大原に週末のみ20数年お住まいの『大原太郎さん』からコメントをいただきました。
以下、大原太郎さんからのコメントです
いすみ鉄道の存続を願っている者として。
大多喜のことが多く載りますが、いすみ鉄道の起点としての大原にもっと目を。
いすみ鉄道のフトコロを深くします。
伊勢海老ばかりではありません。
私は東京・青山に住んでいますが、ここ20数年大原の週末住人です。
大原は文学の宝庫で、町全体がドップリ文学の町です。
もっとも、町の人にはその自覚はアリマセンが!
山本有三の「真実一路」は、東京・青梅とともに大原を舞台にしています。
この作品は昭和11年の発表ですので、有三が大原の旅館「翠松園」に3ヶ月滞在して執筆し、滞在中に付近をよく散歩していたことを覚えている人もかつてはいました。
現在の海水浴場、漁港は「真実一路」時代とは一つずつ北へずれていますので注意が必要です。
「翠松園」の跡地の一部は「真実一路の広場」となっており、「一路橋」(旧東亜橋)の橋の下には今も小説通りの「イナ」(ボラの幼魚)が群れを成しています。
小説通りの塩田川の夕日が今でも楽しめます。
森鴎外は大原の日在(ひあり 旧東海村)を愛し、別荘「鴎荘」建てました。
彼の日記にはよく「日在にゆく」と出てきますが、「阿部一族」や「高瀬舟」等の代表作はここ日在で執筆されました。
名前は忘れましたが、小作品には日在の松林の描写があります。
「鴎荘」は、夷隅川畔の小池酸素海の家の隣です。
なお、鴎外はJR三門駅(大原の一つ手前)の近くにも土地を購入しましたが、なぜこれほどこの地に拘ったのか。
鴎外にその土地を売った人の孫に会って尋ねましたが分りませんでした。
大原の「丹ケ浦」はリアス式の断崖を彷彿とさせる美しい場所です。
ここには若山牧水が二度訪れています。
小浜八幡神社下の集会所の前から「丹ヶ浦」を見るのが最高のロケーションで、牧水もここで歌を詠んでいます。
満月が上るのを偶々目にした感動を歌にしていますが、それは歌碑としてここに建てられています。
断崖(きりぎし)の疾(と)き流れと、「丹ヶ浦」を歌にしました。
なお、集会所下の小さな海岸(小浜海岸)が「真実一路」時代の大原漁港です。
日在の海岸は、林芙美子の「放浪記」に出てくる「房総の海」です。
ここで、彼女は長者町(JR長者町駅 大原の二つ手前)の少女に会い、そこに泊めてもらいます。
以上の関係文学碑は、山本有三は「真実一路の広場」、森鴎外は「日在海浜公園」、若山牧水は「小浜八幡神社下の集会所前」、林芙美子は「日在海浜公園」にあります。
≪参考資料≫
山本有三(ヤマモト・ユウゾウ)
(1887-1974)1887(明治20)年、栃木県生れ。東京帝大独文科卒。1920(大正9)年、戯曲「生命の冠」でデビュー。『嬰児殺し』で注目を集め、日本の新劇の基礎を固めた。大正末期から小説にも手を染め、『波』などの新聞小説で成功を収める。その後、ひたむきな女医を描いた『女の一生』、勤め人一家の愛と犠牲の日々を書いた『真実一路』、逆境をたくましく生きる少年を書いた『路傍の石』で国民的作家となった。子供達に向けて書かれた『心に太陽を持て』は、今も小・中学生に読まれている名作。
森鴎外(モリ・オウガイ)
(1862-1922)本名・森林太郎。石見国鹿足郡津和野町に生れる。東大医学部卒業後、陸軍軍医に。1884(明治17)年から4年間ドイツへ留学。帰国後、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆。以後、軍人としては軍医総監へと昇進するが、内面では伝統的な家父長制と自我との矛盾に悩み、多数の小説・随想を発表する。近代日本文学を代表する作家の一人。主な作品に『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『ヰタ・セクスアリス』など。
林芙美子(ハヤシ・フミコ)
福岡県門司区生れ。1918(大正7)年尾道高女に入学。1922年卒業すると愛人を追って上京。翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めたが、これが『放浪記』の原形となった。手塚緑敏という画学生と結ばれてから生活が安定し、1928(昭和3)年「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始。1930年『放浪記』が出版されベストセラーとなる。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、常に女流作家の第一線で活躍しつづけた。
丹ケ浦
http://www.sotobo-fan.jp/main/view/ohara/tangaura/index.htm
掲載写真は、参考資料・新潮社さんと房総ファンさんからお借りしました。
以下、大原太郎さんからのコメントです
いすみ鉄道の存続を願っている者として。
大多喜のことが多く載りますが、いすみ鉄道の起点としての大原にもっと目を。
いすみ鉄道のフトコロを深くします。
伊勢海老ばかりではありません。
私は東京・青山に住んでいますが、ここ20数年大原の週末住人です。
大原は文学の宝庫で、町全体がドップリ文学の町です。
もっとも、町の人にはその自覚はアリマセンが!
