散日拾遺

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2月9日 モルガン、バレーボール考案(1895年)

2024-02-09 03:21:24 | 日記
2024年2月9日(金)

> 1895年2月9日、アメリカのマサチューセッツ州ホーリーヨーク市のYMCAで、体育部指導者ウィリアム・G・モルガンが、室内で多くの人が行える球技としてバレーボールを考案した。
 バレーボールの特徴は、比較的コートが小さくてすみ、専用設備も簡単なことだ。当初、ネットはテニスのものを代用し、ボールもバスケットボールなどいくつかの種類で試したという。結局は軽い小型のボールが必要だということになって、専用のボールを作ることになった。
 1896年にスプリングフィールドの体育館で公開ゲームを行ったところ、たいへん評判がよく、全米のYMCAを通じて世界に広まったという。日本では九人制と六人制が行われているが、世界的には六人制が普及しており、オリンピック種目となったのは、1964年東京オリンピックからである。この大会では、「東洋の魔女」の異名をとる日本の女子チームが金メダルに輝いている。
 モルガンがこの球技を考案した背景には、女性の社会参加が盛んになったことがあげられる。モルガン自身それほどスポーツが得意ではなかったらしい。どこでも比較的簡単にできるバレーボールは、多くの人が年齢や性別を超えて楽しめるスポーツとして世界中に普及したのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.45


 1964年の東京大会が五輪デビューとは知らなかった。当時は小学校二年生だったが、両親が白黒テレビで女子バレーボールの決勝に見入っていたのを思い出す。強敵ソ連チームには、インナ・リスカルという二十歳のエースがいた。メキシコとミュンヘンで金、モントリオールで東京に続く銀を獲得し、「カスピ海の嵐」と綽名された伝説的なスパイカーである。「ソ連のエース」としか認識していなかったが、アゼルバイジャンの出身で今は同国籍となっている。

https://ameblo.jp/zyunngilove/image-11611656105-12680360183.html より拝借

 対する日本代表は鬼監督・大松博文率いる日紡貝塚単独チームで、柔道の受け身にヒントを得たという回転レシーブに象徴される堅守で競り勝った。優勝を決めた選手たちが大松監督を胴上げする映像が、欧米の視聴者を大いに驚かせたという。当時は欧米も男性優位の時代であり、だからこそ女性に重い荷物など持たせず、力仕事もさせないのが常識であり良識でもあった。女性選手らが男性監督を胴上げする行為は、これに真っ向から抵触したのである。インパクトは思いのほか強かったのではあるまいか。その後の彼我のジェンダー状況は周知の通り。

 大松博文(1921-1978)の経歴について、Wikipedia から転記しつつ辿ってみる。
 香川県綾歌郡宇多津(うたづ)町出身。坂出商業学校から関西学院大学商学部に進学したのち、ニチボー入社。
 1941年(昭和16年)、陸軍に召集され中国・ビルマ・ラバウルを転戦。中隊指揮官を務めた際、自分より年配の兵士が指揮に従ってくれるよう、自ら率先して行動をとったという。第31師団に配属されインパール作戦に従軍。「白骨街道」とも呼ばれる悲惨な戦場からの数少ない生還者の一人である。これらの経験が、大松の性格を大きく変えることになった。
 極限までの忍耐にもかかわらず戦争に敗れ、祖国がアメリカに占領支配されたことの屈辱感から、何が何でも勝つことにこだわるようになった。勝敗に関わらず報酬を得ることが目的であるプロと異なり、アマチュアこそは勝利以外に報いも目的もないというのが大松の主張である。「愛好者」に由来する「アマチュア」という言葉に「勝利唯一主義」という特異な意味を託す、異形の指導者が大松だった。この時代、日本人の誰もがそれぞれの形で戦後を戦い続けていたのである。
 2000年、大松は白井貴子・リスカルとともに、アメリカ合衆国のバレーボール殿堂入りを果たした。かつての敵地に不滅の名を刻み、泉下の大松さぞや溜飲を下げたことであろう。


Ω

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