散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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魂と魄 / sono timida / 年賀状のこと

2016-12-30 10:37:54 | 日記

2016年12月30日(金)

 人間の精神をつかさどる陽の生気を「魂」、肉体をつかさどる陰の生気を「魄」というのだそうだ。太陽に対して月は太陰、それで月が見え始めることに「魄」の字を当てるのだと。

 精神が「陽」で肉体が「陰」なのか、ほとばしる「気魄」は肉体に出ずるものか等、イメージが蠢動する。これが漢字の楽しさである。

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 言葉にこだわるきっかけは至るところに転がっている。数寄屋橋の交差点に面したビルの2階に Buono Buono というイタリア料理店があり、少なくとも四半世紀は続いていた。職場がすぐ近くにあるO君がランチに誘ってくれたのがきっかけで、最晩年の赤尾敏氏の演説を窓越しに眺めたような気がするが、あるいは記憶の中で合成しているだけかもしれない。店内が広々して眺めが良く、味も良いのに値段が手頃なので、その後もときどき思い出しては利用した。ここ数年は、バングラデシュ出身というがっしりしたウェイターの、どこか卑しからぬ客あしらいも楽しみになっていた。

 12月23日、毎年恒例の外出時に寄ってみようとして、閉店したのを初めて知った。2015年半ばまではグルメ情報の口コミが書き込まれているから、昨年後半あたりのことらしい。外出の帰り、宝くじの行列越しに店のあった場所を眺めると、どうやら広いフロアがいくつかの店に分けられているようである。有楽町駅側の入口には高級ステーキハウスの看板がかかり、その料金というのが僕らの分際をはるかに超えている。つれあいと結婚前に行った店は、これで全て姿を消した。

 在りし日のBuono Buono は受付を入るとやや曲がりくねった廊下があり、側面のガラス越しに厨房を見ることができた。そのガラス面に何やら書いてある言葉の意味を知りたくて調べたのが、たぶんイタリア語の辞書を引いた初めである。(その後も数えるほどしか引いちゃいないが。)

 Non mi guardi cosi, sono timida.

 「そんなに見つめないで、内気なの」って感じかな。もっともこれが翻訳の面白いところで、手弱女ぶりに訳すと決まったものでもない、「じろじろ見てんじゃねえ、こちとらナイーブなんだよ!」とスゴんでみせたって良いわけだ。何しろ意味はそんなところで、cosi はモーツァルト"Cosi fan tutte" の cosi、timida は英語の timid と同じ。ヨーロッパ語は便利なもので、フランス語人やスペイン語人なら翻訳は不要であろう。ああ、それにしても・・・

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 恒例と言えば、24~5日にクリスマスカードを交換し、終わると年賀状づくりというのがすっかり恒例になった。去年も書いたように、受けとる年賀状が両面とも印刷で肉筆が一字もないところは、御高齢や心身の事情が察せられる方を除いてこちらからは出さないことに決めた。考え方はいろいろあろうし、それが正しいと言い張るものではない。ただ、干支にまつわる気に入った写真か何かにこちらの所番地までは印刷するとして、宛先宛名は手書きのうえ一言添える。威張るわけではなく、この作業が楽しいのである。

 通信面の記載に要した時間を計ってみたら、89枚で6時間だから平均ちょうど4分になる。宛名とあわせて5分強、この5分間というものは世界数十億の人類同胞眼中になく、ただ年賀状を送る相手のことだけを考えている。ふと思い出すことなどもあり、考えて言葉を選び、敢えて書いたり書かなかったり。この時間があればこそ、年を越えて交わりを続けていける。年を越えて続けたい交わりを選び選ばれている意味がある。

 枚数の少ない小人物だからできることと言われれば別に異論もないが、ただ自分の知る範囲で偉いなと思う人たちは決して印刷だけですまさない。一教室を主宰して数百の医局員を抱える人が、短くとも心のこもる一言を添えて寄越すのに、僕などが「忙しくて手が回らない」とはいえない理屈である。

