散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

アムンゼン南極点到達/捨てることと棄てること/マンデラ没す

2013-12-14 07:52:08 | 日記
2013年12月14日(土)

 1911(明治44)年の今日、アムンゼンらのノルウェー隊が人類初の南極点到達。1月25日には一人の犠牲者も出すことなくフラムハイム基地に帰還した。一番乗りを競ったスコットらのイギリス隊到達は翌1月17日、失意の帰途をこの季節には例外的な激しさでブリザードが襲い、3月29日までに5人全員が死亡した。死の直前まで丹念に綴られたスコットの日記が貴重であり、感動的である。
 「犬ゾリが馬ゾリに勝った」とだけ理解していたが、スコット隊が期待をかけた内燃機関が故障で役に立たなかったこと、耐水性に優れたアザラシ皮の防寒服が牛皮のそれに勝ったこと、そして天候に関する運不運などが重なったらしい。
 正確に言えばイギリス隊も犬ゾリをもっており、途中で別れた犬ゾリ支隊は無事に帰還している。犬が不足していたのだろうか、出発前に会見の際、アムンゼンがソリ犬を譲ることを申し出たが、イギリス側は謝絶したとある。
 ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen、1872-1928)、ノルウェー語では語尾の d を発音しないらしい。s は濁らないのか。するとロアルド・ダール(1916-1990)も本当はロアール・ダールなのだな。ノルウェー人の両親のもと、イギリスで生まれ育ったのだ。
 アムンゼンはその後も北極点を飛行船で通過するなど精力的に活躍し、1927(昭和2)年には来日している。1928年、北極で遭難したイタリア探検隊の捜索に愛機で赴き、行方不明となった。後に機体の一部が海上で発見されている。享年56歳は今の僕の年だ。

***

 何度も言うが、捨てないから頭に入らず、捨てないから自分のものにならないのだ、どうして分からないのかな。捨てることと棄てることは違う。決して棄てたくないものこそ、勇気を出して捨てなければ。

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 人も同じだ。
 ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ、1918年7月18日 - 2013年12月5日。他界によってこそ、その名は不朽のものになる。生き残る者が、死者を記憶し語り伝える。
 かつて悪名高かったアパルトヘイトの南アフリカは、ガンディーを鍛え、マンデラを生んだ。北朝鮮は何かを生むだろうか。

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 この週末は渋谷SCで面接授業。T先生・S先生と3人タッグなので心強く気楽である。この方式をもっと使えればいいのだけれど。

新しい袋と古い袋/二人の女性

2013-12-13 19:38:52 | 日記
2013年12月13日(金)

ミルクパン1個、おにぎり1個、ナポリタン1皿、鶏唐揚げ2切れ、シュウマイ2個、ジャガイモそぼろ煮3鉢、塩鮭12切れ、コンソメ1皿、サラダ5鉢、デザート(揚げ菓子クリーム添え)3個、牛乳4本、パセリ山ほど・・・

 三男の中学校、今日はバイキング形式の給食だった。三年生に限り、この季節に一回だけ提供される特別メニューとのこと。量もいつもより多めだそうで、当然ながら好き嫌いを反映して残り物が出る。殊に塩鮭は意外に人気がなく、大量に残ったそうな。

 「おい、この鮭は俺たちの為に死んだんだぞ、残していいのか?」
と誰かのかけ声、それを合図に男子7名が手分け口分け、鮭のみならず全てのプレートをみごと完食した。上に書いたのは三男の分担である。
 世界の至るところに存在する飢餓を尻目にこんな企画が通るものか、公教育の姿勢を問う気持ちがあるいっぽう、育ち盛りの子ども達の旺盛な食欲が頼もしくもある。飢えている子らを、山盛りの皿の周りに招待したい。どんな勢いで食べるだろうか・・・

***

 個体は遺伝子を入れておく袋であり、擦り切れてきたら新品に交換するようにできている。

 三男らは、はち切れそうな新品の袋、こちらあちこちが擦り切れはじめ、ぼつぼつ交換の時期が近づくポンコツか。あまりに適切かつ直截で、苦笑するしかない。「新しい酒は新しい革袋に」って、このことを言ったのかな。

