散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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春先の庭

2015-03-24 12:52:05 | 日記

2015年3月16日(月)-18日(水)

 

 この時期に帰省することは珍しいので気づかずにいたが、春先の庭は実に良いものだ。生命の大合唱の開幕前、期待に満ちた静けさなどと言ってみようか、ともかく穏やかで心地よい。

  何がといって、庭につっ立ってても、草むらに分け入っても、蚊が寄って来ない。それだけで非常に気分が良い。蜂もいないから、蜂毒に感作されている僕には ありがたい。おまけに日差しが柔らかで疲れが少ない。やや肌寒いのが力仕事には都合良く、よほど働いてもうっすら汗ばむぐらいのことである。木々もほとん ど芽吹いておらず、整枝・剪定に都合が良い。それにまかせてこの時季に刈り込むのが正しいかどうかは、別の話だけれど。

 今年はまだ聞かないなと思っていたら、まるで伝わったみたいにウグイスが鳴いた。あの小鳥の喉から出る声が、どうやってこんなに広く遠く鮮やかに響くんだろう。里の隅々まで春を告げている。

  天気が好く気分の良いのにまかせて一日庭をいじり、合間に飛び地に往復して甘夏柑をもいで運び、楽園の一日。動き回るのが楽しいので、夜はあっという間に 沈没してしまい、相変わらずブログが更新できない。帰京日になって、ようやく雨が降った。思い出したように疲れが湧き、腰のあたりが妙に張っている。

 

 「もう私らにねだるのも最後かもしれんよ、何かある?」と母。まもなく誕生日である。

 「必要なものも、ほしいものも、僕はすべてもらった。ありがとう」と答え、直ちに後悔した。これでは幕引きみたいなものだ。

 「物は要らないから、ひとつ協力してほしい」とあらためてねだってみる。

 うん、それが良い。

 


桃源郷補遺 ~ 竹を割っても餅が出ること/手もみ茶

2015-03-24 12:09:14 | 日記

2015年3月15日(日)の補遺

 

 以前に書いたことがあるが、愛媛県はブーメラン型に細長くて、東予・中予・南予と辿っていくと風土にも人情にも相当の広がりがある。おまけに、高知や徳島がほぼ一藩一県に近い歴史的一体性をもっているのに対して、愛媛は雑多で多様な小藩の糾合体であったりする。

 南予・松野町の講演に今治から参加してくれる人があったのは、そんな意味ではちょっと面白く嬉しいことである。てなことを話しながら、宇和島までの車の中でWさんが教えてくれたこと。

 東予人は香川や関西に近くて、良くも悪くもさっぱりしているが、南予の人間は「竹を割っても餅が出る」んだと。聞いたTさんが運転するハンドルから両手を離して受けていたから、さほど一般的な言い回しではないんだろうけれど、何しろ面白い。

 ねっちり、もっちり、情が濃いのだね。

 

***

 

 お土産の宝箱の中身、母がことのほか懐かしがったのが、「手もみ茶」だった。どういうものであるかは下記に譲るとして、戦前期に母の母などは、自宅で手もみして手もみ茶を作っていたことが懐かしいのである。

 さっそく飲んでみると、なるほど美味しい。河原で春風を嗅ぐような野趣があり、いくらか中国茶(鉄観音)を思わせるような渋みである。そしてこの茶葉であれば、茶を出したあと食べられるともいうのだ。松江時代に、中海の白鳥に餌を送るからと、家庭の茶殻を小学校で集めたっけな。白鳥ならぬ人間様がいただける良質の茶殻が残るのだ。

 さほど高価でなく手に入るものなら、これを常用してみたいと思うが、下記のような事情だとそう簡単ではなさそう。ときどきの贅沢か。

 

 「手揉みは煎茶本来の製法。摘んだの若芽の飲用成分を抽出し易くし、かつ保存性を高めるために、まずこれを数秒から数分間蒸した後、焙炉(ほいろ)と呼ばれる40℃から50℃に加温された台の上で、手で茶葉をほぐす、こねる、揉むなどの作業を行って乾燥させながら煎茶に仕上げてゆく。

