いすみ鉄道ファン

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大原-大多喜間 人車軌道時代 (いすみ鉄道の歴史から)

2010年03月30日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

郷土出版社『長生・夷隅の歴史』を購入しました。

いすみ鉄道沿線の歴史も掲載されています。

  

いすみ鉄道のホームページに「いすみ鉄道までの歴史」が掲載されています。http://www.isumirail.co.jp/company/history.html  その中に、

  大正元年 県営人車軌道線 大原・大多喜間に開通
         停車場4  停留所3  待避所2

県営人車軌道線って何? 

下の右ページの写真が県営人車軌道・刈谷停車場(いすみ市・大正初期) 

大原-大多喜間は所要時間2時間半。軌道の上で数人乗りの車両を2~3人の人夫さんが押して運行しました。時には上り坂でお客さんが手伝うこともあったそうです

 ひぃ~ 

人が押した鉄道 (写真は茂原ですが、こんな感じ)

紆余曲折を経て、木原線(現いすみ鉄道)が開通して夷隅地域の人々の生活が大きく変わりました。 ありがたいね~

この本には、「特に、大多喜中学校(現大多喜高校)生徒はそれまで下宿屋、寄宿舎などから通学する者が多かったですが、遠距離通学が可能になったわけです。」と、書かれています。 

  

写真は私の祖父です。大多喜に下宿してたんですよ。今では考えられないですよね。「今、かわいいムーミン列車が走っているのよ~。小さかった奥村さんの坊ちゃんが、ムーミン人形をたくさん作ってくれたのよ~っ。」って教えてあげたい 

 

私の祖父となんだか縁のある奥村さんから報告がありました。応援団の皆さんはいろいろ考えているんですよ。フムフム 楽しみながら地域に貢献していますな。

初代スナフキンは東へ…  国吉駅より大原方面に行きます…(@_@)/
大原まで行かせる為に国吉と大原の間に人形を…それも列車に乗らないと分からない場所へ…』その大役は初代スナフキンにやってもらう事になりました…(@_@)/♪土地の持ち主の確認と許可が取れたら旅立ちます…場所はとりあえず決まってますが公表する前に忍者が気付くと思いますょ…(@_@)/」 (by 奥村)

ムーミン列車応援団のホームページでは、

横に大きな

 

楽しもう、いすみ鉄道

http://www.isumirail.co.jp/

私達それぞれが、それぞれの時代での「いすみ鉄道」が語れますように、永遠に走り続けて欲しい。

走らせなくてはなりませんよ。

思い出も大事ですけど、病院に行ったり、学校に通ったり、命や文化を乗せて走っているのですから。 

一度なくしたら

レールは二度と敷けないから。
(あれっ、い鉄、麻生運転士さんの台詞だ)


上海万博で、梅屋庄吉氏と孫文に関する展示会開催決定

2010年03月16日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

いすみ市岬町にゆかりの梅屋庄吉さんについて掲載されています。

3月16日の読売新聞から http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20100316-OYT8T00240.htm

上海万博で曽祖父・梅屋庄吉と孫文の交友展実現に奔走する 小坂文乃さん

 
 曽祖父は、現在の貨幣価値にして2兆円もの私財を孫文の民主革命にささげた実業家・梅屋庄吉。5月開催の上海万博で、梅屋と孫文に関する展示会開催が決定した。漢字の「人」をかたどった青い万博キャラクター「海宝(ハイバオ)」があふれる上海に毎月足を運び、資金集めに駆け回る。「でも多くの人に支えられ、元気をもらっている」。日中学生の応援ボランティア部隊もできた。

 英国で中高時代を過ごし、中国は遠い国だった。梅屋の遺言で孫文との関係も長く封印された。転機は、約20年前に母が「大事な歴史は、しっかり伝えよう」と口を開いたこと。これを機に、自分が生まれる30年も前に没した先祖の業績普及に乗り出した。2008年には、家族が経営するレストラン「日比谷松本楼」に胡錦濤・国家主席を迎え、孫文との交友を示す遺品を紹介した。「ようやくここまで来た」と胸を熱くした。

