura/index.htm


掲載写真は、参考資料・新潮社さんと房総ファンさんからお借りしました。


本多忠勝☆NHKの大河ドラマなるか?

2008年05月29日 | 本多忠勝 本多忠朝(大多喜城)
久我原さんの『忠朝とロドリゴ、ビスカイノと常長 』

以前、本多忠勝公の大河ドラマをやってほしいというような事を書いたら、ジャンヌさんにも賛同を頂いたと思います。で、どんなお話しがあるのかなと思ったら、本多忠勝公の話ではありませんが、大河とはいかなくても、時代劇スペシャルぐらいにはなりそうなエピソードを見つけたのでご紹介します。また、長くなるかもしれないので興味のない人はとばしてください


1590年、大多喜に入った本多忠勝公は関ヶ原の戦いでの功績により桑名10万石に移され、大多喜は次男の忠朝公に譲られますが、その忠朝公の時のお話しです。

時は1609年、関ヶ原の戦いに勝利して、ようやく天下を握った徳川家康は一つの課題を抱えていた。

豊臣秀吉の南蛮貿易を通じて日本を貿易立国にしようと考えを踏襲し、当時スペイン領だったフィリピンに使者を送ったが、直接フィリピンを管轄してるのはメキシコだったため、直接スペインと交渉するきっかけがなかなかつかめずいた。
ちょうど、そんなときにフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ(通称ドン・ロドリゴ)が次期総督と交代のためメキシコへ帰る途中に台風に会い、御宿で難破するという事故が発生した

運良くロドリゴ一行は御宿の住民達に助けられて、大多喜に向かい、当時の藩主本多忠朝公の歓待を受けた

その後、余り気はすすまなかったが徳川家康のいる駿府城に送られ会見をした。
スペインとの交渉を望んでいた家康には絶好の機会と思えたのであろう、国交成立のきっかけの期待を持ちつつ、翌1610年に船を仕立ててメキシコに送り返してやった。

その翌年、メキシコから答礼使としてセバスティアン・ビスカイノが来日し、家康と会見した。
当初、交渉は友好的であったが、日本側のキリスト教の布教は反対だが、貿易はしたいという考えにメキシコ側は反発し、次第に関係は冷え込んできた

ビスカイノが帰国するとき、日本側は使節を同行させようと考えていたが、ビスカイノは勝手に出航してしまった。
ところがビスカイノは途中難破し、再び日本に戻ってきてしまった

自力での帰国が困難となったビスカイノは幕府に援助を求めたが、ビスカイノが勝手に出航した事に怒った幕府はその要求を退けた

そのビスカイノに手をさしのべたのが、当時の大名としては珍しく海外に目を向けていた伊達政宗である

政宗は関ヶ原の戦い後、一応徳川政権に従ってはいるものの、幕府が禁止しているキリスト教を容認したり、ビスカイノを通じて独自の貿易ルートを確立しようとしたところから、何らかの形で徳川政権からの独立を考えていたのではないかとも思われる

こうして、政宗の使節支倉常長がビスカイノとともにメキシコを経由してスペインに行くことになり、そこにはまた思わぬドラマが展開していく。
この支倉常長のエピソードもかなりおもしろいが、このお話はここでおしまい。

と言うことで、このエピソードに大多喜が出てくるのは前半のほんの少しだけど、難破するまでのロドリゴ一行と大多喜での本多忠朝公との交流に軸をおいて一作、これをきっかけとする支倉常長のスペイン行きの話で一作できるような気がします。

……できるような気がしますって、又言い放しかよ。

最後まで読んでくださった、本多忠勝公ファンの方の為に、こんなもの見つけましたでご覧下さい。
(この話は本多忠勝公の話じゃなかったのでそのお詫びも込めて。)

http://www.mononofu.net/shop/t0015.html

             以上 久我原さんでした

久我原さん、これは勉強になりました
お詫びを込めて教えていただいたTシャツに興味を持ちました


ちばウォーカーに『いすみ鉄道沿線の紫陽花情報』

2008年05月29日 | いすみ鉄道・各種メディア登場
いすみ鉄道ファンの専属カメラマン・tassさん
いすみ鉄道沿線の写真情報ならなんでも持っているっていうのが、不思議

まあ、それはおいておいて・・・本当はおいておきたくないんだけどね

tassさんからの情報です\(^o^)/
『ちばウォーカー』に、いすみ鉄道が掲載されました

いすみ鉄道に乗って紫陽花を見に行こう
いすみ鉄道HP花情報

*こちらのblogではコメントが書けないようになっています。
コメントはアクスコ倶楽部伝言板にお願いします。

いすみ鉄道・moka(モカ)グランプリ獲得!!

