2014年9月15日(月)
3週間経過、そろそろ「べてる」訪問の小括をしておかないといけない。
といっても既に「べてる」はメジャーな存在だし、取材した表情報は放送教材に盛り込むんだから、ここでは行間の落ち穂を拾っておこう。
同行のスタッフは、東京から一緒の女性ディレクターSさんと、札幌から合流したカメラのTさん、マイクのKさん、締めて4人。Tさん・Kさんのプロらしい仕事ぶりも印象的で、わずか数秒の風景撮影にもしっかり ~ 素人には長すぎると思われるほどの ~ 時間をかける。無論、彼らの頭の中には、できあがりの画面の候補映像がいくつも可能性として浮かんでおり、それを比較衡量し取捨選択する。プロ棋士が碁を打ちながら遂行する作業と酷似していると思う。マイクはマイクで、これまた別の周到さが必要に違いない。
いっぽう、ディレクターは実行部隊の長ともいえる存在で、こちらがぼんやりしたビジョンとして提示したことを、次々と具体化しスケジュールに落とし込んでいく。気働きと配慮と全体的な展望が必要で、僕などにはとてもできない仕事であるが、職歴10年余りのSさんは終始冷静に、ほどよく緊張しつつ笑顔を絶やさず、これが天職という具合に充実している。名門の日大芸術学部だが、放送ならぬ映像学科を出てテレビ・ディレクターをしているのは、ちょっとした「裏切り」なんだそうだ。
このSさんが、慧眼の持ち主である。
2日目にSST(Social Skills Training: 社会技能訓練)を見学し、6人分のセッションからどれを選ぶかと聞かれ、2人分を挙げた。そのうちのひとり、キヨシさんは「べてる」創立以来のメンバーで、僕らの領域では全国区と言える著名人(著名患者?)である。そのキヨシさんが例によってちょっとした問題を抱え、午前の当事者研究でその発生メカニズムを解明し、午後のSSTで対策を検討するという流れになった。全体の構造が見え、申し分ない素材である。キヨシさんの紹介も兼ね、ぜひ使いましょう答えた。
了解したSさんが、何だか言いたいことのありそうな表情である。やがて、
「私は素人ですから、専門的なことは分かりませんが」と言葉を選んで、
「キヨシさんは、自分が何を言えば皆が喜ぶか、よく分かって振る舞っているような気がするんです。」
思わずSさんの顔を見てしまった。その通りだ。
急いで念を押すが、キヨシさん達がまるっきり演技をしているとか、そんな話ではない。幻聴は常に彼の頭の中で響いており、それは10の中の2~3に退くことはあっても、決して0にはならない。常にこれと戦う日々が彼の日常なのである。
だからこそ、長年を経て「戦いに慣れる」ということが起きる。ベテランとはもともと「古参兵」の意味である。
キヨシさんは困難の処し方を身につけており、効果を熟知して当事者研究やSSTを活用している。それを見学者に見せることにも慣れている。僕は僕で、患者さんたちと30年近い付き合いの中で、彼らのそうした戦いぶりにも慣れている。それがSさんに敏感に伝わったのだ。
Sさんの印象に最も残ったのは、発病まもない若い当事者さんが飲水衝動と戦いつつ、文字通り右往左往する姿だった。そうでもあろう。
***
実はキヨシさんだけでなく、「べてる」そのものがある転換期にさしかかっているようだ。川村医師の語ってくれたことが、それをよく表している。
その昔、向谷地ワーカーも川村医師も若く、「べてる」がまだ世に知られていなかった頃、本当に度肝を抜かれるようなことが毎日起きた。世界の誰もまだ知らないが、こんな凄いことが起きうるのだと、新鮮な発見の毎日だった。安定し、定式化され、世に知られて評価されるようになるにつれ、当然ながら新鮮味は薄れてきたかもしれないとおっしゃるのである。
そんな「べてる」を取り巻く環境に、ある小事件が起きたのがちょうど僕らの訪問中である。
浦河日赤病院の精神科病棟が、9月をもって閉鎖されることが本決まりになった。これまで、「順調に具合が悪くなった」時には「順調に入院することができた」頼みの綱である。浦河町内に他に精神科病床はなく、今後は離れた土地まで移送入院するか、それとも入院なしでこらえなければならない。
大変だ?
