散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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国語辞典の憂鬱

2020-01-03 13:54:13 | 日記

こちらは、2019年12月23日(月)に書くはずだったこと:

 熱心なのは結構だが、質問する前に少しは自分でも努力してほしい、いえ、たいそうなことではなく、わからない言葉があったらまず国語辞典を引いて確かめてくださいねという話。

 ある教科書のある章で、執筆者(僕ではない)が「キリスト者」という言葉を使った。これが「キリスト教徒」あるいは「キリスト信者」の誤植ではないかという質問(?)が、開講以来既に二件来ている。
 質問には型どおり礼儀正しく答えたが、親しい間柄だったら少々小言を言いたいところ。

 理由1: 質問者らは宗教改革者マルチン・ルターの歴史的著作、邦訳『キリスト者の自由』というものの存在を知らないらしい。高校世界史あるいは倫社(今は科目名が変わった?)で、一度は見るなり聞くなりしているはずの超重要文献である。原著タイトルは De libertate christiana(ラテン語)または Von der Freiheit eines Christenmenschen(ドイツ語)。その邦題が『キリスト者の自由』として定着している。

 理由2: 手許の国語辞典はいずれも「キリスト者」という見出し語を掲げている。上記翻訳の影響もあろう、標準辞書レベルで広く認知された言葉なのである。「辞書を引けば分かる」というのは、このことだ。

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 別のところでは、「かてて加えて」という表現(僕が使ったのではない)を「誤植です」と断じてきたものもあった。正確には「かてて」という意味不明の語が挿入されている、と知らせてきたのである。自分の知らない表現があるかもしれない、とは思えなかったらしい。
 
  かてて くわえて - くはへて 【糅▼てて加えて】( 連語 )
  〔「かて」は動詞「糅てる」の連用形〕
  その上に。さらに。普通、よくない物事が重なる時に用いる。 
  「事業に失敗し、-事故に遭う」
https://www.weblio.jp/content/糅てて加えて

 辞書を引くのも、今はインターネット上で手軽にできる。わざわざ質問をよこす前に、わずかの手間を厭わず是非とも辞書にあたるよう願いたい。

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 ・・・などと下書きして、あまり面白い話でもないので放ってあったところへ、一つ追加ネタができた。これは学生さんではない、文筆を副業とするらしいドクターか誰かの文章である。
 書き手は女性で、かねがね「相手について難しいことは言わない、誰でもいいからいい人を見つけて結婚しろ」と親から口うるさく言われていたところ、ある東欧人と出会ってまもなく求婚された。初めは冗談半分かと思っていたが、やがて相手の本気と誠実な人柄を確信できるようになった。相手の両親は喜んでくれているという。日本で定職にも就き、これなら文句のつく理由もない。
 ようやく朗報を伝えられるとばかり、郷里の両親にいそいそと報告したところ、外国人と聞いたとたんに掌が返った。「どこの馬の骨か分からない」云々とケンモホロロの有様で、「誰でもいいから」はどこかへ吹っ飛んでしまった。書き手の落胆と苦衷は察するに余りある。

 問題はこの一文の結句で、曰く「『親の心 子知らず』とはまさにこのことと悟った」というのである。
 ??
 どうなんでしょうね。
 さっそくインターネット辞書にあたれば、
 「子を思う親の心を、子は察しないで勝手な振る舞いをする」とある。
https://www.weblio.jp/content/ 親の心子知らず

 これをそのままあてはめても、当該文章は部分的には成立する。しかし、それだと「私って何て勝手な振る舞いをしたの、お父様お母様ごめんなさい」という流れになるだろう。書き手の意図は明らかにそうではなくて、「親の本音はフクザツカイキで、子どもの側からは測りがたいものだわ」というのである。非難の対象が子どもか親か、きれいに構図が反転している。
 書き手は確信をもっているから辞書など見るはずもなく、「辞書を当たってください」と願うのも無意味ということになるが、困るのはこの文章を読んだ人々の側で「親の心子知らず」とはそういう意味かと誤解が広がることである。「情けは人のためならず」という有名な誤用(転用?)も、似たような伝言ゲームの中で発生し定着してきたものだろう。

 書かれている内容が興味深いだけに、少々残念な次第。もちろん、自分自身も似たような失敗をどこかでやらかしているに違いない。ネタ元?しまった、url をどこかへやってしまった。

Ω


 

『不在の騎士』

2020-01-03 12:19:56 | 日記
2019年12月6日(金)、つまり4週間前に書くはずだったこと:

 『不在の騎士』というタイトルから、どんな状況を思い描くか?