 今年はまた、途中で妙な気が起きた。昨年もらった賀状を見ながら宛名書きをするうち、ある書道の手練れの寛いだ筆致が目に止まった。何気なくさらりと書かれており、「これなら自分でも書けるのではないか」と錯覚させるのが上手の上手たる所以である。むろん書けるどころではない、似ても似つかぬ凸凹文字になったが、どうせヘタクソならペンだろうが筆だろうが大差ないことと、60枚ほどを強引に押し切ってヤケクソのドヤ顔を作ってみせた。豚児還暦ニシテ童心新タナリ、毎年やっているうちにはいずれ上達もするだろう。

 さて、次は打ち納めと参りましょうか。

Ω


璇璣懸斡 晦魄環照 ~ 千字文120

2016-12-28 12:29:42 | 日記

2016年12月28日(水)

 璇は琁あるいは旋とも書かれ、玉の一種または北斗七星の第二星とある。璣とともに「丸くない玉」のことを意味し、璣は北斗七星の第三星。あわせて「璇璣」は天文観測の道具のこと、あるいはまた北斗七星を指すこともある。編者は前後のつながりから、星一般を指すものと解している。

 というのも、「懸斡」の懸は「(空に)かかる」こと、斡は「めぐらす/回転させる」ことであるから、「璇璣懸斡」で「玉のような星々が空にかかり、めぐってゆく」ととるのが自然だからだ。「斡旋」などとは下心にまみれた下世話な言葉だと思っていたが、「斡」と「旋」からこうして見直すと一転、冬の夜空の清冽な印象を帯びるようである。

 「晦魄」の晦は陰暦三十日(みそか)つまり月の最終日(「三十日の密か事」などと洒落てみようか)、魄は「月の光らない部分(いわゆる「海」?)とあるが、「李注」は晦が真っ暗で見えない新月、魄は月の見え始めることとするらしい。何しろ晦魄が移り変わり、月が満ち欠けしつつ照り輝くこと(環照)を指すのだと。環は輪の形の玉である。

 プラモデルのパーツを組み立てるみたいだ。めでたく完成:

 璇璣懸斡 環晦魄照 センキケンアツ/カイハクカンショウ

Ω


死者に鎮魂、生者に支援

2016-12-28 08:24:19 | 日記

2016年12月28日(水)

 朝7時台のラジオは定時番組を中止し、安倍首相とオバマ大統領のハワイでの書簡朗読を中継している。安倍首相17分、オバマ大統領15分と言ったかな、同時通訳は緊張もあろうし大変だ。日本語と英語は単語を提示する順序がまるで違うから、欧州語間での同時通訳とはまったく異質の非常な苦労がある。それに劣らず大変なのが、言葉の意味を通わせるという作業である。

 同床異夢ということをしきりに思う。戦争はボタンの掛け違いで始まり、戦場の優勝劣敗という掛け違いようのない事実によって進み、戦後にまたボタンの掛け違いが重ねられていく。日米の和解と彼らの言うことが、どのレベルでのどういう和解なのか、和解の土台となるべき実質的なコミュニケーションが成立しているのかと、そこに遡れば心許ない話である。日本(人)とアメリカ(人)はかけ離れた存在でもあり、今でもボタンの掛け違いを続けていないか、双方がそれぞれの「和解」イメージに納得しているに過ぎないのではないか。つまりは未だに同床異夢、それでも解説者らの言うとおり、いずれの指導者も戦争に直接関わらなかった世代に入り、感情を抑えて理念や利害を語れるようになったことは確かに大きい。めでたく過去の話になりつつあることの確認作業かなと、まだ眠い頭で考える。

 日本軍の艦載機が真珠湾からの帰途に墜落し、パイロットが戦死した。彼のためにアメリカ人が碑(いしぶみ)を立てたことに首相の側が触れた。スピーチの中で「寛容」という言葉を6回だか7回だか使ったという。「勇者は勇者を尊ぶ」とも ~ 怪しげな英語で ~ 述べた。勇者たりえず、しかも勇者を演じる他はなかった無辜の数千万にこそ、慰めあれかし。

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 Medecins sans frontieres (国境なき医師団) からニューズレターが届いた。Arigato と朱書され、人々の笑顔の写真が紙面をいっぱいに埋めている。笑顔は良いものだ。黒い人たちの笑顔は白い歯が鮮やかに浮かんで、とりわけ印象的である。

 Merry Christmas!