 中国で「日本人の美談を宣伝するより、侵略を謝罪するのが先決」との指摘も受けるが、「日中が世代を超えてつながり、目に見えない壁を低くできれば、梅屋の遺志を継ぐことになる」と決意を新たにしている。(上海支局 加藤隆則)

(2010年3月16日  読売新聞)

梅屋庄吉氏は大正5年、三門海岸に15,000坪の土地を購入して別荘を建てました。三門の駅から歩いて15分程です。

いすみ鉄道ファン過去の記事→こちら 下の画像はその時のもの。


革命をプロデュースした日本人(梅屋庄吉) 小坂文乃著

2010年01月17日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

1月17日 読売新聞 『よみうり堂 本・記者が選ぶ』より

ハナリンさんに続いて、いすみ市にゆかりの方が続々新聞に!!

革命をプロデュースした日本人 小坂文乃著

皆様は『梅屋庄吉』さんをご存知ですか? 日本映画界の風雲児、日活創設者の一人・梅屋庄吉。彼は孫文を生涯を賭して支援しました。孫文亡き後、悪化する日中関係の歯車を押しとどめるさなか、千葉・三門の駅頭で倒れ人生に終止符を打ちました。孫文への支援活動(資金援助は現在の貨幣価値で約2兆円)はあまり知られていませんが、自らの遺志でそれに封印したからです。

 

*下の写真は、いすみ鉄道ファン昨年5月20日のもの。コチラ

別荘の跡地はどうなっているのかな~? 教えてくださいな。


夏目漱石 正岡子規 房総の足跡 

2010年01月12日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

1月10日読売新聞いすみの元教諭、出版

テレビや本で今、注目される明治の俳人・正岡子規と同級生でもある文豪・夏目漱石の友情や交流を、いすみ市大原の元高校教諭関宏夫さん(69)が「房総紀行『木屑録(ぼくせつろく)』 漱石の夏休み帳」 (崙書房出版)にまとめた。2人の文学者が相次いで房総を訪れた経緯や当時の千葉県の様子が知れるなど、興味深い本に仕上がった。

 子規(1867~1902)と漱石(1867~1916)は東大予備門時代の同級生。俳句や漢詩を通して生涯深い交流を続けたことで知られる。しかし、2人が房総を旅したことを知る人は少ない。漱石は1889年夏、友人と房総を訪れ、保田(現鋸南町)で海水浴をしたり鋸山に登ったりした。館山や勝浦を経由し銚子にまで足を伸ばした旅の様子を、漢文の「木屑録」として残した。これに触発された子規は2年後の春、市川から佐倉、成田を通り大多喜、小湊(現鴨川市)を経て鋸山に至る房総を行脚、紀行文「かくれみの」を著した。

 関さんは県立大多喜高校に勤務していた25年ほど前、子規が大多喜を訪れていたことを知り、「なぜ、どうやってここに来たのか」と興味を持ち研究を始めた。2002年に「正岡子規の房総旅行 かくれみの街道をゆく」(崙書房出版)を刊行した際、「関連の深い漱石も調べることで、2人の房総紀行の実態が分かる」と「木屑録」を読み込み、今回の出版にこぎ着けた。

 「漱石の夏休み帳」では、序盤で2人が一緒に寄席に通うなど青春時代を送った明治20年代の様子を説明。子規の詩文集「七草集」が漱石に文芸への関心を呼び戻したことに触れた上で、後半は「木屑録」の漢文を現代語訳し解説を加えている。鋸山を訪れた漱石は「数年前に岩盤が切り開かれ、トンネルが掘られて上総と安房の往来の便宜が図られた」ことを書き留め、鯛ノ浦(鴨川市)では「イワシに群がる美しい模様が海面に広がり、それがマダイだと分かった」などと記している。