・ 王様が騎士団に招集をかけたところ、一人だけ来ない者がある。不審に思った王が家来を調べに遣ったところ、騎士は招集に応じて直ちに王都へ発ったのに、ある街を出た後でふっつりと消息を絶っていた。王はその探索を命じ、そこから騎士団全体が大きな謎に巻き込まれていく。

・ その城には伝説の騎士が住んでいると信じられていたが、もう長いことその姿を見たものがない。ところが、どうしても騎士 ー 領主でもある ー の決済を仰がねばならないことがその一帯に生じた。村人が恐る恐る城に立ち入ったところ、そこには古びた鎧があるだけで騎士の姿はどこにもなかった。

・ その地を治める騎士は、異教徒との戦いのために王の軍に参じ、長らく戻っていなかった。主の不在を良いことに専横の触手を伸ばし、領地と騎士の妻を我がものにしようと窺う代官一党に、騎士の息子が忠臣の力を借りて戦いを挑む。(オデュッセイア中世版?)

 想像がいくらでも膨らむところだが、カルヴィーノの作品が描くのはそうしたものではない。燦然と輝く見事な鎧の中には、実は誰もいないのである。鎧は確かに存在し模範的な騎士として行動する、つまり鎧が騎士としてあるのだが、その内部を占めるべき肉体が存在しない。「不在」というより「不存在」あるいは「非在」と言うべきか。
 実はこの原題が "Il cavaliere inesistente" であり、「不在」と訳される原語は英語風に言えば absent ではなく inexistent である。中国語なら没在 vs 不在か。「(どこかに)存在するが、今ここにはいない」のではなく、「そもそも存在しない」のだ。
 これを『不在の騎士』と訳して良いかどうか、揚げ足は取れるが代案を出すのは相当難しい。あえて『不在』として上述のような想像を喚起し、読んで戸惑い疑問を抱くのを織りこみずみとするのが、従来の訳者(達)の苦肉の策と思われる。それも良いかといつになく鷹揚になれるのは、作品そのものにそうした悪戯(いたずら)気がふんだんに香るからであろう。どだい「翻訳するとは裏切ること」なのだし。
 そういえばヘミングウェイの『日はまた昇る』、原題は "The Sun Also Rises" である。これがいつも不思議だった。「今日と同じく明日また昇る」(again)ではなく、「月も昇れば日もまた昇る」(also)なのか。ならば邦題は『日また昇る』となるべきだろうに。作品を読み返してもなかなか腑に落ちず、40年こっち首を傾げ続けている。

またもまた首を傾げつ年を越し


Ω


お正月がおめでたいわけ

2020-01-01 13:00:50 | 日記
2019年1月1日(水)

 

 明けまして おめでとうございます。今年もどうぞよろしく御笑覧ください。

 画像は無料サイトからダウンロードした(https://sozai-good.com/illust/animal/mouse/2020-mouse/86017)。筆のタッチが絶妙で、とりわけ尻尾の線の自然なこと。有料でも欲しいぐらいで、どちらかのどなた様かに厚く御礼申し上げたい。
 同じイラストレーターの作品と見える、いずれも可愛らしい数点の中で、この2匹は親子か番か、左上方の同じ方角を見やる姿勢なのがひときわ面白い。その先に何があるか何を望むかは、見るものの想像次第、意志次第。

 一昨年他界した母が子年の生まれだったので、今年が生誕96周年にあたる。僕は1972年に中学を卒業した。着物姿で卒業式に来てくれた母が当時48歳、それから48年経ったことになる。人生長いか短いか。
 外は晴天、モズの鋭い鳴き声があちこち場所を移しながら聞こえてくる。もっこりした焦げ茶色の塊が俊敏に飛び渡るのを縁側から見て、確かに自分が帰省していることを知る。昨年は東京で元日礼拝からの帰途、電線を埋めるモズの群れを見あげたのだった。
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/696d7d4cb88e22931df3ff1d29afdc42

 そういえば昔、福岡の従姉が年賀状をよこして「何がおめでたいんだかよくわからないけど、おめでとう」と書いてきた。小学生の頭では気の利いた応対も思いつくはずもない。従姉は中学生だったから、かみ合わないやりとりも無理からぬところ。
 今なら何と返すか。従姉も今なら理屈をこねたりせず、息災に迎える高齢の新年を素直に喜ぶことだろう。若い頃にはピンときにくいことだが、個人の誕生日を祝う代わりに、正月を期して皆が一時に歳をとった昔ならば、誰にとっても分かりやすい話だったに違いない。君も私も天も地も、皆一斉に新生の朝である。
 あらためて、おめでとうございます。

Ω