散日拾遺

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来信その1: 口伝と筆記

2017-08-20 13:11:38 | 日記

2017年8月21日(月)

 勝沼さん:

 記憶違いではないかもしれませんよ、あり得ないような記憶の欠落が最近ときどき起きるのです。特に、ひとしきり思い巡らしたことでも文章に書き留めると忘れてしまう傾向があるようで、記憶を把持することと出力して形にすることとの関係を考えさせられます。私が勝沼さんにお伝えした後、一仕事終えた感じで忘れたのかもしれません。いえ、ホントに。

 いずれにせよありがとうございました。結句は大事な視点だと思います。「語り継ぐ」ことと「形として遺す」こととの関係も、個人の記憶と文章化の関係に似たところがあるようです。古事記が筆記されたとき、口伝は役割を終えました。初代の信徒らが高齢化し他界して伝承が怪しくなったとき、福音書が記されました。双方をバランスよく維持していけるなら、歴史の継承としては画期的なあり方ではないかと思いますが。

> 『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』 は石丸先生から教えていただいたと記憶してましたが、記憶違いでした。

> この本は4年前に長崎の平和記念式典に行く前に予習として読み、浦上天主堂にも行きました。吹き飛んだ屋根の一部とかは今も残っていました。

> 長崎がキリスト教の街であったことを考えると、浦上天主堂は原爆ドーム以上に貴重なものだったのかもしれません。ただ、存在しないからこそその理由も含めて語り継がれる意味があるのだと思います。

***

 被爆二世ことYK様:

 貴女がこの本の存在や内容を御存じかどうか、気になっていました。コメントありがとうございます。結句、同感です。憲法が押しつけかどうかよりもっと根本的なレベルで、私たちは「独立していない」と感じます。精神の自立・独立の問題です。沖縄がいち早く独立したらどうなるだろうなどと、この季節には妄想が蠢動して止みません。

 御指摘通り、かつて沖縄は全国一の長寿県でした。その時代、人口あたりの医師の数は沖縄が最も少なかったことを、あわせて思い出しています。

> 『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』 の本の存在を知りませんでした。

> 私は、片足鳥居、如己堂、そして、あの煉瓦の浦上天主堂の近くで生まれ育ちました。建て替えられた天主堂の横には、唯一原爆で吹き飛ばされ半分くらいに損傷した「アンジェラスの鐘」だけ保存されています。他は全部崩れて跡形もなかったのだと思っていました。やはり平和の希求は、被爆二世のミッションなのですね。

> 映画「ミッション」を見て、日本人は、公のために個を殺して生きるのを迫られてきたのを強く感じ、ショックと同時に妙に納得し、日本の良さも生き辛い部分も再認識しました。

> この著者の投げかけにも同じ様な衝撃を覚えました。個の私たちだけでなく、やはり日本も、大きな大きな力に流されているんですね…。

> 沖縄県民、特に男性の平均寿命ランキングがグーンと下がったのも、ファストフードが広まったからだとの説もあるそうで、まだまだ色んな意味で占領下にあるのかなと思ってしまいます。

(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/UrakamiTenshudoJan1946.jpg)


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1 コメント

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語り継ぐ勇気、形にする覚悟 (被爆二世)
2017-08-22 08:47:05
原爆投下のトラウマは、想像を絶するものだったらしく、体験をテレビのインタビューに答えて詳しく話したり、絵に描いたのは、戦後60年経ってのことでした。語り継ぐ勇気と形にする覚悟を持つには、悲惨な出来事であればある程、時間が必要なのだと思います。

母は、学徒動員されたいた姉を探しに焼け野原を歩き、焼けただれた人に縋りつかれ、それが怖いと感じたことに自責の念を抱いていました。
真っ黒焦げでメガネをかけた人が、ギョロッと見たけど、探し歩いた挙句に、ひょっとしてあれが姉だったかもと、翌日探しに戻った時には、もうその黒焦げの人はそこに居らず、姉はとうとう遺体も不明のままだったたことをずっとずっと悔やんでいました。

亡くなる前に語り継ぐ勇気、形にする覚悟を持った母を尊敬します。今にして思えば、それは同時に母の癒しになったのかもしれません。
これは、虐待を受けて、そのことを語る勇気、そのことに向き合う覚悟を持ってカウンセリングの面談に臨むクライアントさんにも通じることだと思いました。
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