 診療に向かう中央線の吊り広告、某誌の見出しに韓国の朴槿恵大統領の憂い顔、「妹が詐欺で有罪判決」「弟は覚醒剤で5回逮捕」などとある。
 社会的に活躍する人物の身内、特に兄弟姉妹に逸脱者があるのは珍しくもない話で、そこにいろいろな解釈ができる。ふと浮かんだ連想に、思わず顔をしかめた。
 キャロライン・ケネディのことである。
 朴槿恵と同様、彼女も国の最高指導者であった父を銃弾に奪われた。そしてケネディ家もまた多くの逸脱者を抱えていた。

 JFKの死後、その生前から司法長官として兄の右腕であったロバート・ケネディが、あたかも公私にわたって亡兄に成り代わるような活躍を見せた。私的にはケネディ一族と未亡人ジャクリーンをよく支え、義姉との親密さはゴシップを提供するほどであった。1968年の大統領選挙で最有力候補と伝えられながら、兄同様に兇弾に斃れた。それ以前からロバートの息子達の非行や麻薬吸引がスキャンダルとなっており、次男デイヴィッドは後に麻薬の過剰摂取で死亡する。三男マイケル、そしてJFKの唯一の息子ジョン・ジョンは、いずれも後に事故死した。
 ケネディ兄弟は長男ジョセフが大戦中に事故死、次男ジョンと三男ロバートが暗殺された。残った四男エドワードはロバート暗殺翌年の1969年に飲酒運転で車を川に転落させ、同乗していた女性秘書を水死させた事件で大統領候補への道を事実上絶たれた。
 エドワードは大統領候補になれば兄達同様に殺されるのではないかと恐れていたというが、無理もなかろう。ロバートはジョンの死後、その遺志を継ぎながらも常に兄への劣等感に苛まれていた。そのジョンはジョセフの生前、この長兄への劣等感に悩み続けた。兄弟葛藤の収斂する先に、四人の息子達の父ジョセフの執念ともいえる野心がある。
 前置きが長くなった。ジョンとロバートを一組と考え、彼らの子ども達を一群として扱うなら、父を暗殺で奪われた深い悲しみとさらに深い葛藤の末に身を誤った息子達の中で、キャロラインがひとり健やかに生き延びて父の道を追う図が浮かぶ、そう言いたかったのである。

 朴槿恵とその弟妹が1979年以降どのような生涯を過ごしたか、僕は知らない。父の暗殺のときキャロラインは7歳だったが、槿恵は既に27歳だった。成長への影響を考えるにあたって無視できない年齢差で、どだい連想に無理があるのかもしれない。ただ、キャロライン・ケネディについて上に書いた最後の一文は、あるいは朴槿恵にも付合する一面があるかもしれない、何となくそう感じたのである。
 蛇足ながら朴槿恵の極端な日本嫌いの由来を考えるとき、日本の陸軍士官学校で教育を受けたことを肯定的に語り、韓国の歴代要人の中で珍しく親日派と評された(その点で今も韓国人の受けの悪い)父・朴正煕の存在は、たぶん無視できないもののはずだ。

読書メモ 019: 『ゾウの時間 ネズミの時間』(生物学者の共感的理解!)

2013-12-12 11:58:38 | 日記
2013年12月12日(木)

 ずいぶん久しぶりの読書メモ、何をか言わんや、だ。

 『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書 1087)

 1992年初版だから「前世紀の名著」ということになる。話題になったはずだが何となく読まずにいたのを、著者が新聞の「耕論」に寄稿しているのを見て、いいきっかけに手に取った。
 記事は下記、現代人はエネルギーを大量消費して時間を買い取る生活をしていること、それが生体に耐えがたい無理を強いていること、殊に日本人にとってそれが適切な生き方とは言えないだろうことを、手際よく分かりやすく書いている。この筆者の著作なら、あらためて必読と思ったのだ。