大変に違いないのだが、関係者の表情は緊張にこわばることなく、困りながらも笑っている。長年にわたって修羅場をくぐり続けてきた、まさしく歴戦のツワモノたちの微笑である。
いわゆるバザーリア法のもとで、イタリアが精神病床を「捨てた」ことは大熊記者の著書などで知れ渡っているが、それはイタリアでも簡単なことではなかった。浦河は言ってみれば「バザーリア法施行下のイタリア」を他に先駆けて経験しようとしている。どういう条件があればできるのか、「べてる」ならばできるのか、新しいミッションを与えられた「べてる」新時代の始まりだ。
***
考えてみれば、「当事者研究」とは面白い名称である。「当事者」はもともと「障害をもつ当事者」(放送大学の考査は「障害をもつ」を不適切とし、「障害のある」に変更するよう指示しているが、「障害のある当事者」はちょっとヘンである)のことであるわけだけれど。
「障害」を「困難」と読み替えてみたらどうだろうか。誰でも人生の中で、一度は(あるいは一度ならず)何かしらの「当事者」になるだろうと思うのだ。そのように広げてみれば、「当事者研究」は人間が困難を生き延びるための一般的な方略を示すものになるだろう。
実のところ、向谷地家の人々は「べてるの家」の一員として生活する中で、そのようなあり方を体現してみせているように思われる。
向谷地氏自身の書いたものから引用しておく。
「あきらめる」という「生き方の高等戦術」について書かれた章の末尾である。
先日、アメリカの公立高校に留学している長女からメールが来た。
「お父さん、紗良は、ちょっとしたことで眠れなくなります。敏感なのかな。歴史の時間に広島の原爆のスライドを見せられて、廃墟にアメリカ兵が星条旗を立てる場面があってね。すると先生は誇らしげに『僕は、この場面が一番好きです』と言ったんだよ。戦争には、勝者も敗者もないはずなのに、悲しくなってずっと下を向いていたんだよ。それから、眠れなくなって。紗良は、ノイローゼになりやすいのかな。でも、いいさ、もし、本当にノイローゼになったら、べてるの家に行こうと思っているから大丈夫・・・」
さすが、「べてるの家」のメンバーに世話になって育てられた娘だと思った。あきらめ方がうまい。
(向谷地生良『「べてるの家」から吹く風』)
3週間経過、そろそろ「べてる」訪問の小括をしておかないといけない。
といっても既に「べてる」はメジャーな存在だし、取材した表情報は放送教材に盛り込むんだから、ここでは行間の落ち穂を拾っておこう。
同行のスタッフは、東京から一緒の女性ディレクターSさんと、札幌から合流したカメラのTさん、マイクのKさん、締めて4人。Tさん・Kさんのプロらしい仕事ぶりも印象的で、わずか数秒の風景撮影にもしっかり ~ 素人には長すぎると思われるほどの ~ 時間をかける。無論、彼らの頭の中には、できあがりの画面の候補映像がいくつも可能性として浮かんでおり、それを比較衡量し取捨選択する。プロ棋士が碁を打ちながら遂行する作業と酷似していると思う。マイクはマイクで、これまた別の周到さが必要に違いない。
いっぽう、ディレクターは実行部隊の長ともいえる存在で、こちらがぼんやりしたビジョンとして提示したことを、次々と具体化しスケジュールに落とし込んでいく。気働きと配慮と全体的な展望が必要で、僕などにはとてもできない仕事であるが、職歴10年余りのSさんは終始冷静に、ほどよく緊張しつつ笑顔を絶やさず、これが天職という具合に充実している。名門の日大芸術学部だが、放送ならぬ映像学科を出てテレビ・ディレクターをしているのは、ちょっとした「裏切り」なんだそうだ。
このSさんが、慧眼の持ち主である。
2日目にSST(Social Skills Training: 社会技能訓練)を見学し、6人分のセッションからどれを選ぶかと聞かれ、2人分を挙げた。そのうちのひとり、キヨシさんは「べてる」創立以来のメンバーで、僕らの領域では全国区と言える著名人(著名患者?)である。そのキヨシさんが例によってちょっとした問題を抱え、午前の当事者研究でその発生メカニズムを解明し、午後のSSTで対策を検討するという流れになった。全体の構造が見え、申し分ない素材である。キヨシさんの紹介も兼ね、ぜひ使いましょう答えた。
了解したSさんが、何だか言いたいことのありそうな表情である。やがて、
