散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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医療側のモラル

2016-12-17 23:14:36 | 日記

2016年12月17日(土)

名無し様:

コメントありがとうございます。こうした方面にお詳しいのですね、数字を挙げてくださり勉強になりました。

「医療側のモラルを疑わない」という趣旨ではありません。疑うべきこと、問うべきことはたくさん ~ 山ほど ~ あります。それが犯罪抑止と関連することも確かだと思います。ただ、先般のニュースで報道された対策の方向性は、少々ずれているように感じました。(医療側のモラルを問題にする立場から見ても、やはり微妙にずれていないでしょうか。)その結果、医療者ではなく精神障害当事者にいっそうのスティグマが付与されることを恐れる次第です。

「医療側のモラル」、痛い言葉です。

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逮捕者の内0.3%程度ですか。でも措置入院という形で入院させれていれば実際はもっと多いですか。ところで2年前の佐世保事件といい、今回の津久井やまゆり園の事件といい不思議なのは手のかかる患者は先に退院させてますよね。
医療側のモラルは疑わないんですか?

Ω

 


「?」マークが頭上に重い12月の木曜日

2016-12-09 08:47:06 | 日記

2016年12月8日(木)

 何かと慌ただしく、書きかけのまま5日ほども経ってしまったが、12月8日(木)午後7時のニュースのことである。次々に報道される一件ごとに「?」マークが頭上に追加され、しまいに重さで頭がツブレそうになった。たまたま真珠湾攻撃の日にあたり、首相の現地訪問が大いに話題になっているがそのことではなくて。

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 まずは税制改正大綱。酒税の見直しがひとつの目玉で「ビールは下げ、発泡酒は上げる」というので、街頭インタビューでビール党のお父さんは喜び、発泡酒派の奥さんが残念がる様子なんか紹介し、次は生産者に転じて日本酒製造者は笑顔、ワインメーカーは渋い顔という具合。悲喜こもごもにして和気藹々という流れのようだが・・・

 自分も酒は好きなので気が引けるけれど、酒害問題を誰も指摘しないのか気になる。日本人の心身の健康をめぐり、アルコール関連問題は顕・潜在的な一大脅威である。僕らの文化の重要な一部であるにしても「生活必需品」とは言えず、あくまで「嗜好品」との位置づけは譲れない。ならば酒税は高めに設定して税収をアルコール対策に充てるのがスジというものではないか。

 この件、「カジノIR問題」とも連動する。経済効果ばかり言っててギャンブル依存症対策はいいのかという野党の指摘は、この際まったく同感である。もっとも、「塾」の懇親会で勝沼さんに「パチンコはOKでカジノはダメという理屈が通らない」ことを指摘され、なるほどとも思った。問題はそこからで、「パチンコを容認しているのだからカジノも当然かまわない」になるのか、「そもそもパチンコは現状でいいのか」にいくのかが考えどころである。パチンコを禁止すべしなどとはいわない、性急・過度に清潔を求めるのは逆効果であること、歴史に名高い「禁酒法」の教訓が示す通り。ただ酒の場合と同様ギャンブル依存症は軽視できない問題だし、それを抜きにした経済効果論は、長い目で見てかえって国民経済上の負担を招きかねない。

 それに現首相はもともと「美しい日本の国柄」みたいなことに痛くこだわっていたはずだ。賭場を開帳して稼ごうという魂胆と美しい国柄がどう擦り合うものか、蓮舫に「品位がない」とつっこまれている図が可笑しく腹立たしい。

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 次が相模原事件。厚労省の検証・再発防止策検討チームが、措置入院患者を退院後も継続支援することを求めたらしい。「入院中から自治体と医療機関などが支援策を協議して、解除後も中長期的に支援していく」云々とあり、一見適切な勧告のようであるけれどやっぱり「?」が付く。チームの座長(法律の専門家)がテレビで「このような悲惨な事件を二度と起こさないため」という意味の発言をしていたが、気になるのはそこだ。いわゆる凶悪犯罪のうち措置入院後の患者が起こしたものがどれだけあるか、それを明らかにしてから話を進めないとおかしい。はっきりした資料が手許にすぐ出ないが、措置入院患者が退院後に重大な犯罪を犯しているケースは件数としては少なく、従って「継続支援」がなされていれば防ぎえた「この種の事件」も同様に少ないはず、「犯罪」の観点から見ればごく一部の希なケースと思われる。犯罪防止を目的として力を入れる部分かどうか。

 防犯と切り離して「継続支援」そのものを精神保健福祉の充実のために論じるなら大いに歓迎だが、どうもそう聞こえないのである。ニュースを一緒に見ていた家族が「退院後も追跡監視できるということ?」とつぶやいたが、そのように聞こえて仕方がない。TVに一瞬だけ映った被害者の家族 ~ さぞつらかろうに、頭をしっかり働かせておられる ~ が、「この事件全体の中では措置入院は決して主要な問題ではなく、さまざまな角度から考えるべきだ」と語っており、この話の続きこそ聞いてみたい。また、もしも本気で「継続支援」を考えるならたいへんな手間暇費用がかかることで、ただでさえ人手不足で根をあげている現場が「はいやります」と安請け合いできるはずもないのである。