 表題から知れるとおり、動物のサイズに応じて変わるパラメーターと変わらない規則とを見出そうとする営みが、14章のオムニバスで綴られる。タイトルから「時間」に力点があるかと思ったが、実際には「サイズ」に関する考察が多い。もちろん両者は ~ アインシュタインを引き合いに出すまでもなく(あるいは引き合いに出してこそ?) ~ 必然的に連関しているから、どちらでも良いのである。このための手法をアロメトリー allometry と呼ぶことを初めて知った。きちんと定義するなら「生物の体の大きさによらず、部分同士や部分と全体の大きさ・重量・生理学的な諸量(代謝量、寿命など)などの間に見られる量的関係」ということであるらしく、また、この関係は一般的に両対数線形関係になるという。
 白状すれば、僕は数学には文系としては強い方だが理系としてはダメな方なので、少し立ち入った数学的な説明はおおかた端折って読んだのだ。なので「結果だけ受け売り」の誹りを免れないけれど、それでも非常に面白く為になったのである。
 以下は例によって抜き書き。

***

◯ 第2章 サイズと進化
P.11
・・・こうした利点があるからこそ、相当なエネルギー的な代価を支払っても、鳥類や哺乳類は体温を高く一定に保っているのである。

P.12-3 
・・・島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。これが古生物学で『島の規則』と呼ばれているものだ。

P.22
 あ、これは「島の規則」だ!ルイーズの話を聞きながら、そう思った。島国という環境では、エリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケールは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。
(註: 著者は日本とアメリカを比べて語っているのだが、たとえばイギリスと仏独の比較などにもこれが当てはまるだろうか?)

◯ 第3章 サイズとエネルギー消費量
P.25
 酸素をどれだけ使ったかは、エネルギー消費量のよい目安になる。炭水化物であれ、脂肪であれ、タンパク質であれ、どの栄養素を燃やしても、発生するエネルギー量はほとんど変わらず(註: 重量当たりではなく、消費酸素量当たりのこと)、酸素1リットル当たり20.0キロジュールのエネルギーが得られる。

P.36
・・・恒温動物は何もしていなくても、変温動物より約30倍ものエネルギーを消費する。これは覚えておかなければいけない重要な事実である。

P.40
 単細胞から多細胞へ、変温動物から恒温動物へ、という進化上の大きな変化の際、エネルギー消費量が10倍ずつ増加したことはすでに述べた。このような大きなジャンプは、生命の質的な変化に伴って起こったのだろうと先ほど考えたのだけれど、現代日本人のエネルギー消費量が、他の恒温動物よりさらに一桁大きくなったということは、現代人という生き物が、他の動物とは質的に違った生き物になったことを意味するのではないだろうか。
(註: ここ二重丸!

◯ 第4章 食事量・生息密度・行動圏
P.54
・・・哺乳類ではサイズの大きなものほど社会行動が発達する傾向があるが、これには、たくさんの個体が行動圏を共有していることが大きく関係しているに違いない。

P.55
・・・哺乳類は、食うため以外にはうろうろしないのがふだんの生活態度である。また、行動圏についていえば、行動圏の広さは、一回出歩いて帰ってくると、ちょうど腹いっぱい餌が食える大きさに設定されている。

◯ 第6章 なぜ車輪動物がいないのか
P.75 
 環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で今まで問題にされることが多かった。しかし、ここで論じて来たように、車というものは、そもそも環境まっ平らに変えてしまわなければ働けないものである。使い手の住む環境をあらかじめがらりと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言い難い。
 環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だから山を拓き、谷を埋め、「良い」道路を作ることは、当然良いこととして、問題されてこなかったようだ。車は機械文明の象徴といっていい。アッピア街道やアウトバーンを作った人たちが、征服せねばやまぬ思想の持ち主だったことは、まさに象徴的なことである。

◯ 第9章 器官のサイズ
P.120
 ここで注意しなければいけないことは、単純明快さを求めるあまり、意識するしないにかかわらず、事実を曲げてしまう危険性があることだ。脳重に関して言えば、脳と表面積と情報量とを関連づけた説明があまりに鮮やかだったので、3分の2乗というのは真の値と信じ込み、現実に得られたかなりバラついた計測値を、何とかこの「真の値」に近づけようとして、データをかなり恣意的に取捨選択したふしがある。単純化・抽象化のもつ魅力と魔力には、くれぐれも注意したい。

◯ 第11章 細胞のサイズと生物の建築法
P.151
・・・植物の輸送系では、上下に連なった細胞の天井と底に穴が開いて細胞同士がつながっていて、そこを通って物質が移動していく。つまり細胞の内側を物が動いていくのである。これは動物の輸送系(循環系)である血管とは作り方が全く違う。血管では細胞がぐるりと取り巻いて中空の管を作り、その管の中、つまり細胞の外側を物質が移動していく。

