2015年9月21日(月)
帰宅後、一杯やりながら相撲を見、過去数日の新聞を眺める。19日(土)のオピニオン欄に、半藤一利氏へのインタ ビューが載っている。これは全文が永久保存に値する。何となく「保守主義者」で片づけてきた半藤氏だが、御本人の自己規定は「現実主義者」であるという。 ここに語られているのが現実主義なら、僕も現実主義を標榜して良い理屈だ。
文中に、知らないことが一つ書かれていて仰天した。第二次大戦中に日本の都市に対する無差別空襲を指揮したカーチス・ルメイが、戦後日本政府によって叙勲されたというのである。知らなかった、驚いた。
大多数が非戦闘員である百万に近い自国民を蒸し焼きにし、大都市ばかりか中小都市まで完全に破壊した張本人のひとりを、よりにもよって叙勲する ー しかも勲一等旭日大綬章! ー 僕らの国家と政府がどういう代物であるか、半藤氏の言うとおり現実主義の観点からよくよく検証する必要がある。岸田秀なら、患者さん達ではなくこれらの指導者の精神こそ「分裂している」と毒づくだろう。ルメイは悪逆だが一貫している。分裂しているのはこちらである。Wiki から関連情報の一部をコピペしておく。
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カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月1日)は、アメリカ合衆国の軍人。最終階級は空軍大将。第5代空軍参謀総長を務めた。
(中略)
ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対し「君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに 眠る子供の上に崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいのなら、そんなものは忘れることだ」と言い聞かせた。
(中略)
「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女子どもを殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮する? ― ふざけるな!」
焦土化作戦は東京や大阪、名古屋等の大都市を焼き払った後は、富山市や郡山市などの地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。
戦後ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を 終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。 軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」
(中略)
1964 年12月7日、勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は、浦茂幕僚長がルメ イを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査、審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われる。防衛庁から首相佐藤栄作、賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があっ た。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
ルメイが東京大空襲や 原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きい。当時、社会党、原水爆禁止団体、被爆者などから国民感情として納得できないという声 が上がった。国会でも叙勲に対し疑問視する声があった。東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきも の」と答える。小泉は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大 統領が直接指揮したものである」と説明している。佐藤もそれらを理由に決定を変える意思はないと表明した。ルメイは12月7日に防衛庁で小泉を訪問予定であったが、当日は事務次官三輪良雄が代理で面会している。
勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、昭和天皇は親授しなかった。後年『NHK特集 東京大空襲』(1978年3月9日 初回放送)でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイはその勲章を見せた。
(後略)
戦争中のこういう発言がどこまで本気なのかは分かりませんが、日本人のみならずアメリカ人も終戦を機に180度に近い転換をしたように思えます。