2008年05月29日 | 応援する人達・いすみ鉄道
5月26日music vox主催X-TENLIVE

mokaがグランプリ獲得

mokaは、いすみ鉄道ファンならみんなが知っている、いすみ鉄道応援団です
1月から4ヶ月、4回に渡って予選が行われ、その中から最終選考に残った10組が1曲ずつ演奏をしたのですが、とうとう最終の本選出場。
mokaはサポートにバイオリン/えみちゃんとギター/おーたこーじの2人を向かえ、NEWCD収録の「ロボット」を演奏しました。(mokaHPより)

mokaのいすみ鉄道に関する記事は『応援する人達』にあります。

X-TENLIVEとは?
MUSICVOX 1階スペースを活用した、長期間にわたる参加型ライブイベントです。
予選を突破したBAND・ユニットが、本選の地「渋谷クラブ・クアトロ」にて火花を散らす!
予選通過者にはMUSICVOXが全面的にバックアップ!

いすみ鉄道・ミステリー・ トレイン!!

2008年05月28日 | いすみ鉄道・お知らせ・企画
昨日27日、(千葉県いすみ郡)大多喜町いすみ鉄道友の会の総会に出席しました。
もちろん、いすみ鉄道に乗って
そこで、こんなニュースが

大多喜町にゲンジボタルの大生息地が発見されたそうです

ホタルウォッチングミステリートレイン運行』だって

期間は6月7日(土)から6月17日(火)
いすみ鉄道のHPを毎日チェックするしかない

いすみ鉄道・『シティライフ』地域情報紙(外房中央版)

2008年05月26日 | いすみ鉄道・吉田平社長 植田浩社長
地域情報紙『シティライフNo.616号』外房中央版
          ↑クリックしてご覧ください。
          注:掲載期間は1週間です。



「環境にやさしい鉄道」のアピールとホスピタリティ(挨拶とおもてなしの心)の向上を
              いすみ鉄道社長  吉田平氏

いすみ鉄道・大多喜に何度も行くぞ!!

2008年05月25日 | いすみ鉄道・未来に繋がるアイディア
アクスコ倶楽部・伝言板で、いすみ鉄道への応援のメッセージをたくさんいただいている『白い井戸さん』のコメントを紹介します


私は、都会のオアシス・こころの故郷(心の病の人の療養)(前から言っております)これをキーワードにいすみ鉄道またそれの沿線の観光地の存在意義が出せると信じています。その為には養老渓谷もいすみ鉄道も大多喜城も竹の子も川も田んぼも山もみんな必要なんです。

たとえば、

東京から一番近い健康な町 大多喜

緑が豊富で酸素が一番多い町 大多喜

渓谷から発生するマイナスイオンが一番多い町 大多喜

渓谷の音が心の揺らぎ(1/F)の効果の多い町 大多喜

いすみ鉄道の揺らぎが心理療法の効果の多い町 大多喜

だから、

鉄道が必要な町 大多喜 

にしたい。  バスでは、ダメ。

脳みそのトレーニングとしてひとつ案が浮かびました
いすみ鉄道20周年記念事業にて大多喜の街をみんなと歩いて来ました。 
大多喜の城下町の面影とお城は、観光として使えると確信しました。
でも1~2回見れば、OKと言う感じですね。 たぶん・・・・。 

ここで私の勉強不足で大多喜の名前の由来がわからないのですが、『大多喜』この文字 
『大・多・喜』この3文字ってすごく最上の言葉の羅列だと思うのだが
 
昔「幸福駅」等のキップが売れた事がありましたが、この「大多喜」の文字を使ったお守り等のグッズは出来ないだろうか? 

