ヒジュラ暦1427年ジュマーダー・ル・ウーラー(5月)12日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日) |
昨日、クルアーンの第75章第14節を取り上げたところで出勤時間になってしまいました。
なんだか最近、自分の意志の弱さを思い知ることが多く、「こんなことでいいのか、俺は?」と自問自答する毎日です。
今まではなんとなく、「ムスリムになったからクルアーンを暗記するぞ!」とか「よっしゃ、今日は仕事休みだからモスクに行くぞ!」など、どちらかというと「形」にこだわっているような部分(もちろんそれも重要なのですが)が強かったのですが、自分の日常にイスラームが浸透しているかどうか自問自答したときに、「はい」と答えられない自分を発見してしまいました。
というわけで、昨日とりあげた「第75章(復活章) 第14節」を読みながら「最後の審判のときもそうだけど、日常生活でも自分の行為の証人は最終的には自分だよなあ。たまには自分の言動について自問自答しないと」などと思った次第です。
ジャン・ジャック・ルソーは『エミール』の中で、「知人の家に遊びに行ったときに、その家の奥さんの大切な櫛がなくなった」というエピソードを紹介しています。
ルソーは櫛を盗んだりしていないのに、困ったことに状況からしてルソーがうたがわれざるを得ず、さらに困ったことにその家のみなさんが疑っているのがミエミエなのに、何事もなかったようにルソーに接してくれるものだから、弁解もできずにかえって気まずいぞ、おい…というお話です。
ルソーは「周りに理解されない真実もある。結局自分のことを一番わかっているのは自分なんだから、自分の行動については自分自身で責任をもっていくしかないなあ。ああ人間って孤独!」という結論を出します。えらくテキトーな要約ですが。
アッラーには見られているにしても、「人間は自分自身に対し証人である」という言葉は「その通りだよなあ」と納得する今日この頃という次第です。
たとえば以前のエントリで、「昔の恋人さんと久しぶりにはなしができてわだかまりが溶けた」なんていうのは、とてもイスラーム的な日常だなあ、いいなあ、などと、私は思いましたよ。世の中ほとんどの人間が(私含めて)、沢山のわだかまりを大なり小なり抱えて生きてるんですから...
梅雨が終わったら海にでも行って夕陽に吠えるが良いさ。なんか脈絡のないコメントですみません。
確かにとことんこだわってみたら、なにか違うものも見えてきたってことありますね。
今度はメヴラーナにでもハマって、こだわってみようかな。
『神秘と詩の思想家 メヴラーナ──トルコ・イスラームの心と愛』…今日、この本を予約しに行こうかと思っています。
この本を読めば、ね~さんに次第に近づけるかな?
脈絡の無さではひけを取らないながらも、さりげなくコードをひそませてみました。
コード流行りなので乗り遅れないようにしなきゃ。
(ヤバかったらコメント削除しますので、ご一報ください)