 

Ω


秀策が患った病のこと

2016-12-27 20:47:31 | 日記

2016年12月27日(火)

 ノロウィルスの講演に触発されたという訳でもないが、研究室の本棚に山本俊一著『日本コレラ史』があるのを、久方ぶりにふと手に取った。幕末の天才棋士・本因坊秀策がコレラ流行で死んだと読んだことを思い出したのである。碁の技倆ばかりでなく人柄も優れていた秀策はかいがいしく朋輩や弟子の看病にあたり、その甲斐あってか本因坊家では他に落命する者なく、ただ秀策だけが惜しい死を遂げたとも読んだ気がする。しかし真性コレラであれば、「彼だけが」では済まなかったはずとも思ったのだ。本当は何で亡くなったのか。

 この種の記録は大概の小説などより、よほど面白い。一部抜き書きしてみる。

 「安政5年6月3日(陽暦1858年7月13日)には長崎出島、市内ともに吐瀉病が多発している。既に6月2日だけで20-30人の患者が発生しており、また米国蒸気船ミシシッピー号においても同様の胃腸病が多発しているので、これは流行性のものと考えられる。この病気は清国の海岸都市でも流行し、毎日多数の死者があると聞いている。長崎出島にいるヨーロッパ人はこの下痢症が変症して真性コレラにならないように努めている。」(P.16)

 例のオランダ人ポンペから長崎奉行にあてた報告書の概略である。「変症」という概念が当時あったのかな。別の下痢性疾患が真性コレラに「変わる」とは考えにくく、このあたりが近代細菌病学確立前夜の状況を示しているかもしれない。イタリア人医師フィリポ・パチーニがコレラ菌を発見したのは1854年だが、ドイツ人医師ロベルト・コッホがコレラの病原体としてコレラ菌を同定したのは1884年であり、ポンペの報告書はなお「コッホ以前」なのだ。さらに後年のポンペの回想として以下の記述が引かれている。

 「1858年7月(陽暦)に米艦ミシシッピー号が清国から日本にコレラを持ち込んだ。1822年以来、日本ではこの恐るべき疾病についてはまったく聞くところがなかったが、今回はたくさんの犠牲者が出た。市民はこのような病気に見舞われてまったく意気消沈した。彼らは、この原因は日本を外国に開放したからだといって、市民のわれわれ外国人に対する考えは変わり、ときには、はなはだわれわれを敵視するようにさえなった。私はこの病気を防止するため、あらゆる予防策を講じた。幕府も衛生処置を講ずることとなり、異常な努力をもって実行に移されたことを述べておかねばならない(こんなときには専制政治は大きな価値を発揮する)。私は医師たちにコレラの特徴と療法を教え、私自身もできる限りの援助をした。」(P.16-7)

 という具合で、安政年間(1854-60)にはコレラが数次にわたる流行を見た。ペリー以来渡航頻繁となったアメリカ船によって持ち込まれていることなど、時代を鮮やかに反映しているだろう。ところで秀策(1829-62)が没したのは文久2年だから、安政の大流行はいちおう終息した後のことである。「余波」に関する部分が、おあつらえ向きにこれに触れている。

 「文化2年(1862年・・・文化は原著の誤り、文久が正しい)夏には麻疹大流行の後にコレラの流行が起こったと言われる。すなわち、八月頃にコレラ様の急性病に罹るものが多くあった。これは老幼を問わず即時に発病し、吐瀉が激しく数時間のうちに死亡して投薬する暇がなかった。死後全身赤変するものが多く、患者の中には麻疹の後に食養生を怠って再びこの病気に罹る者もあった。また一種の霍乱(註:日射病)もこれに混在し、風呂屋、床屋に来る客がいなくなったという。ただしこれが真性コレラであったかどうかについては、多少疑問が残る。」(P.26)

 秀策の命日は文久2年8月10日(1862年9月3日)だから、上記の「流行」に依るものと見てほぼ間違いなかろう。なぜかこの下りは流行したのが日本のどこだか明示していないが、すぐ前の部分に安政年間の江戸・甲府・京都・仙台・大阪などの流行状況がつぶさに書かれており、どこで何が流行ってももはや不思議のない時代になっている。開国とは、伝染病に対して門戸を開くことでもある。

