散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

2013-12-20 07:23:01 | 日記
2013年12月20日

 7時20分 虹だ、もちろん西の空に

 昨日の今日の朝一番

 まさかこのタイミングで虹を見るとは思わなかった

 まだ生きられる

 また生きられる

 7時36分 既に跡形もない

 ケヤキやイチョウの冬枯れの中で、クスノキの緑が美しい


ご交配

2013-12-19 09:12:01 | 日記
2013年12月17日(火)

 朝一番でホットなメール、医科歯科の後輩で、今は京大の公衆衛生学講座を主宰するN君(いまや「君」よばわりを憚る偉い人だが、だからといって「先生」なんて書くのもかえって気が引ける)から、死生学に関する研究に協力者として加わらないかとのありがたい誘い。二つ返事で承諾したが、もらったメールを読み直して和んでしまった。

 ・・・ご交配いただければ嬉しく存じます。

 え~っと、これはどうしたもんだろうか。

***

 午後から聖学院大学で講演。
 『こころの健康とたましいの健康 ~ 死生観の回復に向けて』
 マイ死生観元年の締めくくりに、大きめの風呂敷を広げてみた。

 大宮の先まで小旅行、最寄り駅から学バスが出ているが、時間があるので歩いてみたら・・・
 (続く)

教育と信仰

2013-12-16 23:13:16 | 日記
2013年12月16日(月)

勝沼さんより:
 銃を信仰と教育に持ち替え、故郷を追われた悲しみと怒りを乗り越えて八重が再生していくのが後半のテーマだと思っていたので、最終回で八重が聖書の引用をするのは必然だったのかもしれません。
 最終話のタイトルに復興ソング「花が咲く」の言葉が入っていたように「八重の桜」は今の福島を象徴的に描いていたように思えます。
 現在の福島が再生するには何が必要なのか。私は無宗教ながら、それも教育と信仰なのではないかと思ったりもしています。

***

 『八重の桜』が大河ドラマに決まったのは確か震災の直後で、その時はそこそこ話題になったように思いますが、ビデオリサーチの調べによる最終回の視聴率は史上4番目の低さだったそうですね。低い順に『平清盛』(平成24年、12.0%)、『花の乱』(平成6年、14.1%)、『竜馬がゆく』(昭和43年、14.5%)、そして『八重の桜』(関東地区、16.6%)とあります。『竜馬がゆく』が出てくるのはフシギで、あれは相当な人気番組だったはずですが、最終回が竜馬暗殺の凄惨な場面だったからでしょうか。
 視聴率はどうでも良い。「無宗教ながら」とおっしゃる勝沼さんのコメントに注意を引かれました。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ぬ事実を確認することである。」(ヘブル書 11:1)

 そうだとすれば、「再生」のカギは常に信仰にあることになるでしょう。「信ずる心が大事であって、何を信ずるかは問題ではない」式の立論 ~ 私自身の用語で「心理主義」と称するもの ~ は、断じて私の採るところではありませんけれども。

 「幻なき民は滅ぶ」と訳される箴言の一節も、同様に思い出されます。もっとも、この句には異なる訳があてられることが多いらしい。新訳ギリシア語に比べ、旧訳ヘブル語は翻訳が一義的に決まりにくいようです。

 明日はS学院の一般向け講演で、メンタルヘルスと死生学の関連について話してきます。今後しばらくは、これを自分のメインテーマとして勉強していきたいと思っています。CATの会その他で、どうぞよろしく。「心理主義」についても、追々話させてください。

 そうそう、『息子の部屋』借りましたよ!明日か明後日の晩に見て木曜日に臨みます。
 

新島八重のイザヤ書引用

2013-12-15 22:45:35 | 日記
2013年12月15日(日)続き

 T先生、S先生のおかげで面接授業は大過なく終了。オムニバス形式は、やる方も負担が軽いし受講者にも喜ばれる。アンケートでも否定的なコメントはほぼ皆無で、安堵した。

 夜、『八重の桜』最終回を見る。ラスト近くで頼母相手に「また戦争が・・・」と八重のつぶやく場面、「剣を打ち直して鋤とし、国は国に向かって剣を上げず」はイザヤ書の引用だ。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
 (イザヤ書 2章4節)

 聖句や讃美歌を大河ドラマに聞くことができるとは予想の他で、今年後半はちょっと楽しかった。前半を見なかったのは、悲運というにはあまりに苛烈な会津の運命を直視するに忍びなかったからで、こういうところが自分でも情けないほど臆病なのである。
 しかし、会津の体験がなければ「新島八重」もなかっただろう。初めから鋤や鎌として作られたものよりも、剣や槍から打ち直されたものはひときわ強靱で有用であるように想像される。鉄砲から打ち直された頑丈な十字架こそ、八重という烈女だった。

 それにしても、あんな風に聖句を血肉とし、時に応じて自在に引用できたらどれほど力になるだろうか。そこに至るまで、身に刻み込むようにして読んだに違いない。

スコット隊とマンデラ氏(補遺)/夫婦三景

2013-12-15 09:32:28 | 日記
2013年12月15日(日)