 手揉みにはの産地毎に数多くの流派がありそれぞれに手順が異なるが、総じて1回に煎茶数百グラムを得るのに4時間から7時間を要し、力を使う重労働であるために後継者が不足している。また、手揉みを生かすだけの質の良い茶葉も入手しにくくなっているため、希少価値は高まる傾向にある。

 出来あがった手揉み茶は針状で艶があり、湯を注ぐと元の茶葉の形が現れる。その茶は山吹色で、手揉みならではの深い香りと味わいがある。」 ~ Wikipedia

 

〇 手揉み茶永世名人の技を紹介(相藤農園) http://www.aitou.jp/temomi.htm

 


桃源郷/予讃線有情

2015-03-24 11:16:54 | 日記

2015年3月15日(日) 振り返り日記の続き

 

 Wさんは松野町の上級保健師なんだが、同時に放送大学の学生でもある。こういう頑張り屋さん たちが、放送大学の不動の主役だ。昨年4月、松山での僕の面接授業に出席、その帰り際に「松野町まで話にきていただけませんか?」と質問された。「はあ、 喜んで。足代さえいただければ、それで構いませんので」という返事は、ちょっと失礼だったのかな・・・

 Wさんは、ちゃんと足代を工面してくれた。ならば僕の方に断る理由は何もないのである。ただ、「精神疾患の話」という当初の提案は、現場の実情と関係者の力関係で「認知症」にシフトした。認知症も精神疾患には違いないけれど、認知症の専門家なら他にいくらでもいる。

 「いいんですか?通り一遍の話しかできませんよ?」

 「いいんです、通り一遍の話で。」

  釈然としないなどと、こういう時は言わないものだ。Wさんは二日間みっちり僕の脱線だらけの話を聞いてくれている。その人が「いい」というなら、信用する ものだ。というわけで今回の松野町詣でになったのである。しかし、まさか町長さんや教育長さんまでお出ましとは思わなかった。僕が思っていたより、ずっと 大事な講演なのだ。

 車の中で、Wさん・Tさんからいろいろと話を伺う。和太鼓をなさるというTさんが、ときどきハンドルから両手を離して 手振り混じりに説明してくださるのが、ちょっと恐いような。松野町は例の合併狂騒曲を幸か不幸か生き延びて、結果的に愛媛県最小の町となった。人口 4,300人、若者は減る一方で、昨年の出生数が15人内外、老老介護の現実は他所と全く変わらない。そして潜在的無医地区である。「潜在的」というのは 自治医科大学の卒業生が2名来てくれているからで、この若い医師らが非常によくやってくれているという。それで片づかないことは宇和島頼みになるが、そも そも南予全体に精神科医はてんで足りない。

 町民が必要としているのは、講演者ではなくて医者なのだと、申し訳ない気持ちになる。 70~80人ぐらいのつもりだったんんですけど、100人ぐらいになりそうです、とWさん。ただ、この雨降りでどうなりますかと語らっていたが、フタを開 けたら会場の大会議室が一杯になった。150人ほども集まっているという。高齢の方々だけでなく、壮年・青年の男女の姿も少なくない。始める前から何だか 胸の詰まる感じがする。人口4,300人の地方の町の未来は、実は日本社会の未来そのものではないか。

 

 1時間余りの持ち時間の、前半を認知症、後半をうつ病に充てる。前半では予定通り、池下和彦さんの詩を紹介した。

 『いいちがい』

 ぼくをよぶつもりで

 ここにはいない息子の名前を口にする

 いいちがいに気がついて

 それから僕の名前をかんがえる

 目のまえにいる僕の名前など思い出さなくていい

 ここにはいない息子を呼ぶため

 母には覚えておく名前がある

 

  これ、すごいのだ。「目の前にいて、毎日面倒見てるボクの名前を忘れて、なかなか顔も見せない兄/弟の名を呼ぶのか」と考えたら、口惜しくも忌々しくもな るだろう。しかし考えてみれば、目の前にいて手で触れることのできる相手なら名前は要らない、手を伸ばして触れれば良いのだ。そこにいないものを自分の中に保っておくためにこそ、名は必須である。