 関さんは「房総が漱石と子規にとって青春まっただ中にある思い出の地だったということを、多くの県民に知ってもらいたくて筆を執った」と話す。

 「漱石の夏休み帳」はB6判269ページ。2000円(税別)。問い合わせは崙書房出版(04・7158・0035)へ。

(2010年1月10日  読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/news/20100109-OYT8T00996.htm


毎日新聞 行元寺:山門の彫刻復元作業-

2009年10月25日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

10月25日 毎日新聞

http://mainichi.jp/area/chiba/news/20091025ddlk12040097000c.html

行元寺:山門の彫刻復元作業--いすみ /千葉

 江戸時代の欄間(らんま)彫刻師「波の伊八」の名作が飾られているいすみ市萩原の行元寺(市原淳田住職)で、山門=の彫刻の復元作業が進められている。正面の修復はすでに終わり、現在は裏側の彫刻6枚の修復にかかっている。11月初めには、色彩豊かによみがえる予定。

 彫刻は江戸中期の作で、一枚の板に彫られた羅漢や鳥、トラなどが赤、青、緑色の極彩色で浮き立たせている。

 復元はJR東日本文化財団の支援で07年から3年計画で進められている。【吉村建二】

*写真はtassさん提供


大多喜城にて「ドン・ロドリゴが来た道」上映中

2009年10月19日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

大多喜城では、日本メキシコ交流400周年事業企画展「日本メキシコ交流の歴史-ロドリゴ漂着から400年」にて「ドン・ロドリゴの来た道」を上映中。

城西国際大学制作の映像 「ドン・ロドリゴの来た道」 

http://www.jiu.ac.jp/media/topics/2009/rodrigo.html

 

 ミイは18日に見て来ましたよ~ 短編だけど本格的な映画

俳優さんもカッコいい  

ミイは、やっぱり来年も大多喜お城祭りでメキシコ人になるっ

 

 気分がメキシコになったらお土産には 

「日墨交流400周年記念」メキシコ・マヤビックコーヒー

 ほどよい酸味があって、マイルド!!  焙煎香房『抱(HUG)』

抱さんでは、手回しロースターで手間ひまかけて焙煎しています。

芳しさに目を閉じれば400年前にタイムスリップ 

大多喜城は、デンタルサポート・大多喜駅から歩いて約15分です。

 

今日の千葉日報にはこんな記事↓が掲載されていました。

大多喜町では町内全5小学校の高学年児童を対象に

絵本「日本・メキシコ友好物語」を配布しました

 *大多喜城はtassさん撮影。 千葉日報は白井さんが投稿してくださいました


皇太子さまに舞を披露 きょうメキシコ交流式典に出席 大多喜

2009年09月26日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

千葉日報 9月26日 掲載記事 http://www.chibanippo.co.jp/news/chiba/society_kiji.php?i=nesp1253933543

皇太子さまは25日、大多喜町の県立中央博物館大多喜城分館で企画展「日本メキシコ交流の歴史|ロドリゴ漂着から400年」を視察された。

 きょう26日は日本メキシコ交流400周年名誉総裁として御宿町で開かれる記念式典などに出席される。

 大多喜城前では、地元の「上原神楽囃子(ばやし)保存会」が雄獅子による勇壮な舞を披露し歓迎した。

 皇太子さまは、近代日本が諸外国と初めて交わした平等条約であるメキシコとの修好通商条約調印書の原本などを見学後、手作り甲冑(かっちゅう)の着付けを実演した「大多喜城手づくり甲冑会」の吉野康夫会長(60)に「着た感じはいかがですか」と言葉をかける一幕も。吉野さんは「背筋がのびる思いです」と答え、厚紙とひも製の甲冑の特徴を説明していた。


芥川賞作家は大多喜駅勤務!