 念のために断っておくが、この種の出来事の再発を防ぎたいのはもちろん山々だし、措置入院患者の継続支援もそれ自体は望ましいことである。ただ、この両者を因果関係で結び、前者の方策を考えるうえで後者に注目するのはポイントがずれていないかというのだ。心理学などでいう「誤った原因帰属」にあたるもので、このチームの方向性はさておき、一般にこうした原因帰属に飛びつく心性が極めてスティグマ親和的であるのはまちがいない。

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 締めくくりが厚木基地の騒音裁判、いわゆる第4次厚木基地訴訟である。上告審は二審判決を破棄し、「飛行差し止め、将来の被害補償いずれも認めない」との判決を下した。5人の裁判官全員一致だそうだが、どなたか一度ぐらいは実際の騒音を聞きに行ったのかな?僕は桜美林時代にしばしば経験した。騒音なんてものじゃない、金属音まじりのものすごい爆音で、通過するまでの数十秒~数分というものは授業どころか会話もできはしない。原告団は、せめて午後10時から午前6時までの飛行差し止めを求めたのだが、それが却下されたのである。こんな轟音を夜討ち朝駆けで聞かされる不快と苦しさを「国益の為に我慢せよ」って、アリですか?

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 「怒りを笑いに変換する」スキルがこういう時こそほしいものだが、まだまだ初心者の域にも達しない、まるで笑えない、塾があったら通いたい。そうそう Kokomin さん、この件は継続テーマですから今回の欠席を悔やむ必要は皆無ですよ。次回たっぷり語ってください。ところで、「わらふ laugh」と「ゑむ smile」を区別するのは笑い学のイロハのようだけれど、赤ちゃんのそれって両者が融合しているように思いません?ニーチェ先生が超人の完成型としてイメージしたのもそれであったような気がしますが、どうでしょう?

> 産後うつ病は産後2ヶ月ごろまでのお母さんに多いと言われているのは、2ヶ月を過ぎると赤ちゃんが笑うようになることと関係あるかしら…なんて考えたり。「この子が笑ってくれて可愛いと思えた」と話した産後うつ病のお母さんに希望が見えたので。

> 石丸塾参加したかったー!

Ω

 


起き抜けの偏頭痛 / 原節子さんと電車内の赤ん坊

2016-12-06 07:34:46 | 日記

2016年12月6日(火)

 朝刊に原節子のエッセーが発見されたことが載っており、それを読んでいたら久々に始まった。視野の中心が何だか見にくい感じがし、やがてそこにキラキラしたものが浮かんでくる。三角形のモザイクを長くつなぎ合わせたような形で、銀色のモザイクのひとつひとつが6-7Hzぐらいで明滅しており、それが次第にはっきり大きくなってくる。いわゆる閃輝暗点である。

 40歳を過ぎた頃だったか、初めてこれを経験した時は片眼を交互につぶるなどひとしきり実験した。明らかに中枢性のものと結論され、そのうちキリキリと強い頭痛が襲ってきた。ああこれが偏頭痛発作というものか、厄介なことになったかと思ったが、帰宅後にバッファリンを飲んでしばらく横になっていたら案外すんなりと痛みがおさまった。偏頭痛は血管拡張発作であるから通常の鎮痛薬は無効、血管収縮薬が必要としたものである。血管拡張によるホンモノの偏頭痛発作ではないのかな、偏頭痛発作にも亜型やら不全型やらがあるのかな、等々考えたものだ。

 その後、閃輝暗点は年に何回か、前触れなく襲ってくるようになった。患者さんには「決まって発作が起きるような状況や背景はありませんか?」などとしたり顔に訊くところだけれど、時間帯・飲酒・疲労・心労など振り返ってみても全く思い当たるところがない。ただ面白いのは、閃輝暗点に気づいた段階でいち早く鎮痛薬をのむと頭痛が予防できることである。バッファリンでもロキソニンでも変わりなく、服用して15分から20分経つといつの間にか閃輝暗点が消えており、頭痛も起きてこない。これは生じた頭痛を抑えられる以上に面白いことで、薬理学的には説明できそうもないが、経験的には既に数十回試して一度の外れもない。いわゆるプラセボ効果かとも思うが、プラセボ効果かもしれないと承知でのんでもやっぱり効くのが愉快である。

 というわけで、僕のお出かけ鞄には何錠かのロキソニンが必ず入っているのでした。あ、おさまった。

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 「エッセーは省線電車(旧国鉄)でのエピソードを紹介。赤ん坊の激しい泣き声に「やかましいぞッ!」などの怒声が上がったが、突然「母親の身にもなってみよ。心で泣いてるぞ!」との声で静まりかえり、その声は「烈々たる気魄に充ちてゐた」という。」

