散日拾遺

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白黒にこだわる理由

2016-12-02 07:40:11 | 日記

2016年11月29日(火)

 先週の同窓会、W君がまめまめと写真を撮ってくれて、良いコレクションが配信された。面白いのは、彼がほとんどの写真を白黒で撮っていることである。集合写真はカラーだが、個別の語らいなどスナップはすべて白黒。それで思い出すのは、新聞記者時代のO君が『人物をとるなら白黒に限る、深みが違う』と語っていたことで、貴君も同様の理由なりやとメールで尋ねたら、W君から詳しい返信が来た。その趣旨を僕の理解に従って箇条書きにまとめると・・・

1. デジカメの受光素子は、人が見ている色を必ずしも正確に再現しない。

2. 従来の光源もLEDも一見、同じ色の光を発しているようであるが、LEDには昆虫が集まらないという事実が示すとおり、実は別の物理現象である。このことからも、「色」という属性にはあまり信頼を置くことができない。

3. カメラの世界で「記憶色の再現」という言葉がある。我々が想起するのは現地で見た色そのものではなく、記憶に焼き付けられた色、いわば自分色に染めたものであるらしい。そして我々が想起において今体験する「記憶色」は、現実の世界には既に存在していない。

4. 翻って白黒写真は「色」を我々に押しつけることがない。押しつけから解放されて安堵するからか、色ならぬ明暗コントラストや形そのものに価値をみいだすのか、それとも白黒写真に自由な「色」を付与できるのが楽しいのか、何とは特定できないがこうした事情で白黒写真が好ましい。

 W君、別の同窓つながりで楽しく飲んで帰って書いたらしく、悦に入った書きっぷりが読み手にも心地よい。同じ「色」とされていても、それぞれが見ている「色」は違うはずだというのは、臨床的にも哲学的にもたぶん重要なことである。カント先生の「物それ自体 Ding an sich は知り得ない」という議論を思い出したりする。O君の言う「深み」は、押しつけを免れた想像力の蠢動・躍動から生まれるものか。W君の議論そのものが既に相当深いのである。

 しかし彼は囚われない人でもあって、同窓会の日の屋外の自然美を自慢の腕で鮮やかに写しとっている。会場でのスナップもたくさん載せたいところだが、他人様の肖像権には最大限の配慮を要する。被写体としては甚だ不足ながら自分自身の写真を使うしかなく、もう一人だけ写っているものを先様のおゆるしをいただいて掲載することにする。

  

 ↑ 燃えるが如き紅葉、カラーの威力。

 

 ↑ Nさんの表情から、この瞬間の話題が何だったか正確に想起できる。思慮に富み人を傷つけない言葉の選び方が40年前と少しも変わらず、患者さんにはありがたいことだろう。白黒の良さが生きた一枚。

(撮影はいずれもW.M.氏、許可を得て転載)

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