2009年09月14日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

(財)千葉市勤労者福祉サービスセンター発行の「ゆるり」にいすみ鉄道が掲載されていました。 

房総紀行☆大多喜町 半田義之「鶏騒動

 半田義之は1939年、国鉄の大多喜駅に勤務している時に、本作を書き上げた。田舎の村に引っ越してきた、ロシア人男性ドナイフと、偏屈な与介の婆の交流を描いた本作は、第9回芥川賞を受賞。作家としての第一歩となった。

 口を開けば悪口ばかり。食い意地が張っていて、友達もいない。亭主も息子も家を出て行った。そんな婆にとってドナイフは、卵を高く売りつけられる格好の金づる。古い卵を産みたてと装い、高く売りつけることもあった。しかし、いつしか婆にとって、唯一の友人となっていた。ある日ドナイフは、婆のためにマカロニを買ってきた。初めて食べるマカロニの味の尊さは、婆に初めての感情を芽生えさせた。それはひたむきに優しさを向けてくるドナイフへの感謝の気持ち。喜びが心を満たしていく。マカロニをくわえ、ぷーっと吹き、2人は膝をくっつけて笑った。

 ある日ドナイフは「お婆さんにだけは見てもらいたい」と、いつも大切に抱えていた、財布の中身を見せた。そこには婆の見たこともない大金が。身寄りもなく、祖国にも帰れないドナイフが大金を持っている。驚きとともに、婆によぎる悪い考え。しかし次第にそれは薄れていく。「これでドナさんも大安心だ」人の幸福を見て、自分も恵まれた心になることを、婆は初めて経験したのだった。

 大多喜駅は現在いすみ鉄道が所有する。のどかな里山を走る足として、今も昔も変わらずに愛され続けている。 

「ゆるり」より


カムイ外伝の白土三平さんと寿恵比楼旅館

2009年09月13日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

日本映画最高のスタッフ・キャストによるエンタティメント超大作!!として、9月19日、全国ロードショー『カムイ外伝』をご覧になった方はいらっしゃいますか?

原作者は白土三平さんです。 テレビでこの映画のCMが流れたので、この白土三平さんと、いすみ鉄道大多喜駅から10分ほど歩いたところにある寿恵比楼旅館(現在は営業されていないようです。小湊鉄道バス営業所向い)のことを少しご紹介します

私の手元に、つげ義春『つげ義春コレクション・苦節十年記/旅籠の思い出』があります。そのP16~21に、昭和40年9月末頃、白土三平さんとつげ義春さんが半月ほど滞在して仕事をされた時のことが書かれています

以下、『つげ義春コレクション 苦節十年記/旅籠の思い出』より抜粋

 昭和40年の9月末ころ、白土三平さんとそのマネージャーの岩崎さんと私の三人は、千葉県大多喜町の「寿恵比楼」という宿に半月ほど滞在し仕事をしたことがあった。私は短編を一作仕上げ、白土さんは案だけを練っていた。その案を練るために白土さんはこの宿をよく利用していたようで、仕事の合間にそこいらへ釣りをしに行くバイクまで預けていた。
 この寿恵比楼という宿は、町外れの夷隅川の橋のたもとにあった。商人や工事関係の客が主に利用するようで、昔ながらの商人宿だった。主人はどこかに勤めていて、三十歳位のおかみさんと、その妹の十七、八の娘さんと、お婆さん(主人の母親)が宿を切り盛りしていた。もっともお婆さんは何もせず、いつも帳場の長火鉢の前で煙管をふかしているだけだったが。おかみさんはぽちゃっとして明るく気さくで、おかみさんの里から手伝いに来ている妹のカズちゃんは、色白で可憐でやはり明るい娘だった。お婆さんは男のように髪を短くしていた。主人はあまり家にいないので、私はチラとしか会ったことがなく印象に残っていない。
 白土さんはこの家族と親しい付き合いをしていたようで、私と滞在していた時も、お茶に呼ばれたり、宿代に含まれていないお午にも時々呼ばれ、私も岩崎さんも一緒に階下の帳場へドヤドヤおりて行って、おかみさんやカズちゃん相手に世間話をしたり、その場に寝そべって煙草をふかしたりで、随分気ままにしていた。
 その宿の隣には、小湊鉄道バスの車庫があった。バスガイドの寄宿舎もあり、夜になるとその寄宿舎の窓にいっせいに明かりがともり、若いガイド嬢たちの賑やかな声が聞かれた。宿と寄宿舎の窓はいくらも離れていないので、開け放った窓から彼女らの話は筒抜けだった。男三人のこちらを意識して声を大きくしていたのか、大声だと段々口調が芝居がかって、身振りにも抑揚がつき、劇を見せられているようで楽しかった。
 私はこういう宿を定宿にしている白土さんが羨ましく思え、自分も将来たくさん稼げるようになったら、定宿を持ちたいと思った。
・・・・・・・・・・
 寝る時にカズちゃんが蒲団を敷きに来て、私がドテラのまま床に着こうとすると「ドテラのまま寝るとせつなくてねえ」と言った。哀しいときのせつないは分かるけど、ドテラでもこもこして寝苦しいのをせつないと言うのは面白いと思った。可憐なカズちゃんが恋愛でもした時は、せつない胸のうちをどういう言葉で表現するのだろうと思った。
・・・・・・・・・・・ 