 最後に残る問題は、この流行病がなぜどのような意味で「コレラかどうか疑問が残る」かである。ほとんど言いがかりのような僕の問に、思いがけずエビデンスが呼応する気配があるが、残念ながらこの本にはそれ以上の記載がない。引きつづき調査を要す、ですか。

 

Ω

 

 


土曜の朝のマズロー / 日曜の朝のルカ

2016-12-27 18:25:37 | 日記

2016年12月27日(火)

 出かけて人と話せば、何かしらきっと良いことを聞かせてもらえるものである。そうと分かっているが出不精は直らない。それだけに面接授業などは有り難いのである。

 土曜日の朝、メンタルヘルスの現状について解説する中で、アフリカ諸国から報告されるうつ病の有病率が低い理由について考えてもらった。僕の大好きなお題で、それというのも急かさずに待てば必ず受講者の頭が働くからである。今回も見込み通りだったが、見込み以上だった。受講生中にニジェールその他を訪問した経験をもつ人があり、僕の知らない実情について話してくれたのである。さらに、この人の質問に閃きがあった。

 気温47℃というような環境で、身体的な消耗を絶えず強いられながらも忍耐強く生き延び、代を重ねていく人々がある。これほどの苛酷さの中で人が生命の危機に曝される時、かえって「うつ病」といったタイプの変調には陥らないのではないか、あらましそういう趣旨であるが、それを「マズローの欲求段階理論とどのように関連づけたら良いと思われますか?」という形で、質問者は投げてきたのである。

 なかなかやるな、といったところ。咄嗟のことで「『うつ病』に相当する病理現象は起きているのではないかと思うが、それこそ心身の全般的疲弊に呑み込まれる形で進行するために、『うつ病』という精神疾患の形で分節されないのではないだろうか」等と答えるのがやっとのこと、最近行く先々で話題になるマズローを、一度読み直しておかなければと念じたことだった。これだから質疑応答は楽しいのである。

 今回は医療経済に関する質問(お金の勘定ができない僕の盲点)や、精神疾患と発達障害の関連についての質問(現代精神医学における分類体系の盲点)など、質問の質が何時にも増して高かったように感じられる。

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 日曜日の朝、司式者席から降りて最前列で説教に耳傾ける。羊飼いは聖書時代のユダヤ社会で卑しめられた存在であり、だからこそキリスト降誕のニュースをいち早く天使によって告げられたという定説を、説教者は「疑わしい」という。おっ、と目を見張った。全身余すところなく人間生活に活用される羊というものは、日本ならば米にあたる。従って羊飼いはかつての稲作農家にあたる働き手中の働き手、額に汗して人の生活の必需品を供給する農林漁業を蔑視する倒錯はどこの社会にもあるとはいえ、羊飼いを公然と蔑むことなどできない理屈である。

 むしろ、ポイントは彼ら羊飼いが不当に「搾取されていた」ことにあると聞いて、二度びっくりした。この場この人にして、これまでは用いられなかった語彙のように思われる。羊飼いの羊に対する関係 ~ 良き保護者としての ~ は王の民に対する、神の人に対する関係のモデルとして引かれるものだった。然るにこの時代の権力者は良き羊飼いたるを止め、専ら権力の肥やしとして人々を収奪し搾取した。その典型的な現れがヘロデの嬰児虐殺である。今や恩寵は羊飼いではなくなった王を去り、本来の羊飼いの上に下される・・・

 新鮮である。しかしこれがルカの福音書であることを思えば、不思議にしっくり聞こえるのでもある。ギリシア人医師ルカの筆とされる第三の福音書はさまざまな不思議を抱えている。ギリシア語文体の美しさや医者らしい緻密な描写に加え、歴史(それもユダヤ固有のそれに留まらぬ世界史)への関心、そして一種過激とも取れる革命的な秩序転覆(あるいは秩序回復)への希求・・・

 「主はその腕で力を振るい、思いあがる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、留める者を空腹のまま追い返されます。」

 これが受胎を告げられた母マリアの賛歌の一節(ルカ 1:51-53)である!そう言えば、このところ話のたびに引用するエマオ途上のキリスト顕現も、ザアカイの物語も放蕩息子の譬えも、皆ルカの特殊資料なのだった。第三福音書と使徒言行録の著者ルカ、何者だったんだろう?

Ω