2014年6月2日(月)
そうなんです、僕は精神分析学会の認定する精神療法家の資格を、結局取らなかったのだ。
理屈上はこれからでも取れるんだが、別に要らないし欲しくもない。
某所で5年間のプログラムを終え、学会発表もしたから、あとは論文をひとつ投稿するだけだったのだけれど、そこまできて何だかバカバカしくなってしまった。
何がバカバカしいか、さしあたり言葉にしないでおく。そのうちにね。
精神分析とか心理力動とかいうのは実に面白いもので、これが人の心や行動の機微を説明する力には驚くべきものがあるが、そのようにこじれた現実を修正する方向になかなか作用しないことが問題だ。そこまで書いたらもう、上の話にオチをつけたも同然だけれど。
最近の難しい理論は、理解する能力もないし興味も湧かない。『自我と防衛』(アンナ・フロイト)のレベルで、単純なアタマには十分である。
「攻撃者との同一視(同一化) identification with the aggressor」あるいは単に「同一視(同一化) identification」などは、それが働いている気配を察知するだけでも、多くの不幸を回避できるはずだ。これはブログの中で何度か触れたかな。そう、その気なら確かに使える。
そして僕がこれほど同一視を重視するのは、僕自身がこの機制にきわめて多くを負っているからだ。そうでない人間はいないだろうけれど。
「投影 projection」も負けずに面白い。
原語を生かして、いわゆるプロジェクターの働きになぞらえることが、いろんな場面で役立つようである。
PC内部に格納されたイメージを外部のスクリーン上に映し出すことが投影だから、「投映」と書いてもあながち誤記ではなさそうだが、光と影のコントラストを含意して「投影」は意味深い訳語だ。
あるいは影絵の連想も良いか。自分の内にある印や形はそれ自体見ることができないが、その影が大きく映し出されれば可視のものとなり、しかも自分の内にではなく外にあるもののように思われる。『ゲド戦記』の全体は、このカラクリをテーマとしていた。
これは思弁的どころか、きわめて実践的な意義がある。
半年ほど前からだろうか、ある統合失調症の患者さんに「人があなたを笑っているように感じられるのは、実際にはあなたの心の中にある『笑われたくない』という不安の投影なのだ」と伝えている。この人は、病勢が薬で抑えられてみればもともと知的水準の高い人でもあり、この助言を生活場面でよく活用して利益を得ている。統合失調症だから利いたというわけではないが、強いて言うなら統合失調症の患者さんにしばしば見られる、純粋なまでの素直さで助言を受け入れたことが、効果を高めているとは言えそうだ。
その「投影」ということを、別の角度から考える機会が昨日あった。
『わたしたちは神さまのもの ~ はじめてのカテキズム』
問9 (わたしたち人間が)神さまにかたどって造られたとはどういうことですか。
答え わたしたちは神さまの善さ、知恵、そして愛をうつしだすために造られたという意味です。
この「うつしだす」を「投影」としてみたらどうだろう。神に内在する善きイメージの、外部への投影された映像が人の霊性であると考えたら・・・?
残念ながら、ここの原語は project ではなく reflect だ。米国長老教会発行の原文は、ネット上で簡単に閲覧できる。
"Belonging to God ~ A First Catechism"
Q9. What does it mean that we are made in God's image?
It means we are made to reflect God's goodness, wisdom and love.
reflect は「反射、反映」であって、水に映った月の影がそれだから、「投影」のように内なるものを外に映し出すというよりは、超越的な光が外からわれわれを照らすという話である。教義上もそうでなくてはならないだろう、が・・・
ここが信徒の気楽さで、公式教理を責任もって伝える立場でもなし、少々勝手に楽しませてもらっちゃおうか。(いつも、そんなんばっかりだが。)
神が御自身の思いを詳らかに述べようとするとき、そのあまりの深さ複雑さゆえ、時として「投影」という操作が必要になる。そこで地球という惑星をスクリーンとして投影された神の思いが、すなわちわれわれ人間なのだとしたら?