 この文を綴っていて私は、これまでにどの位、旅籠に泊まったのか思い出してみた。すると全部は思い出しきれないけれど、案外多いことが判った。

 大多喜では寿恵比楼以外に「大屋」という旅籠に四十八年に泊まっている。大屋の方が寿恵比楼より造りは本格的な旅籠で、明治か江戸時代のままとか言っていた。宿の人の感じも悪くなかった。おおむね観光旅館より商人宿の方が気さくで親しめるように思える。 (以上 抜粋)

つげ義春さんが2年後に再び寿恵比楼旅館に行かれたとき、おかみさんに手土産を渡しながら「さっき白土さんに会ってきた」と言うと、おかみさんが「白土さんは長いことお見えになっていない。どうしているのか」と聞かれた。その頃白土さんは上総湊に家を借り、仕事場にしていたので途中寄って来たことを報告すると、そばにいたお婆さんが

「あんだと ヒゲは湊にいるんだと、それじゃカカアも一緒だべ」と。

白土三平さんは髭も髪も構わぬほうでのび放題、印度の行者を想わす風貌だったが、マンガ界の巨匠も寿恵比楼旅館のお婆さんには、ただの髭と言われているのが可笑しかったそうです

つげ義春さんがこれだけ書かれているのですから、白土三平さんご本人のエッセイなどがありましたら寿恵比楼旅館のことなどが語られているのではないかと思います。

 

映画カムイ外伝』2009年9月19日公開  原作:白土三平/<WBR>脚本:宮藤官九郎/監督・脚本:崔洋一/出演:松山ケンイチ、小雪、伊藤英明、佐藤浩市、小林薫、大後寿々花、イーキン・チェン、金井勇太、芦名星、土屋アンナ ...

白土 三平(しらと さんぺい、男性、1932年2月15日 - )は、東京都出身の漫画家。本名は岡本 登(おかもと のぼる)。『忍者武芸帳 影丸伝』『サスケ』『カムイ伝』など忍者を扱った劇画作品で人気を博した。

『カムイ伝』(カムイでん)は、白土三平の長編劇画。1964年から1971年まで『月刊漫画ガロ』に連載された。連載中、『週刊少年サンデー』に「カムイ外伝」を不定期連載している。1982年から1987年まで『ビッグコミック』誌上に「カムイ外伝 第二部」を連載、そして同誌上に1988年から2000年まで「カムイ伝 第二部」が発表された。現在「カムイ伝 第三部」の発表が待たれている。

*白土三平ファンサイト  こちら  すごいサイトです!


久我原さんと「クアウテモック号歓迎」 その1

2009年06月14日 | いすみ鉄道沿線の文学・歴史

 今夜は久我原さんからの報告です。 

 いつもは落ち着いている相棒さんにご注目

                      

6/12、会社休んで、御宿にクアウテモック号を見に行きました。

日本とメヒコの友好発祥の地への表敬訪問ですが、御宿はには大型船が入港することができなかったのでしょう、沖に停泊していました。

先着300名様、漁船でクアウテモックごう見学にご招待ということで、がんばって見に行きました。

何をがんばったかというと、、、

                      

                          
 まず、受付の大行列!!