「私は素人ですから、専門的なことは分かりませんが」と言葉を選んで、
「キヨシさんは、自分が何を言えば皆が喜ぶか、よく分かって振る舞っているような気がするんです。」
思わずSさんの顔を見てしまった。その通りだ。
急いで念を押すが、キヨシさん達がまるっきり演技をしているとか、そんな話ではない。幻聴は常に彼の頭の中で響いており、それは10の中の2~3に退くことはあっても、決して0にはならない。常にこれと戦う日々が彼の日常なのである。
だからこそ、長年を経て「戦いに慣れる」ということが起きる。ベテランとはもともと「古参兵」の意味である。
キヨシさんは困難の処し方を身につけており、効果を熟知して当事者研究やSSTを活用している。それを見学者に見せることにも慣れている。僕は僕で、患者さんたちと30年近い付き合いの中で、彼らのそうした戦いぶりにも慣れている。それがSさんに敏感に伝わったのだ。
Sさんの印象に最も残ったのは、発病まもない若い当事者さんが飲水衝動と戦いつつ、文字通り右往左往する姿だった。そうでもあろう。
***
実はキヨシさんだけでなく、「べてる」そのものがある転換期にさしかかっているようだ。川村医師の語ってくれたことが、それをよく表している。
その昔、向谷地ワーカーも川村医師も若く、「べてる」がまだ世に知られていなかった頃、本当に度肝を抜かれるようなことが毎日起きた。世界の誰もまだ知らないが、こんな凄いことが起きうるのだと、新鮮な発見の毎日だった。安定し、定式化され、世に知られて評価されるようになるにつれ、当然ながら新鮮味は薄れてきたかもしれないとおっしゃるのである。
そんな「べてる」を取り巻く環境に、ある小事件が起きたのがちょうど僕らの訪問中である。
浦河日赤病院の精神科病棟が、9月をもって閉鎖されることが本決まりになった。これまで、「順調に具合が悪くなった」時には「順調に入院することができた」頼みの綱である。浦河町内に他に精神科病床はなく、今後は離れた土地まで移送入院するか、それとも入院なしでこらえなければならない。
大変だ?
大変に違いないのだが、関係者の表情は緊張にこわばることなく、困りながらも笑っている。長年にわたって修羅場をくぐり続けてきた、まさしく歴戦のツワモノたちの微笑である。
いわゆるバザーリア法のもとで、イタリアが精神病床を「捨てた」ことは大熊記者の著書などで知れ渡っているが、それはイタリアでも簡単なことではなかった。浦河は言ってみれば「バザーリア法施行下のイタリア」を他に先駆けて経験しようとしている。どういう条件があればできるのか、「べてる」ならばできるのか、新しいミッションを与えられた「べてる」新時代の始まりだ。
***
考えてみれば、「当事者研究」とは面白い名称である。「当事者」はもともと「障害をもつ当事者」(放送大学の考査は「障害をもつ」を不適切とし、「障害のある」に変更するよう指示しているが、「障害のある当事者」はちょっとヘンである)のことであるわけだけれど。
「障害」を「困難」と読み替えてみたらどうだろうか。誰でも人生の中で、一度は(あるいは一度ならず)何かしらの「当事者」になるだろうと思うのだ。そのように広げてみれば、「当事者研究」は人間が困難を生き延びるための一般的な方略を示すものになるだろう。
実のところ、向谷地家の人々は「べてるの家」の一員として生活する中で、そのようなあり方を体現してみせているように思われる。
向谷地氏自身の書いたものから引用しておく。
「あきらめる」という「生き方の高等戦術」について書かれた章の末尾である。
先日、アメリカの公立高校に留学している長女からメールが来た。
「お父さん、紗良は、ちょっとしたことで眠れなくなります。敏感なのかな。歴史の時間に広島の原爆のスライドを見せられて、廃墟にアメリカ兵が星条旗を立てる場面があってね。すると先生は誇らしげに『僕は、この場面が一番好きです』と言ったんだよ。戦争には、勝者も敗者もないはずなのに、悲しくなってずっと下を向いていたんだよ。それから、眠れなくなって。紗良は、ノイローゼになりやすいのかな。でも、いいさ、もし、本当にノイローゼになったら、べてるの家に行こうと思っているから大丈夫・・・」
さすが、「べてるの家」のメンバーに世話になって育てられた娘だと思った。あきらめ方がうまい。
(向谷地生良『「べてるの家」から吹く風』)