散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

ニライカナイと better place

2018-06-10 15:03:45 | 日記

2018年6月11日(月)

 ブログに寄せられるコメントを、最初は自動的に公開される設定にしていたが途中から要許可に変えた。悪意ある/非建設的なもの ~ 滅多にないとはいえ ~ を弾くのが目的だったが、コメントの送り手があからさまな公開を望まない場合などにも有用である。こちらがそう思い込んでいるだけかもしれないが。

 本日の送り手さんは、祝福の在り処を天に委ね「人間同士の裁き合いに心乱れる小さな自分を脱する」ことを願っている。「天爵」という言葉を連想した。願いが叶うことを切に祈る。真剣に願う価値のある、数少ない願いの一つである。

***

 ニライカナイは東方の海上にある楽園で、沖縄の人々の魂はここで誕生しここに帰る。それを七回繰り返すと親族の守護神に昇格するが、それもニライカナイで起きることである。

 いわゆる「他界」の典型と見えるが、ある人によればむしろ「異界」だそうだ。両者の異同は微妙で興味深い。他界でもあり異界でもあると言えば言い抜けられそうでも、「それって要するに異界でしょ」とも言われそうで。いずれにもせよこの海は、原初の想像力に似つかわしい美しさと大きさに満ちていた。現実にその海からやってきて居座ったのは、こともあろうに米軍だったが。それでも1977年には、あたかも沖縄全体がひとつの異界のように思われた。今は完全に「こちら側」である。

*** 

 1994年から1997年にかけての留学先の研究室に、ジョアン・ラブリュエール(Joann Labruyere)という女性がいた。有能・慧眼の技官としてジョン・オルニー(John Olney)の研究室を支え、私生活ではいかにもポーランド系らしい敬虔素朴なカトリックの信徒だった。Labruyere という姓はフランス系の御主人のもので、推測通り彼もまたカトリックだと後に知った。

 ジョアンのお母さんは認知症に陥って施設に入っており、糖尿病を併発して体の具合も良くなかった。ある日、仕事中に電話がかかり、ジョアンが珍しく血相変えて出て行った。それが確か金曜日のことである。週明けの研究室に彼女の姿があり、いつも通り穏やかな様子だったので、てっきり持ち直したものと安堵した。「お母さんはどう?」と声をかけたら、静かな声で返事があった。

 "She passed away."

 表情には微笑さえ浮かんでおり、てっきり自分の耳が間違えているのだと思った。やがて澄んだ緑の瞳のまわりが微かに赤らみ、間違いではないと知った。

 "Thank you for asking, Masahiko, she is now in the better place."

  better place という言葉をその後も何度か聞くことになる、たぶんこれが初めだったと思う。

 "Gone from the earth to the better land I know,"

 中学時代に音楽の授業で教わった "Old Black Joe" の一節である。ジョアンも親戚や友達から「ジョウ」と呼ばれていた。そのジョアンが、ずっと年長のオルニーに続いて2016年に他界したこと、想像だにしなかった。ジョアンの訃報は所属教会の関係でネットに公告されている。お母さんと同じ better place に移されたのだ。オルニーは僕の問に対して無神論者だと答えた。葬儀はどのようにしたのだろうか。

***

 俳句には観察(力)が必須であるということ、理論化と宣布は子規に待つとしても、そもそもの本質にあるのだろう。観察自我の働きといってもよく、脳トレに格好なのに違いない。

 それで思い出したのが、やはりセントルイスでのこと。渡航直後のある日、Mac のノーパソ上で日本語文を打っていたら、目ざとく見つけて騒ぎ出したのがマイクル・セズマである。このやんちゃな男は母親が日本人で日本に住んだことがあると称し、「弁当」とか「便所」とかときどき単語だけ口にした。だから猶更かもしれないが、1994年当時 Mac のOSの日本語版(非欧米語版?)が米国人によほど珍しかった証明ではあろう。

 ともかく騒ぎの好きなマイクがいつもの倍ぐらい大騒ぎして、向かいの部屋のマデロン・プライス(Madelon Price)をわざわざ呼んできた。こちらは、目から鼻に高速道路が通っているようなユダヤ系女性教授だが、声の大きさはマイクに負けない。駆け込んでくるなり画面の日本語を見て、人の頭上で節をつけて叫んだ・・・

 "Oh, I am so impressed!"