そうすれば、恋人・受験生・他の人がそのつど大多喜の町に来る理由ができる!

キティーちゃんのボールペンより、ご利益・縁があるような?
今はキティーちゃん(私にはスフィンクスに見えるが)もがんばって

鉄子の旅・小湊鉄道~いすみ鉄道

2008年05月23日 | いすみ鉄道に乗って
ジャンヌがミクシィでこの日記を偶然発見しちゃってからお付き合いしていただいている我孫子のチャーリーさんの『鉄子の旅』をご紹介させていただきます
後で知ったのですが、我孫子のチャーリーさんは『鉄道物語1』に出演しています。では


『鉄子』…鉄道を趣味とする女性の事をそう呼ぶよーになりました

その昔、鉄ヲタなんて言うと女性ドンビキーっ、でしたが今やこの分野に女性が進出して来てるんです

そんなマイミク鉄子さん2人と男友達2人(こちらは鉄っちゃん用意出来ず一般人)で千葉県房総半島を横断する小湊&いすみ鉄道に行きました

マルコメの車(ステップラブワゴン)で現地にアプローチ。
旅の出発は田んぼの真ん中に離れ小島のよーにポツンと浮かぶ小湊鉄道『上総川間駅』を選びました。
カエルの大合唱に迎えられた皆さんは『???…この駅の存在理由は?』
だが列車待ちの地元おばちゃんがお一人。
鉄子さん一人がそのおばちゃんに捕まり『楽しい地元講座』を延々と聞けるとゆースペシャル特典を受けました

そして列車(小湊鉄道)が到着、ん?車内は宴会状態!
しかもドアが開かず乗れない!!
なんと団体特別懐石列車連結編成でした。

無事に皆さんを乗せ俺は車を『養老渓谷駅』に回送。
養老渓谷駅でみんなを再び車に乗せお食事処でランチ。
案内された部屋は小綺麗な民宿の和室な感じ貸し切り状態で落ち着き、他客に遠慮なく鉄話しをワイワイしました(一般男2人ちょいドンビキ(^_^;))  


そして一行はいすみ鉄道の始発駅『上総中野』
恐お面な駅管理者(なぜか白装束)に
「そこに車停めないでくれっか!バス通るからよー」
その数分後、確かにバスが来て 白装束「な、そこ通ったろ」
と、にこやかに言いました

同行の鉄子さんが列車を撮ってると、白装束さんスタスタ近付いて行きカメラを奪い列車の真ん前に誘導して写真を撮ってあげてました
その後もほのぼの雑談を交わして和みました
ちょっと江戸っ子風な優しいおとっつぁんで一安心

していよいよいすみ鉄道乗車&出発
ローカルムード満天、心地良いディーゼルエンジン音と揺れに眠気を誘われるのを耐えてなんとかいすみ鉄道満喫してると
運転士「カメラ持ってる人、前に集合
と、思いながらも数名前に
その後、目前に天国の景色が

線路両側の丘に菜の花びっしり&桜も咲いている(*´∀`*)
しかも運転士さんのイキな計らいでゆっくり徐行運転
俺はカメラポジション取りが悪く、こんな写真しか撮れなかったけど鉄子さんはさすがな写真を撮ってました
車内は拍手喝采
運転士さんありがとう!

途中下車をしないとその路線の記憶があまり残らないって事で、『東総元駅』に降りました
ってか駅名板がサビてて読めません
でもそれがまたいー味かも
駅から蛇行した川が見え、ここでの駅レレは抜群です
ここに車を回送してもらっといてもう一つ是非紹介したい駅へ

現世から忘れ去られた駅
『久我原』です

ホーホケキョとウグイスの鳴き声が響く森の中にひっそり佇む駅
そこまでの小道がまるで絵本の中に入ってしまったかのよーな神秘的な駅でした (大きな写真)

1日の乗降客数2~3人と思われるそんな駅にいきなり5人も現れ、しかもなんとEXILE『Choo Choo TRAIN』のダンスのマネゴトまでしてしまった俺達(写真)