ちょっと嬉しくならないだろうか。
*****
つくりぬしよ みすがた目にこそみえね
つくられしものみなの うつしいだすみさかえに
かしこみて ほめまつる
(54年版讃美歌 71番)
そうなんです、僕は精神分析学会の認定する精神療法家の資格を、結局取らなかったのだ。
理屈上はこれからでも取れるんだが、別に要らないし欲しくもない。
某所で5年間のプログラムを終え、学会発表もしたから、あとは論文をひとつ投稿するだけだったのだけれど、そこまできて何だかバカバカしくなってしまった。
何がバカバカしいか、さしあたり言葉にしないでおく。そのうちにね。
精神分析とか心理力動とかいうのは実に面白いもので、これが人の心や行動の機微を説明する力には驚くべきものがあるが、そのようにこじれた現実を修正する方向になかなか作用しないことが問題だ。そこまで書いたらもう、上の話にオチをつけたも同然だけれど。
最近の難しい理論は、理解する能力もないし興味も湧かない。『自我と防衛』(アンナ・フロイト)のレベルで、単純なアタマには十分である。
「攻撃者との同一視(同一化) identification with the aggressor」あるいは単に「同一視(同一化) identification」などは、それが働いている気配を察知するだけでも、多くの不幸を回避できるはずだ。これはブログの中で何度か触れたかな。そう、その気なら確かに使える。
そして僕がこれほど同一視を重視するのは、僕自身がこの機制にきわめて多くを負っているからだ。そうでない人間はいないだろうけれど。
「投影 projection」も負けずに面白い。
原語を生かして、いわゆるプロジェクターの働きになぞらえることが、いろんな場面で役立つようである。
PC内部に格納されたイメージを外部のスクリーン上に映し出すことが投影だから、「投映」と書いてもあながち誤記ではなさそうだが、光と影のコントラストを含意して「投影」は意味深い訳語だ。
あるいは影絵の連想も良いか。自分の内にある印や形はそれ自体見ることができないが、その影が大きく映し出されれば可視のものとなり、しかも自分の内にではなく外にあるもののように思われる。『ゲド戦記』の全体は、このカラクリをテーマとしていた。
これは思弁的どころか、きわめて実践的な意義がある。
半年ほど前からだろうか、ある統合失調症の患者さんに「人があなたを笑っているように感じられるのは、実際にはあなたの心の中にある『笑われたくない』という不安の投影なのだ」と伝えている。この人は、病勢が薬で抑えられてみればもともと知的水準の高い人でもあり、この助言を生活場面でよく活用して利益を得ている。統合失調症だから利いたというわけではないが、強いて言うなら統合失調症の患者さんにしばしば見られる、純粋なまでの素直さで助言を受け入れたことが、効果を高めているとは言えそうだ。
その「投影」ということを、別の角度から考える機会が昨日あった。
『わたしたちは神さまのもの ~ はじめてのカテキズム』
問9 (わたしたち人間が)神さまにかたどって造られたとはどういうことですか。
答え わたしたちは神さまの善さ、知恵、そして愛をうつしだすために造られたという意味です。
この「うつしだす」を「投影」としてみたらどうだろう。神に内在する善きイメージの、外部への投影された映像が人の霊性であると考えたら・・・?
残念ながら、ここの原語は project ではなく reflect だ。米国長老教会発行の原文は、ネット上で簡単に閲覧できる。
"Belonging to God ~ A First Catechism"
Q9. What does it mean that we are made in God's image?
It means we are made to reflect God's goodness, wisdom and love.
reflect は「反射、反映」であって、水に映った月の影がそれだから、「投影」のように内なるものを外に映し出すというよりは、超越的な光が外からわれわれを照らすという話である。教義上もそうでなくてはならないだろう、が・・・
ここが信徒の気楽さで、公式教理を責任もって伝える立場でもなし、少々勝手に楽しませてもらっちゃおうか。(いつも、そんなんばっかりだが。)
神が御自身の思いを詳らかに述べようとするとき、そのあまりの深さ複雑さゆえ、時として「投影」という操作が必要になる。そこで地球という惑星をスクリーンとして投影された神の思いが、すなわちわれわれ人間なのだとしたら?
ちょっと嬉しくならないだろうか。
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つくりぬしよ みすがた目にこそみえね
つくられしものみなの うつしいだすみさかえに
かしこみて ほめまつる
(54年版讃美歌 71番)