 「さらに、座席の若い女性が、乳児を抱いて立つ母親に「抱っこさせてください」と手をさしのべたが、ある紳士が「抱いてあげる親切があったら席を譲りたまへ」と怒鳴る光景に、原さんは「紳士は『善』を知ってゐると云へやう。けれども『善』を行へないたぐひであらう」と皮肉った。」

~ 原節子さんの秘めた思い (2016年12月6日、朝日新聞34面)

 子どもの泣き声を聞いて怒るか微笑むかで、その人柄が鮮やかに知れる。翻って、子どもが泣くのを聞いて微笑むことが許されるかどうかは、その時代その地域の平和度の指標とも言える。エッセーが書かれたのは終戦翌年つまり1946(昭和21)年とある。電車内の赤ん坊連れは、直ちに引き揚げ者の苦難を連想させるだろう。敵に見つからぬよう赤ん坊を「黙らせる」ことを強いられた母親がどれだけいたことか。同時代の苦難への反応様式が鮮やかに分かれる場面に原さんは居合わせ、おそらくはそのことを鋭敏に意識している。

Ω

 


大笑い小笑いしながら仲間から学ぶこと

2016-12-05 11:22:30 | 日記

2016年12月4日(日)

 待降節第2主日、午前中教会で過ごした後、渋谷へ移動して今年最後の「塾」の集まり。直前に体調を崩したメンバーなどあって8人になったが、楽しい会だった。テーマは「笑い」とさせてもらい、11月に我孫子で扱おうとしたことを、資料もそのままにホームの仲間たちに聞いてもらったのである。1時から4時30分までたっぷり時間をとってくれて、さすがにこれではもてあますだろうと思ったが、進むにつれて夢中になってあっと言う間に時間が過ぎた。時間というやつは本当に謎である。

 途中で「『精神分裂病の世紀』という本をかねがね書きたいと思っている」と打ち明けたら、それを聞くのは少なくとも3回目ですと指摘された。「カレン・カーペンターが亡くなった時のこと覚えてる?」と勝沼氏に振ったのもやはり3回目だそうで、これは1983年のことなんだから彼がよほど早熟な子どもだったとしても無理な相談である。ある年齢を過ぎたあたりから、特に年下の相手との世代差の認知がひどく悪くなっている。相手を高く評価している場合にそのことが起きやすく、「年長者を敬う」という心性が因果逆転して「敬意に比例して相手の年齢を過大に見積もる」という認知の傾向を生んでいるようにも思われる。

 それにしても執筆の夢をうちあけること3回というのはあんまりなことで、3回口にする間には本が仕上がっていないと恥ずかしい。理由がなくもないことで、いくつかの点についてかなり慎重な調べが要るものと思われ、その目途がなかなか立たないのである。ならばなおさら急ぐべし、ブログなんか更新してるヒマはない・・・かな。

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 「笑い」は論ずるものでなく実践するものだとすれば昨日の会は成功で、3時間30分の間に皆ずいぶん笑ったように思う。べてるではないが「場の力」というやつで、実は高性能の「笑いのスイッチ」を脳内に備えているとか、昨日も御夫君との間で笑いが止まらなくなる思いをしたとか、それぞれ話題はふんだんにもっている。後のためにメモしておきたいこともいろいろとあった。文脈から切り出してしまうとインパクトは萎えてしまうけれど、それは承知で列挙すれば・・・

・ 笑いは常に作り出す必要がある ~ これじゃ何のことか分からないが、たとえば人生早期につらい体験があったとして、その体験自体は既に起きたことだから今さらそれ自体が増減するわけではないのに、そこに由来する恨み悲しみは日々反復生産されるから、それを笑いで押し返そうとするならこれまた日々営々と作り出さねばならない・・・などといったことである。

・ 不安や恐怖を紛らわすため別の方面に笑いを求めるということがある一方で、自分が怖れている対象や状況そのものを笑うということもある。その方が解決方法として本源的であるのはいうまでもない。

・ 生死の境や分岐点に臨むといった深刻な場面で「笑い」を動員する人は、実は決して少なくない。

・ コントロールを断念し、いわば「吹っ切った」時に浮かべる笑み smile がある。このことが連想させる心理学上のコンセプトに「創造的絶望」というものがある。

・ 笑い laugh にはもともと攻撃的な要素がある。笑う時の人の顔が、歯を剥き出しにしていることを考えれば良い。たとえば「笑い」というものを知らない知的生命体が ~ 生命体ではなく人工知能でも良い ~ 人の哄笑を観察したら、攻撃に伴う(あるいは先立つ)何らかの儀式と解釈するかもしれない。「笑いものにする」という行動様式の加虐性を思えば足りることでもある。

・ 他人の苦労は可笑しいものである。それを笑うには、ただその人に対する親しみや共感を捨てさるだけで良い。

 等々・・・

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 この時期にこんなことを論じ始めるのは、ようよう大西洋を越えてたどり着いた新大陸の反対側に、もっとデカい太平洋を見つけてそこに漕ぎ出すみたいな感じがする。大げさでもないのですよ、主観的には。

Ω