山本有三の「真実一路」は、東京・青梅とともに大原を舞台にしています。
この作品は昭和11年の発表ですので、有三が大原の旅館「翠松園」に3ヶ月滞在して執筆し、滞在中に付近をよく散歩していたことを覚えている人もかつてはいました。
現在の海水浴場、漁港は「真実一路」時代とは一つずつ北へずれていますので注意が必要です。
「翠松園」の跡地の一部は「真実一路の広場」となっており、「一路橋」(旧東亜橋)の橋の下には今も小説通りの「イナ」(ボラの幼魚)が群れを成しています。
小説通りの塩田川の夕日が今でも楽しめます。
森鴎外は大原の日在(ひあり 旧東海村)を愛し、別荘「鴎荘」建てました。
彼の日記にはよく「日在にゆく」と出てきますが、「阿部一族」や「高瀬舟」等の代表作はここ日在で執筆されました。
名前は忘れましたが、小作品には日在の松林の描写があります。
「鴎荘」は、夷隅川畔の小池酸素海の家の隣です。
なお、鴎外はJR三門駅(大原の一つ手前)の近くにも土地を購入しましたが、なぜこれほどこの地に拘ったのか。
鴎外にその土地を売った人の孫に会って尋ねましたが分りませんでした。
大原の「丹ケ浦」はリアス式の断崖を彷彿とさせる美しい場所です。
ここには若山牧水が二度訪れています。
小浜八幡神社下の集会所の前から「丹ヶ浦」を見るのが最高のロケーションで、牧水もここで歌を詠んでいます。
満月が上るのを偶々目にした感動を歌にしていますが、それは歌碑としてここに建てられています。
断崖(きりぎし)の疾(と)き流れと、「丹ヶ浦」を歌にしました。
なお、集会所下の小さな海岸(小浜海岸)が「真実一路」時代の大原漁港です。
日在の海岸は、林芙美子の「放浪記」に出てくる「房総の海」です。
ここで、彼女は長者町(JR長者町駅 大原の二つ手前)の少女に会い、そこに泊めてもらいます。
以上の関係文学碑は、山本有三は「真実一路の広場」、森鴎外は「日在海浜公園」、若山牧水は「小浜八幡神社下の集会所前」、林芙美子は「日在海浜公園」にあります。
≪参考資料≫
山本有三(ヤマモト・ユウゾウ)
(1887-1974)1887(明治20)年、栃木県生れ。東京帝大独文科卒。1920(大正9)年、戯曲「生命の冠」でデビュー。『嬰児殺し』で注目を集め、日本の新劇の基礎を固めた。大正末期から小説にも手を染め、『波』などの新聞小説で成功を収める。その後、ひたむきな女医を描いた『女の一生』、勤め人一家の愛と犠牲の日々を書いた『真実一路』、逆境をたくましく生きる少年を書いた『路傍の石』で国民的作家となった。子供達に向けて書かれた『心に太陽を持て』は、今も小・中学生に読まれている名作。
森鴎外(モリ・オウガイ)
(1862-1922)本名・森林太郎。石見国鹿足郡津和野町に生れる。東大医学部卒業後、陸軍軍医に。1884(明治17)年から4年間ドイツへ留学。帰国後、留学中に交際していたドイツ女性との悲恋を基に処女小説『舞姫』を執筆。以後、軍人としては軍医総監へと昇進するが、内面では伝統的な家父長制と自我との矛盾に悩み、多数の小説・随想を発表する。近代日本文学を代表する作家の一人。主な作品に『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『ヰタ・セクスアリス』など。
林芙美子(ハヤシ・フミコ)
福岡県門司区生れ。1918(大正7)年尾道高女に入学。1922年卒業すると愛人を追って上京。翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めたが、これが『放浪記』の原形となった。手塚緑敏という画学生と結ばれてから生活が安定し、1928(昭和3)年「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始。1930年『放浪記』が出版されベストセラーとなる。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、常に女流作家の第一線で活躍しつづけた。
丹ケ浦
http://www.sotobo-fan.jp/main/view/ohara/tangaura/index.htm
掲載写真は、参考資料・新潮社さんと房総ファンさんからお借りしました。