バチが当たりませんよーに
                       by 我孫子のチャーリー

我孫子のチャーリーさんも『久我原駅』に興味を持ったのでした。
久我原駅は秘境駅として、相当有名になっているんですね!!
チャーリーさん、ありがとうございました


いすみ鉄道・大多喜ウルルン旅行記

2008年05月21日 | いすみ鉄道に乗って
今日は久我原さんで~す。秘境駅・久我原で下車して以来「久我原さん」と呼ばれています。私・ジャンヌが勝手につけた名前なんですよ♪
「第1部、久我原さん誕生秘話」はカテゴリー「いすみ鉄道の旅」にありますから読んでね♪  では、はじまり、はじまり

1. 有家での再会のその後、、、、
2008年3月8日、秘境駅「久我原」で下車し、まだ春になりきっていない大多喜の田舎をうろつき回った後、大多喜市街地のトンカツ屋「有家」で五井から同じ列車に乗り合わせた謎の女性ジャンヌさんに偶然再会した。
その時、自身でホームページを運営していて今日のレポートを載せるので見てほしいというようなことを言われたと思う。、、、と思うというのは、突然見知らぬ人に声をかけられ、緊張してしまったため当時の会話が断片的にしか覚えていないのである。正直言って、私は鉄道ファンと言うわけでも無く、大多喜にゆかりの者でもない。ただ、暇つぶしに久我原駅で降りただけなので、「降りましたよね。」と言われても、「ハイ。降りました。」としか言えないではないか いすみ鉄道、アクエリアスのホームページというようなことを言っていたような気がする。清涼飲料水のプロモーションにいすみ鉄道を使うのかな?、、この程度が当時の私の認識であった
ところが そのホームページから思いも寄らぬ展開となってきた。
なんと、当日の私の行動が「久我原さん」としてレポートされているではないか 秘境駅で降りた勇気ある男性とされている。
読んでしまった以上は、私の感想というか、返事を送らねば礼を失する。礼はサムライの作法の基本である。私は平民ではあるけれど。で、わかりやすいだろうと思って「久我原」をハンドルネームにしてしまったが、このことで後に2度ほど冷や汗をかく思いをした。

2. アクスコ倶楽部に参加して
参加して、と言って良いのか分からないが、伝言板に投稿してみた。はじめはジャンヌさんへの挨拶のつもりで投稿し、伝言板からジャンヌさんがいすみ鉄道への思い入れが強いということが分かったので当日の写真に簡単な文章を添えて送ろうと思い、何となく書き始めた 最初は写真とその説明だけと思ったのだが、感想とか入れて、順番を整理していくうちに旅レポみたいになってきて、なんだか面白くなってきた 気がつくと、とてつもなく長い文章になってしまった。こんな物を掲示板に載せたら迷惑だ、と思ったのでこっそりジャンヌさんにメールで送ったところ、ジャンヌさんからこれは掲示板に投稿した方がよいと薦められた。私の勘違いかもしれないが、、、、、、これで私が調子に乗りはじめめてしまったたわけだ

3. 再会への旅立ち
伝言板に投稿していくうちに、実際には会ったことは無いが大勢の友達、と言うか仲間、と言うか同志の様な人たちと文字で言葉を交わすようになり、私の気持ちはレンゲまつりの旅へと高まっていたのである。
今回は前回の様なひとりぼっちの暇つぶしの旅ではない。人との出会いがあり、目標がある
まずうれしいことに、私の話に興味を持ったのか、軽く誘ってみたところ、私と妻、そして双方の両親、総勢6名の参加となった 
そして母親の「大多喜に行くのなら竹の子狩りをやりたい!」と言うわがままを大多喜在住のアキオさんが知り合いの竹山のご主人を紹介してくれた。楽しみが増えた。当初、ジャンヌさんとの再会が主な目的であったが、竹の子掘りというイベントまで加わった。今度は勝手知ったるいすみ鉄道である。孤独と緊張感は無いが、驚きと感動は多い旅になることであろうと期待はふくらむのであった