勝沼さんより:
 スコット隊がペンギンの卵の収集など学術調査をしながら南極点到達を目指していたことも彼らの名誉の為に覚えておきたいことです。
 ネルソン・マンデラさんはその偉大な功績もさることながら、ロベン島に20年もいたのに95歳まで長生きできたのかということも人間の可能性を感じさせる点だと思います。
 「史上最悪の旅」のアプスレイチェリー・ガラードは「探険とは知的情熱の肉体的表現である」と書いていました。情熱が時に人を未知の領域へと向かわせ、時に人の寿命を何十年も延ばすのではないかと思います。

 スコット隊の「名誉」のこと、御指摘ありがとうございます。おっしゃる通りで、そうした事情のため彼らの行程は、南極点到達という観点から見れば「無用」に長距離のものになったと聞きました。
 情熱が人の寿命を延ばすこと、確かにそうでしょう。「夢中になって何かを追い求め、うっかり死ぬのを忘れていた」、そんなおっちょこちょいでありたいものです。ある種の学者や芸術家にそういう人がありますね。マンデラ氏はその輩(ともがら)であったのでしょう。
 トルストイ『光あるうちに光の中を歩め』の主人公は、人生の終幕に至ってようやく安心して同胞愛の生活に専心し、「肉体の死が訪れたのも覚えなかった」と結ばれています。

***

 夫婦のさまざまなありようを、患者さんたちから教わる。

 Xさん(男)は中堅企業のIT部門の責任者で、奥さんと二人の子どもと共に平和な家庭を営んでいるが、当然ながら職場にも家庭にも何かしら問題は起きてくる。受診はいつも朝一番、スーツ姿にアタッシュ・ケースで、てっきりそのまま職場へ向かうのかと思ったら違った。
 「ウィーク・デイに私服でうろうろしてるのが気が引けるもんですから。通院日は休暇を取ることにして、その日一日は休みにしています。」
 なるほどそれも一法、自分のための時間をもつのはメンタルヘルスの要点だと思いながら、実は長いことちゃんと理解していなかった。
 夕食の時間には到底間に合わないので、せめて朝食は父親(=彼自身)のかけ声で一緒にとるようにしていると聞いて、
 「でも、今夜は夕飯も御一緒ですね」
 「いや・・・」
 照れくさそうに、というよりは真面目な顔で教えてくれた。通院の日に休暇をとっていることは奥さんにも内緒、出社するように出かけ、夜も通常と同じ時間帯に退社してきたように帰宅する。この一日は奥さんも知らない、Xさんひとりだけの時間なのである。
 それをどう使うのか。
 「朝の時点ではノー・アイデア、足任せです。けっきょく大したことはしない、映画を見たり、『手もみん』でリラックスしたり、そのぐらいなんですけどね。」
 自分のための時間をもつことの効用は疑いない。しかし、それをパートナーにも秘匿するという発想が僕にはなく、ちょっと驚いたのだった。

 Yさん(女)は高齢に至って、つい先日御主人に先立たれた。御主人は昔気質の亭主関白、Yさんも負けてはいない気骨の有職女性で、互いにぶつかりあうことで存在感を確かめ合っていたようなところがある。それだけに、御主人の不在という状況に慣れるのが簡単ではない。そもそも高齢に至るとは、変化に対する適応が不得手になっていくことと同義で、僕のような中年期からその気配は既にある。まして自分の半身であったパートナーの不在に慣れるのは、しんどい作業に違いない。
 御主人は暑さのただ中で他界された。冬の寒さが訪れたこの数日、ふとYさんが「おとうさん、お墓で寒くないかしら」とつぶやいた。「納骨は、もう少し先にすればよかったかしら」とも。「おとうさんは天の国でくつろいでいるわよ」と娘さんが返す。
 Yさん御夫妻は筋金入りのクリスチャンである。そもそもYさんが先に入信し、当初は大のキリスト教嫌いだった御主人の変身の陰に、Yさんの感動的な貢献があったのだ。けれどもいま遺骨の在処に生身の夫を思い描くYさんは、それとは違う古層から語っている。
 「夫はいま、どこにいるのか」を、Yさんは繰り返し問う。そのことを通して夫とぶつかり合う作業を日々続け、そのようにして信仰と人生を仕上げていくのだろうと思う。

 Zさんの件は、詳しく書くことをはばかる。自分には徹底的に甘く、パートナーにはどこまでも多くを求め、そのことに関する自覚を全く欠いているという例のタイプである。論評が余りにも公平を欠いているので「それではちょっとお相手も気の毒でしょうか」と指摘すると、非常に驚いた様子で「そういう見方があるとは思いませんでした、勉強になりました」と答え、すぐまた話題を戻して相続問題に関するパートナーの弱腰を難詰しはじめた。

 いろいろであり、さまざまである。