2016年12月27日(火)
先日は片山和彦氏の名講演について書いた。その予見通りノロが猛威を振るっている。受験生を抱える当家も要注意。この間、僕の交際圏にいるもう一人の和彦氏から久しぶりにメールが届いた。放送大学OBのハガキ詩人、池下和彦さんである。
『品切れ』という詩にドキリとした。
「あれっ/何々はないの、私がたずねると店の人は、ついさっきまであったんですがと空白を指さす」
その後だ
「あるものではなく/ないものを指さす/私が私を指さすときのように」
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メール本文のやりとりも楽しかったりして、これは12月20日の日付・・・
池下さん 「あしたは冬至。あさってから『日が長くなりましたねえ』のあいさつ解禁?」 池下
イシマル 「はい、冬至ですね。小さい頃は『だから何だ?』と思っていましたが、最近とても意味深く感じます。冬至・春分・夏至・秋分・・・自然の摂理にして人倫の基、なんて。」
先日からS先生御推奨の『神々の指紋』なんか夢中で読んでいるので、「天空の四方」がなおさら気になるのかも知れない。でも本当に、宇宙の運行と自分一個の状態が連動していることを年経るほどに痛感し実感する。「天気が悪いから気分がすっきりしない」なんて、30~40代ぐらいまでは寝言だと思っていた。今は副鼻腔の重さで天気が分かる感じがする。だから「気」という言葉は実によくできている。天気・大気といったマクロコスモスの「気」と、気分・気もちといったミクロコスモスの「気」が、互換的であり等価であり同根ですらあるのだ。ウパニシャッドで「ブラーフマンとアートマンの合一」とか言うのはこのことかな。「呼吸する」ことをドイツ語で atmen というのを知って、タマゲたことがあったっけ。
何しろ冬至、一陽来復、カボチャに柚子湯。冬至が新年で冬至がクリスマス、だからクリスマスが新年。ナザレのイエスの誕生日が12月25日であるとは誰も主張できないし、その必要もない。ローマ人のサトゥルヌスの祝い(Saturnalia)を踏襲したのだと友達が教えてくれた。12月17日から7日間続く祭りで、その間は奴隷にも一定の自由が許され皆が楽しく陽気に祝ったという。サトゥルヌスはギリシア神話のクロノスと同一視され、共に時の神とも農耕神ともされるらしい。大きな鎌を持っているのは、農耕とあわせて「時を刈り取る」意味があるからだそうだ。「刈り取る」はピンとこないが、「時を刻む」という表現を思えば合点がいく。
死と新生、刈り株から新芽が出るためには、まず刈り取らねばならない。
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