◯ 第12章 昆虫 ー 小サイズの達人
P.158
 昆虫のように、身体の外側をすっぽりと覆う構造物によって力を支えている場合を、エンジニアはモノコック構造と呼ぶ。モノコック構造は、柱や梁を組み合わせて造った建物や脊椎動物に見られる骨組み構造とは、ひと味違った特色ある構造である。モノコック構造は大きな荷重を支えるには適さないが、ずりやねじりの力には強い。ほとんどの飛行機はモノコック構造で作られている。

P.159
・・・鳥でいわれていることだが、ノンストップで飛べる距離は、サイズにはほとんどよらないらしい。

P.163
・・・一般に外骨格を持つ動物は、どうやって成長するかという難題を、いつも抱えているのである。

◯ 第13章 動かない動物たち
P.175
・・・寿命というものは、個体性と密接に関係している。個体は遺伝子を入れておく袋であり、擦り切れてきたら新品に交換するようにできている。だから定まった寿命があるのだが、群体(註: PCが「軍隊」と誤変換したが、なかなかいいセンスだ)の場合には事情が違っている。サンゴの群体はえんえんと生き、大きくなり続ける。木も大変に寿命が長く、生きている限り成長し続ける。縄文杉と呼ばれるほど長生きのものがいるが、寿命が数千年などと言われると、本当に定まった寿命などあるのかしらと、疑問を感じてしまう。


 木とサンゴは、考えれば考えるほど、非常によく似ている。さらに似ている点を考えていこう。

◯ 第14章 棘皮動物 ー ちょっとだけ動く動物
P.218-9
 ある動物のデザインを発見することによってはじめて、その動物が人間にとって理解可能になる。「デザイン」をその動物のよって立つ論理と言い換えてもいいだろう。相手の論理を理解したうえでなければ、決してヒトは動物と正しい関係を結ぶことはできないだろう。この論理を発見し尊重することが、動物学者の大きな使命だと私は考えている。

⇒ これを「生物学における共感的理解」と呼んでおく。おみごと!

パンディーは暖かいのが好き/マンリョウとポインセチアとアドベント

2013-12-12 09:19:08 | 日記
2013年12月12日(木)

 今朝は冬の風が吹いている。
 これで雪でも降れば「犬は喜び庭駆け回る」かと思ったら、Mさんからのお返事は意外にも、

 パンディは暖かい所が好きです。暖房の暖かい風がくる所で寝て、私が部屋に入ってくるとしっぽをふっています。

 幸せそうだな~

***

 こちらS君、

 実生なるマンリョウ赤く色づきて年の瀬の庭にぎやかになる (鳥海昭子)

 マンリョウは小さな赤色の実をたくさんつける。それで「寿」という意味があるそうです。
 最近また仕事の量が膨大になり朝3時におきて作業の毎日です。でも今日は群馬の職場の忘年会あり、すこし出てこようかと思っています。よい一日を。
 S君は学生時代から超早起きだった。体を壊さないといいのだけれど。
 郷里の庭のマンリョウもにぎやかに実っているかな。


『花言葉辞典』 (http://www.hanakotoba.name/archives/2005/09/post_351.html)

***

 この季節、「インマヌエル」は教会の合い言葉のようなものである。「神共にいます」の意で、主イエスの別名でもある。
 これはもちろん、苦難の中にある人にとってかけがえのない慰めだが、僕のような怠け者はふと考えて怖くなる。神、常に共にいますということは、今の自分の情けないていたらくを行住坐臥すっかり見通されているということだ。そんなの当たり前、今さら何を言ってるんだということなんだが。
 「常に共にいてくださっちゃってるんですね」と、嬉しくもあり冷や汗も滴るアドベント。
 マンリョウの赤い実と濃緑の葉の対照は、ポインセチアを連想させる。ただ、ポインセチアは葉の赤いのが独特で、やはり僕にはちょっと怖い。


Masao Katayama さん (http://www.flickr.com/photos/masaonop/3112806290/)