普段、こんなに大勢の人が漁港に来ることはないのでしょうが、スタッフの人も呆然としているような感じでした。

お客さんのクレームに固まるスタッフの方をよそに一人張り切るおっちゃんがいました。おそらく、この人は漁港の方だと思うのですが、
「○○丸の人はこっち、△△丸に乗る人はこっち、どこぞ誰べえさんはいませんか?」
と大張りきり。このおっちゃんが仕切れば、もうちょっとスムーズに行くのでは??
と思いつつ、漁船に乗りました。

メヒコと日本の旗が掲げられ、友好ムード満点です。

                    
漁船に乗ってみると遠目に見るよりは大きく(初めて乗りました。)、1船の乗客は20人でも結構余裕でした。こりゃ先頭に乗れば気持もよかろうと、ハ行の相棒と先端のベンチに陣取りました。

ところが、、、

港の中は穏やかだったのですが、沖に出るとうねりが大きく、船の先端は大きく持ち上げられ、うねりを超えると2-3メートルは落ちている感じがします。(感じですから実際はどうかわかりませんが、、)

軽いジェットコースター状態です。

ハ行の妻は船が縦に揺れるたびに

「ギャ~」      「ギエ~」    「帰りた~い」

とギャ行の絶叫を繰り返していました。


普段、冷静にハ行なのに今日はギャ行で絶叫しているので、おかしくて僕はずっとそれを見て笑っていました

                               
 そんなわけで、、

へっぴり腰でベンチにしがみつくギャ行の妻とクアウテモック号が近付くと興奮気味にカメラを構えてふらふらする僕をのせた漁船はクアウテモック号に最接近しました。

うねりは相変わらずですが、クアウテモック号のまわりはゆっくりとまわってもらったので、ゆれることは揺れますが、先ほどの衝撃はなくなりました。

ほとんどの船員は丘に上がっていましたが、甲板には何人かが留守番をしていて、

「オラ~!」  と手を振ってくれました。

こちらも   「ビエンベニード!」

と歓迎しました。甲板からは陽気なラテン音楽がかかっていて、メヒコっぽくていいなあ!と思いました。

              

 クアウテモック号はメヒコ海軍の練習帆船とのことで、僕は船の形式とかはよく分からないのですが、間近に見ると美しさと迫力に圧倒されました。

失礼な言い方ですが、、、沖に浮かんでいるところは海上の霞でおぼろげで、幽霊船のようにも見えましたが、近くで見るとカラフルな旗と折りたたんだ帆柱がきれいでした。これは、帆を張って快走するところは素晴らしいだろうなと想像しました。

クアウテモック号を間近に見た妻も先ほどの絶叫はウソのように感嘆していました。

クアウテモック号をゆっくり2周も楽しんで、帰りの航海です。帰りうねりに乗って岸に向かうせいか、行きほどは揺れませんでしたが、なんと漁船のお兄さんが船のヘリに立って遠ざかるクアウテモック号を見ているではありませんか!!

今度は妻は、「信じられない。」 「意味が分からない。」 「足がむずむずすると。」 肩をすくめていました。 

                                                            
 まあ、行列の混乱、漁船の大揺れと苦難はありましたが、美しい帆船をあれだけ近くで見られたことに見学客一同大満足でした。

そういえば、丘に上がった船員の人たちは大漁旗が珍しいらしく記念撮影をしていました。

時間もおせおせだったのだと思いますが、コーディネータか、大使館の人かわかりませんが、女の人が若い水兵さんに

「ほら、ほら、早くしないとバスに遅れるわよ。(スペイン語。おそらくこんなこと言っているのだろうと妄想。)」

と注意されているところは修学旅行の引率の先生のようでした

この後、大多喜城でジャンヌさんと合流しました。

                                                                              、、、つづく。