2016年8月25日(木)
路上や電車の中で理不尽な場面が日常的に多くて外出がイヤになる、特に出張や帰省から東京に戻った後はそうである。いろいろ考えて、都市空間全体を病院と考えることにしてみた。道路はさしずめビョーインの廊下で、ビョーキの人がうようよいる。そのつもりで歩かないといけない。
念のために言っておくが、これはいわゆる精神疾患の人々 ~ ちゃんとした患者さんたちのことではない。そもそも精神疾患を「心の病」と呼ぶことに僕は反対で、このことは桜美林時代にK.K.という女子学生から教わった。彼女によれば「心の病」というのは、たとえば目の前に杖ついた人を立たせておいて知らん顔でスマホゲームに興じる(ふりをする)「健常者」とか、耳にイヤホンしながら歩道を自転車ですり抜け、人に当たっても委細構わず走り去る輩とか、そういう系のことを言うのであって(例が少々小物に過ぎるが)、精神疾患とは違う話だというのである。卒業後は性根のすわったPSWになった彼女への懐かしさとともに、あらためて共感。
もひとつ注を付けるなら、自分はこの面に関して申し分なく健康だなどと言い張るつもりはない。そんな人間はいない。僕の場合この方面での心気傾向とかや強迫傾向が強く、それが現状をいっそう耐えがたくしており、要するに自分にも問題があることは重々承知している。そういう性向をもちあわせた者には、それなりの役割があるんだろうと思ったりもする。
ともかく気をつけて出かけながらふと思いついたのが、ward という言葉のことである。これは英和辞典を引けば分かるとおり、「病棟」の意味とともに「区」という用法がある。個人的には東京23区の「区」をwardとすることには抵抗があるんだが(もともと管理され監視される空間という意味合いの強い言葉なので)、この23区制度というやつは第二次大戦後に他ならぬGHQがもちこんだものだから、wardを英訳語とすることもたぶん米さんのお墨付き(というか発案)である。「管理・監視」のニュアンスがあるからこそ、この語を選んだのかも知れない。みっちり論じ返していきたい気もするが、それはあらためてのことにして。
「本日の移動は目黒病棟から千代田病棟へ」と考えたら、瞬間、笑えた。電車の中で読んでいる本が、ちょうど『電気は誰のものか ー 電気の事件史』(晶文社)である。これは社会派的にコワ面白く、たぶん現代の原発問題にまでつながる一方で、自然の恵みや公共性に関する根本的な問題を提起している。著者の田中聡という人は、歴史学者としての学界の評価は知らないが、歴史ライターとしては相当力のある人と見た。奇しくも千代田病棟からの帰途に寄った書店では、ちょっと話題の『原発プロパガンダ』(本間龍・岩波新書)が目について購入したが、これがまた『電気は誰のものか』と好一対である。両者ともに司法の問題にも必然的に触れるところが、なおさら考えどころである。
ward とは「区」のことではなく、日本の社会全体ではないか。先に挙げた微細な症候の背後に、巨大で深刻な病根が巣食っている。僕らに必要なのは「大医」であり深みからの健康なのだ。
さて、杉並病棟へ出かけようか。
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