4. 久我原から竹山へ
当日、父は別に用事があるので車で行く事になったが、母親は3月の私の一人旅のビデオを見てそれが良かったらしく一緒に列車で行くことになった。私と妻と母は黄色い総武線に乗り妻の両親と合流し、3月と同じ時間の列車で久我原駅まで2度目の航海へと旅立つこととなった
3月乗車の時は小湊鉄道、いすみ鉄道ともに1両編成であったが、今回はれんげまつりのせいか双方とも2両編成であった。驚いた事にというか、当然というか、小湊鉄道の車掌さんは3月乗車時と同じ人だった。最近のことなのに、小湊鉄道の風景に懐かしさを感じつつ、上総中野に到着した。いすみ鉄道への乗り換えである。今回の同行者である妻は、やはり小湊鉄道から乗り換えるといすみ鉄道は明るい感じがするという私と同じ感想を持ったようである。
さあ、今回は余裕の久我原下車である。私たちのグループとは別の1名を含めて総勢6名が降りたわけだが、運転手さんはどうせ誰も降りないだろうとたかをくくっていたのか、ちょっとポッとしていたところへ、突然6名の人間が降り始めたので少しあわてていたようである。駅のホームには車で先行した父が無事たどり着いていたのでほっとした。駅前にはアキオさんが紹介してくれた竹山のご主人が待っていた。
さて、竹の子掘りである
竹山は時代劇のロケに使えそうな趣があった
既に私の頭の中では、幕府隠密と大多喜藩お抱えの忍者の対決が始まっている。(実際には大多喜は譜代なので幕府が隠密を潜り込ませることはないと思うが、、、)私が刀を持っていれば間違いなく竹を切りまくっているであろう
今回参加の6人のうち、竹の子掘り経験者は私と妻、そして妻の父である。竹の子掘りの企画の言い出しっぺは私の母であるが、私の両親とも竹の子掘りは未経験者である
この母親、言い出しっぺのくせに現場に着くと竹の子よりも野草に興味を持ったらしく色々見つけてきては竹山の奥様に「これはもらっていいか、あれはもらっていか?」とおねだりをしていた。父は竹の子よりも竹そのものに興味があったらしく、ご主人が「竹は生命力が強く、毎年竹を切って処理をするのは大変だ」という話に、「切った竹を何か利用できないか?このまま、腐らすのはもったいない」としきりに言っていた。
妻の父は子供の頃、近所の竹林で竹の子掘り(妻の話では盗んでいたのだと言うが、、、、)をしたことがあるということでさすがに経験者、一番多く掘っていたような気がする。
私自身は紹介してくださったアキオさんをよく知らないのに、竹山のご主人には非常に親切にしていただいた 竹山の話をしていただいたり、竹の子のおみやげを用意してくださったり、最後にはれんげまつりの会場まで送って下さった。ご主人が「良い竹の子を掘り当て時に、こいつは宝物だ!と思う。」と言っていたのが印象的だった

5. わかこさんとの出会い
掲示板上で竹の子掘りに参加したいと申し出があったわかこさんとはこの竹山で出会った。ジャンヌさん情報では「美人だが若くない」とのことだったが、充分若くてお美しい方だった。
彼女は私より同行者の白井ヴィンセントに会いたかったようで、竹山をバックに記念写真を撮った。掲示板のおかげで初対面にもかかわらず、スムーズなコミュニケーションを取ることができた、、と思ったのは私だけだったのだろうか?で、わかこさんが私の事を「久我原さん」と呼ぶと竹山の奥様が妙な驚き方をするので照れくさく冷や汗ものであった 
そうここが『久我原』で、私の本名は久我原ではない。
昔、土地の名前を名字したということを考えると恐れ多いことである。又、ご主人に「久我原駅は有名なんですよ」と話をしたとき、「えっ、久我原が?….ほ~っ」と絶句していた