卒論発表会の一日

2013-12-11 23:58:57 | 日記
2013年12月8日(日)・・・続きの振り返り

 卒論発表会、健康領域は例年にない盛会だった。計12名、北海道・山形・大阪・愛知・広島・愛媛など地方在住者から多数の出席があり、これら地方組の健闘が目立った。放射線による皮膚障害の看護に関する院内意識調査(愛知)は完成度が高く、頭頸部腫瘍手術後の患者および家族に対するインタビュー調査(愛媛)は重いテーマに敢えて挑戦した力作だった。
 後者の発表を聞いていて、医学部の臨床実習で上顎癌手術後の患者さんと出会ったときの驚愕と恐怖を、まざまざと思い出した。同じ思いを発表者は看護師として最初の勤務先で体験したのである。それを研究という形にまとめた根性に脱帽し、良き指導者との出会いを喜ぶ。師弟とも僕の同郷で、あの地域に特有の姓を名乗っているのが、殊の外なつかしい。
 僕のゼミ生たちもようやく肩の荷が降りた様子で、記念撮影などして和やかに別れていった。

 夜は恒例によってコースの忘年会。OBの先生方のうち、今年は5人の御参加あり。そのスピーチがいずれ劣らず内容豊かで、こうと分かっていれば録音しておくのだった。
 その概略。

① A先生(公衆衛生)
 A先生は徳田虎雄氏を、大学以来の「無二の親友」と言い切る。幼年期に三歳の弟を「たらい回し」のために亡くした氏は、「24時間365日」と「(医者が患者から)ミカン一個もらってもクビ」という単純で厳しい規律を掲げて病院経営に邁進した。その成功の秘訣は「スケール・メリット(規模の利益)」にあり、初めから一病院ならぬ病院「群」を目指したところに勝因があったという。しかし氏にはそこから先のビジョンがなく、「医療を根本的に変えるためには政治を変えねばならない」と考えたときに限界が露呈した。金で集票するほか、その理想を実現する手立てがなかったというのである。
 そこまで喝破しながら、A先生はなお徳田氏を「無二の親友」と呼んではばからない。今もときどき訪れて、目で会話するのだと。

② B先生(栄養学)
 いつも穏やかな笑顔を絶やさず、小柄だが移動を全く苦にせず全国を飛び回っておられるB先生の姿を見ると、いつも脳裏に浮かぶ想像があった。ランニングシャツに半ズボンのB少年が、麦わら帽子に捕虫網と虫かごを手にして夏の山野を駆け回る姿である。装いを背広に替えただけで、心も身体も魂も少年のままのB先生だ。
 定年退官後、有職の母である娘さんの手伝いに、週二日はお孫さんの食事の世話に出かけるのだそうだ。栄養は申し分あるまい。さらに週一日は放送大学の一角でK先生と共に栄養学の実験をなさっている由。東大系のB先生と京大系のK先生では、基本的な実験手技にもちょっとした違いがある、それをお二人仲良く見たり見られたり、若い研究者のやりたがらない手間暇かかる地味な実験に専念しておられるとのこと。実験もこの境に入ると清談の趣がある。

③ C先生(?)
 ほとんど入れ違いに放送大学を去って行かれたC先生の御専門を、僕は事実上まったく知らない。御本人も学問はさっぱり卒業し、仕事と言っては釣りぐらいという涼しげな毎日を送っておられる。そこにひとつの逸話あり。
 近隣の精神障害者作業所か何かで、あるときスズムシを買ってこられた。毎日餌をやってかわいがり、奏でる音を楽しんだが、やがて冬が来てみな姿を消した。死に絶えたと言うなかれ、植物が球根や冬芽で越冬するごとく、スズムシは卵で冬を越す。次の春、前年に倍するスズムシが元気に現れた。C先生はいそいそと世話をなさる。やがて冬が来て、また春が来て、また冬が・・・今やスズムシは数百匹の大集団に成長したという。
 スズムシも数匹ならば美しい合唱であろうが、数百匹となると想像に余りある。「御近所がよく辛抱してくださって」と苦笑なさるのだ。河原などに放そうかと思ったが、最初は野菜を虫かごに入れるにも飛び退いていた虫どもが、今は少しも怖がらない。可愛くもあり、またこんな育ちでは野生のエルザではないが、とても野外に適応できまいと思うと、今さら捨てるに忍びない。
 「先生、ひょっとして一匹一匹に名前を付けていらっしゃるのでは?」
 「まさか、ハハハ・・・」
 僕の隣席のB先生が、
 「石丸先生、良いところに気づかれた、C先生なら名前も付けかねません。」
 と真顔でおっしゃる。
 来年の忘年会が楽しみなような怖いような、
 