 この言葉の不思議にこちらの頭がフリーズした。

 和訳するなら「あれまあ、何て面白いこと!」とでもなるのだろうが、英語のそれは"Oh"を取り除けば、「私は強い印象を受けている」という観察文でもある。それが驚きだったのである。すべての場合に当てはまるかどうかはさておき、英語は主観的な感動を表す場合にも観察が並起する。対する日本語は「まあ、きれい!」式の即自的な没入が本線であろう。ここを起点に何か言えたりしないだろうか。

 結局何の展開も起きはしなかったが、この時の不思議の感覚がマデロンのよく通る声とともに、今日までずっと記憶に残っている。即自的な感嘆を身上とする日本語が、俳句において透徹した観察を求める面白さを、今は思う。

 マデロンは健在らしい。

Ω


C'est la vie

2018-06-10 13:30:34 | 日記

2018年6月10日(日)

 C'est la vie

 昨夜、ちょうどこの辺りで  地上の座標に即して言えば ~ 凶行が起きた。その4時間ほど前に三男が通過し、今は自分が同じ径路を西行している。「西下」とは言わずにおこう。「日本一」よりも「大阪一」の方が義父にとっては格上だった。

 俳句をよくする人々は、こういう時にこそ吟じるのだろうか。先日Y先生から思いがけずお褒めをいただいた。「思いがけず」は半ば虚辞で、お人柄を考えれば必ず褒めてくださるものと分かっていたが、具体的なお言葉は思いがけないもので、日に一句といわず二十句を、とお勧めくださっている。

 Y先生の閾にあっては行住座臥、生活しながら句を生んでおられるのだろう。僕などは時々その気になったとしても、わざわざそのための時間と脳領域を動員して無理やりひねり出すのだから、句もものした日には余事は何もできないことになる。基本姿勢が違うから到底同日の談ではないと嘆息するけれど、もちろんY先生も初めから今のようではなかった理屈だ。

 訃報が入ってバランスを崩しかけた時、まずは一本電話をかけた。それから ~ 診療日だったので ~ 仕事に集中を心がけたが、未熟者でなかなかいつものようにいかない。いま聞いたはずの話がどこかへ逃げている。昼休みに関係筋にメールして週末の予定を調整した。次々と入ってくる返信がそれぞれの人柄をいみじくも表し、それを観察し値踏みしている自分がある。これまで逆の立場で値踏みされてきたことを思えば、冷や汗を禁じ得ない。

 こんな時Y先生なら作意を動員するまでもなく自ずと句が浮かぶのだろうか。それがこの時間を耐えやすくするということがあるのだろうか。こうして書き散らしている自分は、俳句という形でなくとも似たことをしている、のかもしれない。

 なぜか、還暦にあたって抱いた決意のようなものが再び浮かんできた。今後は気に入った相手と、飲みたい酒だけを飲もう。そう決めた昨晩、北海道から上京中の院生と初めて酌み交わした。いい酒だった。

***

 昨年お父上をみとったFさんが、僕の事情は知らぬまま語っている。Fさんは家族と住んでいるが、中でもいちばん心を許す相手は一羽のウサギである。その共感力の驚くべきことは、既に何度も聞いてきた。しかしウサギも歳をとり、その速度は人間よりずっと早い。外へ出たがらなくなり、何でもないところで転ぶようになり、うつらうつらする時間が日毎に長くなってきた。

 けれども、

「同じなんだ、って思うんです。いずれあちら側に移るとしても、もういくらかあちら側にいるんだとしても、変わらないんだって。それは父の時とも同じで、父は目には見えないけれど、やっぱりここにそれは父が亡くなる前から感じ始めたことで、それが間違っていなかったって思うんです。同じことを今また感じていて

***

  そういえば昨日は懐かしい言葉を久しぶりに聞いた。

「本人は、お薬をのむと太るからいやだって言うんだけど、あたしからすればのまない時の、ひどい荒れ方がこわくて仕方ない、百貫デブになったっていいから、お願いだからのんでちょうだいって、」

「百貫デブですか」

 思わず復唱したら当人が笑い出した。放送禁止用語であろうことは間違いないし、だいいち若い人は意味がわからないでしょうね、ヒャッカンてどう書くの、回転寿司を百巻食べて、それで太っちゃうってこと?等々。面接の場に笑いは必需品であり、それでこちらも慰められる。このあたりに句材はヤマほどあるのだろう。

 まもなく名古屋、降り支度のアジア系の若者たちが僕の知らない言葉をしゃべっていると思ったが、訊けば韓国からだという。アンニョンイカセヨ、新大阪止まりの車内はがらりと空いたけれど、句の浮かぶ気配はさらにない。

 

Ω