くりかえしの繰り言だが、出来事の多い時こそ日記は書きたいのに、書く時間もエネルギーも残らない。
不条理だ・・・
先週は、ちょうどそんな一週間だった。特に月曜から火曜にかけて。
以下、後追い日記。
6月3日(月)
朝は台湾の地震のニュースで始まった。とっさに何(ホウ)先生一家のことが頭に浮かぶ。東日本大震災の時、まっさきにメールで見舞ってくれたのがセントルイスのサラと台湾の何先生だった。
「台湾も地震が頻発するので、他人事ならず心配している」
と書いてきてくれたのだ。出がけの気ぜわしい朝だが、ともかくも2行のお見舞いメールを送る。
S君からは朝の一首、鳥海昭子
「音のない 音に聞き耳たてている 釣り鐘草のひとつうつむく」
釣り鐘草の花言葉は「感謝」。S君自身は学生の実習先を巡回指導の週とのこと、桜美林時代を思い出す。彼のエリアは群馬・栃木、同じ方向へ向かうと思うと励まされる。
Mさんからは季節の御挨拶、
「梅雨に入って、初め頃に雨が降らないのを『梅雨のなまけもの』っていうんだってね。」
「間違いました。『梅雨のずるやすみ』っていうんだって。
10時台のMAXときに乗り、二階席から風景を眺める。
欧陽脩いうところの三上(さんじょう) ~ 馬上、枕上、厠上は、今に通じる至言だ。ただ、馬の代わりに電車かバスか自家用車、要は乗り物で移動中に名案が浮かぶとしたもので、移動距離の長い都市生活者には特に貴重な時間だろう。馬上も二階なら特等席、おあつらえ向きに今日これからのアイデアがぼつぼつ湧いてくる。
欧陽脩といえば、
「おう・ようしゅう」だと、恥ずかしながら長年思い込んでいた。「おうよう・しゅう」が正しい。
「おうよう」はオウヤン、欧陽菲菲のオウヤンだ。中国の二字姓としてはメジャーなものらしい。
ついでに欧陽脩には「三多」の教えもあり、看多(多く読む)、做多(多く作文する)、商量多(多く工夫推敲する)ことが良い文を産みだす秘訣だという。秘訣とはいえないな、マトモすぎて。フローベールがモーパッサンに与えた訓戒と同じだ。
Le talent n'est qu'une longue patience. Travaillez!
(才能とは長い忍耐以外の何ものでもない。働きたまえ!)
新幹線は速い。みるみる北の山並みが近づいてくる。
「ふるさとの山」と言えば啄木の詩が思われるが、朔太郎にも印象的な作がある。
わが故郷に帰れる日 / 汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば / 汽笛は闇に吠え叫び / 火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
『帰郷』より
何で僕がそらんじているかと言えば、小学校低学年の頃に前橋に住んでいたからで、その頃わが家にかかっていた暖簾に御当地詩人のこの詩が染め抜かれていたのだ。ついでながら、僕の通っていた前橋市立桃井(もものい)小学校には、朔太郎の生家の一部が保存されていた。今はどこかへ移されたかな、きっと。
しかし、子どもが暗誦するにはどうだったのだろう、この詩には「昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る」との作者の注記がある。家庭の幸福には縁遠い詩人だった。
ほんとうにあっという間だ。9時20分に家を出て、11時には高崎、そこから30分足らずで越後湯沢。
両親が東京オリンピック見物に連れて行ってくれたときは、準急「あかぎ」で前橋から3時間以上かかった。
もう上越の山に着いたよ、さぁ仕事だ。
*****
越後湯沢駅から坂を上ってすぐのリゾート・ホテルに、関東教区の婦人会は新潟・群馬・栃木・埼玉・茨城の各県から、300人を超える参加者を集めたのだ。その動員力に脱帽する。総会に続いて行われる修養会の講師が僕の役割だが、何の、皆はリトリートに来ているのである。良い気分になりたくて集まっている人々ならば、あたりまえの挨拶をすれば自ずと良い気分になってくれるものだ ・・・ たぶん、きっと、そうだ。だから背伸びしないで、自分によく分かっている話をする。
第一日目のタイトルは『すべてを結ぶきずな』、300人を収容する大会議室に大書されている。
コロサイ書3:14に「すべてを完成させるきずな」とあるのをひねったので、ココロは「きずな」を意味するギリシア語 sundesmos (フォントが出ないよ!)が「帯」とも読めることに依ったのだ。
帯はもちろん男だって締めるし、「腰に帯を締めて男らしくせよ」という言葉のように下帯=緊褌の連想もあるのだが、ここで「すべてを完成させるきずな」と表現されている「愛」は、すぐれて女性的な表象として美しく力強く読むことができる。
教会を結び束ねてきた裏の力として、女性性という帯を見逃すことはできない。
十字架の下に最後まで留まり、主の死を見届けたのは誰か。
空の墓を最初に見出し、復活の主にすがりついたのは誰か。
女たちだ。男ではない。
・・・なんて言うと、左右両翼から十字砲火を浴びる可能性があるんだよな。左はフェミニスト、右は正統的な人々から。
知ったことか、自分は自分だ。
診療に身を置く限り、男性と女性の違いは厳然としてそこにある。本心を語って涙を流さない女性はいない。何度も面接を繰り返しながら一度も泣かない女性は、まだ何も語っていない。男性はなかなか泣かないし、むやみに泣くときは危険信号だ。良し悪しの問題ではない。生まれの違いか育ちの違いかも、とりあえずどうでもよい。こうした違いに無神経のまま臨床などできない。
で、女性の涙、おしゃべり、甘え、顕示性、世話焼き、嫉みなどから、きずなを空間的に拡げていく特性まで、思うままに語ってみる。ヨセフ不在の聖家族画が、それ自体で完結していること。そこであらためて男性という存在の意味が問われること。
その文脈で、ミケランジェロのモーセ像を掲げてみた。空間的に完結している家族に、時間的な展望と意味を付与すること、歴史を作り出すこと、近代文学の中で、ほぼすべての長編小説が父と息子の葛藤を主題としていること、ここまでくれば聖書そのものの「解釈」まであと一歩だが、それは今日のテーマではない。
ああ疲れた。皆、よく聞き、よく乗ってくれた。
部屋に戻るとさっそく訪問者あり、ドアを開け放って立ち話に聞く。
去って後、あらためて室内を眺めれば広々としたツイン・ベッド、卓上にはチーズやハムを満載の大皿が、ねぎらいの言葉とともに置かれている。とても一人で食べる量ではないので、男性部屋にひきとってもらう。
「これが越後のおもてなしですよ」
と、若い髭の牧師が笑って教えてくれた。