④ D先生(建築)
 大柄でゆったりした身のこなしが中国の仙人を思わせるD先生は、定年少し前から健康問題を抱えていらっしゃる。たまたま僕が知人の専門医を紹介する機会があり、お目にかかると忘れずに御礼を言ってくださる。病気は進行性のもので、せっかく悠々自適の季節を迎えてさぞ煩わしいことだろう。
 それにもめげず、日本の伝統建築のすばらしさを熱っぽく語ってくださった。畳というものを、僕らは居住性や裸足生活といった観点からばかり考えるが、その高度の規格性にD先生は注目なさる。嘗て大阪にあった「裸貸し」 ~ 家主は家本体と外の建具だけをそろえ、障子、ふすま、畳などは借家人が調達し、引越しの際には持って移る ~ これは畳の規格性を最高度に活用したシステムだが、そこまで行かずとも建具や調度の全ては畳を基準として設計でき、住む者も畳を単位として生活空間を制御できた。
 こんなシステムは世界に類がない。和食が文化遺産登録されるなら、日本の建築も誰かが申請努力をしているだろうと思ったら、誰も手をつけていないらしい。そこで仲間とはかり、著名な先生を担ぎ出して運動を起こす計画だという。それにつけても案じられるのが健康のことだ。
 「よく診ていただいているのですが、なかなか死ぬことのできない病気のようで厄介です。寝たきりになるが、死ねないのだそうですね。」
 一瞬絶句。
 「この領域の治療技術進歩は非常な速さですから、粘っているうちにきっと朗報が入るでしょう。」
 そう答えて触れた先生の手の甲がむくんでいる。

⑤ E先生(生活)
 紅一点、つまりOGだ。僕が着任するずっと前に退官なさった御年配だが、凜とした気迫が真っ直ぐな背に宿っている。退官後しばらくは、家族七人の賄い方を勤めて「家事とは何と楽しいものだろう」と思っていたが、数年経つうちに少し飽きてきて、その後はあれこれ勉強なさっているそうだ。
 「何十年も教えてきたことが、気がつくと思い出せなくなっているのよ。続けなければダメよ!」
 と先輩の喝。創立30周年を盛大に祝った放送大学が、学習センターの移転(世田谷→渋谷)で廃止に追い込まれた学生のサークル活動を顧みないことに憤り、今でもそうした活動の世話役をしていらっしゃることを語られた。

 皆、おみごとである。これに呼応する何を自分が為し得ているか、恥じつつもほろ酔い心地よく家路をたどり、最寄り駅直前で不快な風景を見た。
 日曜日の午後10時前、私鉄の車内は若者や壮年者でほぼ満席。申し合わせたようにスマホを撫で、塾帰りらしい男の子二人はゲーム機を覗き込んで盛り上がっている。
 ドアが開いて小さなお年寄りが乗ってきた。よちよちと、小さく歩を運ぶ女性である。
 誰も、ひとりも席を譲ろうとしない。スマホから目を離さず忙しいふりをしている。あるいは、自分は忙しいのだと思い込もうとしている。
 賭けてもいいが、その誰一人として心底からの薄情者ではないはずだ。ただ、少しだけ疲れていて、少しだけ面倒で、そしてこの一時を邪魔されたくないのである。スマホに見入って、気持ちは既に自宅のリビングに飛んでいる。スマホを手にしていなければ、居並ぶ若者の一人や二人はきっと席を譲ったはずだ。スマホが悪いんだよ。

 本末転倒だって?
 じゃあ訊くが、「銃が悪いのではない、使い方が悪いのだ」というアメリカの銃規制反対論者の説をどう考える?同じだよ、それもこれも、出生前診断も。
 利便性と快適さが僕らをゆっくりと破滅に追い込んでいる。
 人が望むものをふんだんに与えることによって人を滅ぼす女神 ~ 確かギリシア神話にあったな。今は彼女の黄金時代だ。