 そこに気づいた池下さんが偉い。気づけたことが素晴らしい。このような知恵を「共感的理解」と呼ぶのだ。認知症に限らず困難をもつ相手の援助を、このしなやかな知恵がどれほど生き生きとさせることだろうか。

 

 こんなことを夢中で話すうちに、1時間あまりがあっという間に過ぎた。質疑応答、5人ばかりが代わる代わる立って、鋭い質問やら心に沁みる体験やらを語ってくれる。質問者は女性ばかりで、少し煽ってみるが奥ゆかしい南予の男性はなかなかマイクを握ろうとしない。質問者の中に今治から来た人がある。松野町の医療圏は高知県にもまたがる。狭くて広い四国が会場につまっているようだ。

 最前列に陣取った年輩の女性が、「私は言いたいことがあるけんど、皆の前で話したりはせん。先生、後でここへ」と野太い通る声できっぱり指示し、また会場が和む。何も特別なことを話しもせず、しかしわかりきったことをこうして語り合うのが尊いのだと、いつになくそういう気がする。

 人口4,000余の松野町も、千数百万の東京都も、抱えている問題のキモは実はまるで同じなのである。こうした町に元気が宿り、それが日本の原型になるような時代が来ないだろうか。巨大なアメリカの原型を Clarksville の小邑に見たことを思い出す。「細胞」と喩えてもよい。細胞が健康を取り戻すには、自然に抱かれた地方の力がどうしたって必要なはずだ。

 終了後、町長さん、教育長さんはじめ、皆が総出で送ってくれた。渡された小さな箱は、先に種明かしすれば松野町のお宝がぎっしり詰まったお宝箱で、地酒・酒粕から梅干し・漬け物・手ぬぐい・和菓子の類いまで十七福神というような賑わいである。

 

 宇和島まで送ってくれる道々、WさんとTさんが虹の森公園へ案内してくれた。小ぶりながらよく整備されたアミューズメントサイトで、「おさかな館」やガラス工房で長居するゆとりのないのが残念である。かつては町を挙げて桃を植え育てていたというが、山にも里にも桃が満開の眺めはさぞ圧巻であったろう。今は「桃源郷マラソン」に名を残す、なるほどこの地には何か桃源郷の香りがある。

 ガラス工房の作品には小さく息を呑んだが、残念ながらカメラをもたない。虹の森公園のURLだけ記しておく。

 http://www.morinokuni.or.jp/

 

***

 

 さすがに疲れた。今日の行程や講演に疲れたのではない、気持ちよく仕事して心からもてなしていただいたおかげで、半年の疲れが出てきたのである。この足で松山を北へ過ぎ、両親の様子を見に行くのだが、帰途はまたたくまに居眠りに落ち、菜の花も大洲のお城も記憶にない。

 内子町で海外からの団体が乗り込んできた。中国語に聞こえたが、台湾からだという。台湾語でもサヨナラは再見なのかな、おぼつかないまま言ってみたら、笑顔で同じ言葉が返ってきた。

 JR柳原駅では19時も過ぎ、むろんとっぷり暮れている。最後に失敗、宇和島で松山までの切符を買い、車内で乗り越し精算するのを忘れていた。

 柳原は無人駅である。その向こうに向かえに来てくれた父の車が見える。やれやれと歩き出すと、2両編成のワンマンカーから降りた運転士兼車掌さんに「切符をいただきます」と前を遮られ、飛び上がった。

 「あ、ごめん」「乗り越しですか?」

 運転席へ駆け戻り精算機を取ってくる。360円。千円札を渡せば良かったのに、ちょうどあると見て渡したつもりが、「これは50円玉ですね」、あと50円、10円玉に5円玉に1円玉5枚、何をやってるのこの父ちゃんは・・・