6. レンゲまつり
さて、レンゲまつりである。今回、レンゲまつりでの目的は3つある。
mokaのステージを目撃すること。
ジャンヌさんとアキオさんを探し出すこと。
花園ウエディングに参列すること。
しかし、竹の子掘りに熱中するあまり、mokaのステージには間に合わなかった
2番目の目的、ジャンヌさんには1度あったことがあるとはいえ、この広い会場で出会うことができるだろうか?女性は化粧、髪型、服装でだいぶ印象が変ってしまう。私の「有家の印象だけで彼女にたどり着くことができるかどうかは、一抹の不安がある。しかし、そんな心配をする必要は全くなく、いすみ鉄道のブースの前で無事に出会うことができた ちょうど居合わせたいすみ鉄道の社長にジャンヌさんが私のことを「久我原さん」と紹介したのは、冷や汗ものだった 僭越だずうずうしいはずかしい私は一体何者だただ久我原駅で降りただけなのに 社長はそれをにこやかに受けて下すったが、掲示板で私の無責任な文章を読んでいるとのことで再び冷や汗である
社長が「私も掲示板に投稿したいが、ハンドルネームはどうしたらよいか?」というようなことおっしゃった時、ジャンヌさんが「まさか社長がtassさんじゃないですよね?」と聞いたのは内心笑えた が、その時まさか当のtassさんが私たちを観察していたとは思いも寄らなかった。

初対面の別れは悲しい、次に会えるかどうか分からないからだ。
しかし、再会の別れは再々会への期待につながる。私とジャンヌさんは再会を喜び合った後、「じゃあ、又。」という感じでさらりと分かれた。まさか、1週間とたたないうちに再々会を果たすとも知らずに。

7. 自由人の父
アキオさんを探したり、3つめの目的、花園ウエディングに参列したりと、この日は忙しい。前回は久我原駅下車がただ一つの目的だったが、今回は目的がてんこ盛りである。残念ながら、アキオさんには出会うことができなかった。今回2つ目の悔いである
私の目から見て、今回の旅を一番楽しんでいたのは自由人の父親のように思える。今回、父一人、車で久我原駅に向かうことになったなり、国道に近いとは言え秘境駅であるので、心配した私が場所の説明をしようとすると、「若い頃に大多喜はゴルフで何回も通った事があるから大丈夫だ。」と人の言うことを聞こうとしない。まあ、大丈夫と言うからには場所は分かっているのだろうと思ったが、やはり迷ったらしい。後でまるで武勇伝の様に、久我原到着の顛末を話していたが、ならば最初から私の話を聞けばよかったのにと思った。老いては子に従えである。
れんげまつりの会場を後にして、私が大多喜の街中を散策しようという提案を聞いているのかいないのか、自由人の父が運転する車は大多喜城へと向かっていった。大多喜城をさっくり見学した後、本来いすみ鉄道で大原まで行きたかったが妻も疲れたようで結局車で帰ることにした。国吉の庭園を見ることができなかったのが今回3つめの悔いである まあ、3つの悔いではなく、3つ楽しみが残ったと考えることにするか

8. その後の竹の子
夜、父は大量の竹の子を車に乗せたまま、私たちと別れて別の用件へと向かってしまった。私と妻は家にたどり着き、当日偶然放送されていたいすみ鉄道の旅番組を見つつ、両親と竹の子の帰りを待っていた。夜10時ごろ竹の子が両親を連れて帰ってきた、ではなく両親が竹の子を持って帰ってきた。それからが大変である。大量の竹の子を煮なければならないが、我が家は一般家庭である。そんなに大量な鍋はない。竹の子を煮るのに2回戦。そして、その後1週間は毎日竹の子を食べ続けた
竹かんむりに旬と書いて筍である、今しか味わえないと楽しむことにしよう。しかし、なかなか消費しきれない竹の子に業を煮やした妻は1週間目には竹の子ご飯、竹の子の味噌汁、竹の子の和え物、竹の子の煮物という竹の子づくしのメニューを登場させた

9. あとがき
前回、久我原駅下車を目的とした一人旅でしたが、今回は人と出会う旅で、世界ウルルン滞在記の再開スペシャルみたいな旅でした。
ジャンヌさんが立ち上げたブログに記事がほしいというようなこと言っていたので、また日記のようなレポを書いてしまいました。前回の一人旅は処女航海、感動のままに面白がってあっという間に書き上げることができましたが、今回は一週間以上もかかってしまいました。にもかかわらず、やっぱり前回のほうが面白いかなと思っています。
僕の中では今年中にあと3回、いすみ鉄道に乗ろうと思っていますが、次回はもうちょっと面白いものにしたいと思っています、、、えっ、まだやるの?という声が聞こえてきそうですが、これは僕の日記のようなものなので、たまたま読んでしまった方は運がなかったということで、お許し下さい