 車内灯とほの暗い街灯の下で、1円玉を地面に落としたりしながら過ぎる時間の長く感じられること。無事終了、2分ぐらい電車を遅らせたかな。運転士に会釈して手を振ると、しっかり敬礼を返しながら闇夜に向かって発車していった。

 


菜の花満開

2015-03-24 11:16:19 | 日記

以下、書き始めてから10日近くも経ってしまった。その都度けりをつけておかないと、と分かっていてもなかなかできない。つくづく昔の人は偉かった。

 

2015年3月15日(日)

 午前1時00分、翻訳原稿いちおうの完成版を編集者にメール添付で送る。便利に・・・なったんだろうね。しかし、ツールが便利になる毎に、ひとりあたりの実質労働量は増すというのが、ほとんど社会法則である。1980年頃だろうか、FAXが職場に入ったときにその指摘があった。メールはその傾向を幾何級数的に加速している。

 

***

 

 午前5時のアラームでどうにか床から這い出した。有り難きは心優しい配偶者、羽田まで車で送ってくれる。日曜の早朝、空も穏やか道もがらがら、22分で出発ロビー前に着いた。電車だったら荷物を引きずって1時間超だ。

 保安検査場Aを5分あまりで通り抜け、目ざすゲートはほとんど目の前だ。いつも松山行きは延々歩かされる。これも早朝の功徳だろうか。搭乗のアナウンスも常より早めで、要するに混雑さえなければ物事はスムーズに流れるということか。途中も大過なく、ただ小雨の松山空港に着陸の際、いつになく機体が小揺れした。ここは、かつてYS-11が墜落して50名がなくなった場所で、いつも少しだけ気になるのではある。調べてみると、1966年11月13日とある。僕は松江にいた頃か。

 空港リムジンでJR松山駅に着いたのが9時30分、宇和島行き特急の発車まで45分ある。駅前をほんの少し入ったところに「時計台」という珈琲店があり、そこで一服。洒落た店内で、近隣の高齢者やワケあり風の男女が語らっているのは、どこも同じ風景だろうか。

 特急宇和海、3両編成のディーゼル車、そして単線。伊予路はこうでなくちゃ。松山から南へ、霧雨は「あいにく」と表現すべきなのだろうが、今朝の自分にはこのうえなく好もしい。この半年、いつも締切に追い回されてきた。それで自分の内部まで忙しくさもしくしないことに、相当のエネルギーを費やしてきたのである。今日この仕事が終われば一段落、いやさ、既に準備の時間は終わっているのだから(「準備が」終わっているかどうかはともかく)、もう終わったのと同じだ。

 軽く虚脱した感じの、睡眠不足で朦朧とした頭に、霧雨で煙る田園はとてもとても似つかわしい。その中に、満開の菜の花が浮かんでいる。重信川のほとり、大洲の瀟洒な小城、宇和海沿いのきりたったミカン畑、景色が改まる毎に、一面黄色の菜の花畑が浮かんでいる。思わず声を出さずに口ずさむ、歌を教わっているのはありがたいことだ。

 

 菜の花畑に入り日薄れ / 見渡す山の端霞ふかし

 春風そよ吹く空を見れば / 夕月かかりて匂い淡し

 

 何も言うことない、見事というほかない。欠けたものがあるとすれば、僕が2番の歌詞を知らないことだけだ。

 

 里わの火影も森の色も / 田中の小径をたどる人も

 蛙の鳴く音も鐘の音も / さながら霞める朧月夜

 

 そうか、この歌の主景は「朧月夜」であって、菜の花畑はその舞台にすぎないのだ。でも、いいよね。僕だけではない、この歌の愛唱者は朧月に劣らず、満開の菜の花とそこを吹き渡る甘い春風を、まず思うはずだ。そういう風景を知っていればだけれど。

 朧な頭でくつろぐこと1時間15分、定刻にわずかに遅れて宇和島駅に着く。保健師のWさん、Tさんが満面の笑顔で迎えてくれた。

 

(http://www.begets.co.jp/doda/archive_2/128.html より拝借)